第四話 追憶の旋律を鳴らして

 ──「やあ、ロレッタ、今日は何の用だい?」


 微笑むイシュマーの顔を、少し緊張してロレッタは見詰めた。


 精霊種は人間より外見の特徴が顕著けんちょに表れる種族であるらしい。


 では、〈水精霊ニンフ―〉はどうかというと、見目麗しい女性が多数を占める種族である。


 そして、少数の男性も見た目ではほぼ区別がつかないと言われている。


 少し前、ロレッタは興味本位でイシュマーに聞いてみた。


 ロレッタとしては特に大した目的のない、他愛ない会話の流れだった。

 だが、イシュマーはふと意味ありげに微笑んで、ロレッタの頭をなでたのだ。


 いつものように子供の頭をかいぐるようなものではなかった。

 ロレッタの金色髪を労わり、愛でるような手つきで、切れ長の目でこちらの顔を流し見て──


 ──「ロレッタはどっちだと思う?」


 そう問われた途端、ロレッタは耳の先まで熱くなった。

 すぐにくるりと回れ右をして灯台を飛び出し、家へ逃げ帰った。


 その夜は一晩、どきどきして寝付けなかった。

 しかし、明け方頃にロレッタはふと冷静になり、ベッドの上で、あれが上手い事はぐらかすイシュマーの手管だったのだと気付いた。


 悔しさのあまり、イシュマーに見立てた枕をぼこぼこに殴りつけていた。


 そんな遺恨もある間柄ではあったが、ひとまず今は忘れることにする。

 ロレッタはイシュマーの勧めてくれた椅子に腰かけて口を開いた。


 「今日、舟を出したいんだけど、どうかな?」

 「ふむ?」

 「……できれば、一人で」


 ロレッタが声を潜めると、イシュマーはほっそりとした顎の線を指の腹でなでた。


 「何か理由があるのかい?」

 「……この事は誰にも口外して欲しくない」


 「特に、父さんには」とロレッタは念を押す。

 すると、イシュマーは切れ長の目を細めて、ロレッタを見詰めた。


 「理由を聞いても?」


 ロレッタは一瞬迷ったが、イシュマーなら何か知っているかもしれないと思い直して、鞄に入れて持ってきていたオルゴールを近くの卓に置いた。


 「これ……父さんが物置に隠してたんだけど、どういう物だか分かる?」

 「ふむ?」


 イシュマーが身を乗り出して、箱に手を触れる。

 「中を見せてもらってもいいかい?」と丁寧に尋ねるのに、ロレッタも異を唱えずにうなずいた。


 「オルゴールか……中の部品からはかすかにだけど、魔素を感じる。おそらくは〈鉱精霊ドワーフ〉の職人が幾つかの部品を手掛けて、それを組み立てたのだろうね」

 「魔法のオルゴール、ってこと?」


 自分の想像以上に貴重な品のようで、ロレッタは思わず身を乗り出した。

 だが、イシュマーは「さてね」と思案げに顎に指を当てた。


 「これがどういった目的で作られた物かによるね。随分古い物のようだし、何か記念として造られ、長く保存できるように、そういう部品をわざわざ使ったとも考えられるし……実際に鳴らしてみない事にはなんとも言えない」

 「実際に鳴らしてみないと、このオルゴールに込められた魔法は発動しない?」


 「そうだね」と、イシュマーがうなずいた後で、銀灰色の瞳を細める。


 「何も起こらない、って可能性も高いと私は思うけどね」

 「それが分かっただけで十分。実はこれを鳴らすのに邪魔が入らないように、舟を出したいんだけど……」


 ロレッタが意を決して打ち明けると、イシュマーは形の良い眉をかすかに寄せた。


 「君の父さん……カルドスは、このオルゴールを、ロレッタ、君から隠して遠ざけていたのだよね?」

 「そうだけど……」

 「ロレッタは賢いし、カルドスは分別のある男だ。……理由もなくそんな事をするはずがないと、ロレッタも分かっているよね?」


 イシュマーが穏やかに順序立てて尋ねるのに、ロレッタはうつむいた。

 口ごもりつつも、ロレッタはぽつぽつと口を開いた。


 「分かってる。でも、それ、多分……あたしのお母さんに縁のある品で……私、一回だけでいい。それの音色聞いてみたいんだ」

 「…………」


 ロレッタは椅子の上に腰かけたまま、うつむいた。


 「これまで母さんのことは顔も思い出せなくて、それで何不自由なく暮らしてきて今更……って自分でも思うけど」


 思い詰めた表情でつぶやくロレッタにを気遣うように、イシュマーはそっと端整な顔で小さくかぶりを振った。


 「〈翠緑の港〉の人々は親切だ。これまで何不自由なく生きてきたとて、それは周りの人の優しさ故であって、君が後ろめたく思う必要はないよ」

 「うん、ありがとう。……でも、それにね、父さんがいい顔をしないなら、余計に知られたくない。……実はちょっと最近、父さんとうまくいってなくてさ……」


 ロレッタは気まずげに頬をかいた。

 イシュマーはこういう話を穏やかに聞き入れて、そして必要とあらばそれを自分の内に留めてくれる相手だ。町でも人望のある父を相手にそんな事をしてくれる相手はイシュマー位しか思いつかなかった


 「だから、今は何も聞かずに協力して欲しいんだ」


 それを聞いて、イシュマ=は若干、煩悶はんもんするような素振りを見せた。


 「そのオルゴールに込められた魔法がどういった物か分からない。何か危険な作用をするものかもしれないし……」

 「危なくなったらすぐ戻ってくる。決して周りの人を巻き込まないと約束する」


 ロレッタが言いつのってなお、イシュマーは迷っていた。

 しかし、十分に思案した後で、やがて一つ息を吐いた。


 「……灯台のすぐ横の岩場を下りて行った先に、私が普段使っている小舟が泊めてあるよ」


 イシュマーがそっと告げた言葉に、ロレッタは顔をぱあっと輝かせる。


 「ありがとう!」

 「その小舟に乗っていけば、町の人に気付かれないで海に出られる」


 「でも……」と、イシュマーは腰に手を当てて、色の薄い唇をきっと引き結んだ。


 「分かっていると思うけど、入り江より先には出ない事。急に深くなって、潮の流れも速くなっているからね。後、さっきロレッタ自身も言った事だけど、何かあればすぐに灯台へ戻ってくるようにね」


 そうイシュマーが言い含める言葉に、ロレッタは「うん」と殊勝にうなずいた。

 ロレッタも決して、町の人を騙したり、イシュマーを困らせたいわけではない。


 しばらく、イシュマーはじっとロレッタの碧色の瞳を見詰めていた。

 しかし、やがて根負けしたように、ふうっ、と一つ息を吐いた。


 「それさえ守ってもらえるなら、今日は潮の流れも穏やかだし、ロレッタの好きにしたらいいさ」


 イシュマーのお墨付きをもらってロレッタは立ち上がり、きびすを返した。

 部屋を出る間際、美貌の〈水精霊〉の灯台守を振り返り、にっと笑みを浮かべる。


 「ありがとね。……それと、この間のことだけど、あたし、イシュマーが男でも女でも優しくて親切だから、好きだよ」


 そう言われて、イシュマーはきょとんと切れ長の目を大きく見開いた。

 しかし、次の瞬間には愉快そうに笑み崩れてロレッタを見送り、再びハープをつま弾き始めた。


 「そいつは嬉しいね。私も、ロレッタは元気で素直な、良い子だと思うよ」

 「あはは、そんじゃね、イシュマー。また今度おやつ持ってきてお茶しようね」


 そう言い置いて、ロレッタは灯台のらせん階段を下りていった。


 〇


 イシュマーの言った通り、灯台のある岬の岩場を下りていった先に、小さな桟橋とそこにもやい綱を掛けられた小舟が、緩やかな波に揺れていた。


 オルゴールを持ったままボートの上に飛び乗りもやい綱を解く。

 ロレッタは櫂を手に取り、暖かな色をした〈翠緑の港〉の海に漕ぎ出していった。


 〈翠緑の港〉のある岬は入り組んだ海岸線の大きな入り江の中にある。


 そこから更に沖へ進むと群青色の深い海が広がっている。

 岬の周りの浅い海の色とははっきり区切られていた。

 イシュマーの言う通り、海の言う絵を綺麗に塗り分けたその境界線を越えると潮の流れが速く、複雑になるので小さな舟で近づくのは危険だ。


 ロレッタは注意深く舟を岩場沿いに進め、波の穏やかな水面に舟を浮かべた。


 「この辺りなら、人目にも付かないし波も静かだし……いいかな」


 入り江の際に程近い岩場に舟を泊めて、ロレッタは一度、辺りを見渡した。


 近くに漁に出ている舟もなく、波も静かだ。

 一度、オルゴールの箱を胸に抱いて舟の上に腰かけ心を静めた。


 そのままごろりと舟の上で横になって、ロレッタはまぶたを閉じた。


 船底を叩く波の音と潮騒。子供の頃からずっと聞いてきたその音に耳を澄ませていると、ここに来るまでに起きた様々な出来事が流れ去って、胸のうちが朝夕の海のように凪いだ。


 十分に気持ちが静まったのを見計らって、ロレッタは胸の上に抱いていたオルゴールの螺子ねじを巻いた。


 発条ぜんまいを巻き終えて、一つ息を吐いてロレッタはまぶたを閉じる。


 そうして、蓋を開けたオルゴールから流れる旋律に耳を澄ませた。


 随分と古びたオルゴールだったけれど、年月を経てなおその繊細で情感豊かな音色は失われていなかった。


 そして、海の上でその優しく物悲しい旋律が響き渡った。

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