第36話 最後の毒

 イーファが監督する中、毒慣らしは休前日を丸々一日使って行われていく。

 彼女曰く、毒慣らしは順調に進んでいる。

 このままいけば、新年を迎える前に終わるだろうとのことだ。


 それを聞いたライリーは、すぐさま今年の残りの日数を数えた。

 短いようで、しかし、心待ちにしていると、思ったよりも長く感じる。

 成人の儀を迎えるに当たり、最大の難関ともいえる毒慣らしの作業は、ライリーにとっては修羅場だ。


 サニーラルン国周辺で手に入る、死に至る毒は全部で十三種類。

 毒を服用してから効果が出るまでの時間は、短いものも長いものもある。

 また、毒の症状は様々で、体の痛み、嘔吐や吐血、眩暈など、ありとあらゆる体の異変がライリーを苦しめた。


(もう嫌だ、逃げ出したい……!)


 契約で決めたこととはいえ、ここまでする必要があるのか。

 途中で終わらせても問題ないのではないか。

 

 ミカエラの影武者をやり遂げるという決意とは裏腹に、そんな弱気で後ろ向きな考えがライリーの頭の中を占領する。

 だが、ライリーの気持ちを浮上させてくれるのは、いつも隣にいてくれるユリウスだった。

 

 吐き気を催せば桶を差し出して背中を摩り、体中が痛みに軋めば、さすって痛みを和らげてくれる。

 毒を飲んだ後、ユリウスが献身的に看病してくれることで、ライリーは苦行ともいえる毒慣らしに耐えられていた。


 雪が散らつく年末の朝。

 療養部屋は、窓からの冷気をカーテンで遮断した上に、部屋を温める魔術陣のおかげで、春の陽気を思わせるほどだ。

 イーファはライリーとユリウスが待つ部屋に現れると、いつもと変わらない様子で雑談をしつつ、毒の入った小瓶を取り出した。


「さぁて。これが最後の毒だよ」


 小瓶には、ほんの少しだけ白く濁った、半透明の毒が半分入っている。

 体内に取り込むと、早ければ数分後には発熱し、体全体の機能が停止し死亡する。

 これは耐性をつける中でも一番危険な毒薬――モハ――だ。


 すでに二回飲んでいる毒で、症状はいずれも微熱と四肢の痺れだけ。

 その経験から、モハを飲むのは怖くなかった。

 

 しかも、だ。

 今回でモハも含め、すべての毒の慣らし作業が終わる。

 ようやく、苦しかった作業が終わるのだ。

 まだ終わってはいないが、ライリーは妙な解放感に包まれていた。


「はい。じゃあ、いきます」


 ライリーはイーファから小瓶を直接受け取ると、躊躇うことなくモハを喉へと流し込んだ。

 瑞々しい果物のような甘さが通り抜ける。

 胃がカッと熱くなるような感覚は、酒を飲んだ時のものとよく似ていた。

 

 小瓶をイーファに渡すと、ライリーは慌てることなくベッドに腰を下ろす。

 経験上、あと十を数え終わった頃に指先から痺れが登ってくるはずだ。

 

 しかし、ライリーの楽観的な考えは裏切られた。


「は、ぐ……ッ!」


 腹から一気に広がった熱は、痺れとともにライリーの体の自由を奪っていく。

 痛みに胸を押さえた手はそのまま、前傾姿勢になった体は重力に従って倒れ、イーファが座っているベッドと、その下にある床が迫る。


「ライリー!」

 

 倒れ切る寸前、その体を受け止めたのは、血相を変えたユリウスだ。

 素早く仰向けにされ、ユリウスの腕に上半身を預ける。

 ユリウスの腕の中にいるのに、いつも鼻腔を擽るムスクの香りがしない。


(なんで……? あ、あ……ッ痛い、熱い……!)

 

 何も感じない。

 あるのは、体の奥で膨張する熱と痺れを超えた痛みだけ。


「嘔吐剤を!」

「これだ!」


 ユリウスとイーファの切羽詰まった声。

 巨大な鐘が耳元で鳴ったように、耳に入る音すべてが反響し、途端に頭が割れるように痛み出す。

 体が丸まっていくのを阻むように肩が押さえつけられたかと思うと、口元に冷たくて固いものを押し付けられた。


「ライリー、嘔吐剤だ。飲んでくれ!」


 滲む視界に、顔を真っ青にしたユリウスが入ってくる。

 反響してよく聞こえないが、その意図を理解したライリーは、噛み締めていた唇を必死に開けた。

 それに合わせて瓶が傾けられ、無味の液体が口内を満たす。

 何度かに分けて飲み干したと同時、強烈な吐き気が襲ってきた。


「う、ぐッ……げ、ぁ……!」


 ライリーの呻き声に合わせ、ユリウスから顔を横に向けられる。

 イーファが桶を差し出したと同時、ライリーは胃の中のものを勢いよく吐き出した。


(あぁ……ケイトさんのご飯、もったいないことしちゃったな)


 視界に映る吐瀉物を眺め、はっはっ……と息を切らしながら再び嘔吐する。

 苦しくて、痛くて、どうにかしてほしくて。

 ライリーは縋るようにユリウスの腕を掴んだ。


 吐き気がなくなると、今度は解毒薬を飲まされた。

 清涼感のあるそれは、嘔吐した直後の口内をすっきりとさせる。

 解毒薬のおかげで、胃のあたりで限界まで膨らんだ熱が急激に冷却されているような気がした。

 それと同時に戻ってくる指先の感覚と、泥の中に落ちていくような体の重さ。


「ユリウ、ス」

「ライリー、もう大丈夫だからな……」

「ん……ねぇ、なんか……ねむ……」

「眠いだって? ライリー、目を開けて!」


 イーファの声は、分厚い壁に遮られたように遠い。

 その指示に従い、ライリーは目を閉じまいと瞬きを繰り返すが、体の倦怠感に押し負けてしまった。

 

 遠くで聞こえる、ライリーを呼ぶ声。

 白くなったユリウスとイーファの顔。

 それを感じながら、ライリーは意識の手綱を手放してしまった。

 

 意識が戻ったのは、翌日の昼のこと。

 太陽の匂いがするベッドで目を覚ますと、ユリウスの顔が視界を占領していた。


「ライリー! よかった……」

「俺……どれくらい寝てた?」

「丸一日だ。久しぶりに私も焦ったよ。目を覚ましたならもう大丈夫」


 ユリウスとイーファは、二人揃って安堵の溜め息を吐いた。

 その目の下には薄く隈が浮いている。

 どうやら、ライリーが意識を失ってからずっと看病してくれていたようだ。


「ありがとうございます」

「当然のことをしたまでさ。さて、熱と倦怠感はまだ続くだろうから、少なくともあと五日は安静だよ」

「わかりました」

「私は一旦治療院に戻る。ユリウス、頼んだよ」

「もちろんです」


 力強く頷いたユリウスを見て、イーファは安心した様子で部屋を後にした。

 ここで会うイーファは影としての彼女だが、普段は治療院を経営する立派な人だ。

 ライリーが昏睡したために、治療院を休ませてしまった。

 イーファにも、彼女の治療院に通っている人々にも申し訳なく思う。


 ライリーの落ち込みに気付いたんだろう。

 ユリウスはふかふかの布団越しに胸を優しく叩いた。


「大丈夫。イーファには弟子がいる。治療院のことは気にしなくていい」

「そう、なんだ?」

「ああ。それより、喉乾いただろ。起きれるか?」

「う……ん。起き上がるのは無理そう」

「だよな」


 ユリウスはそう言うと、ライリーの背中とベッドの間に腕を差し入れた。

 ゆっくりと上半身が起こされ、水差しが口元に宛てがわれる。

 僅かに開く唇の隙間から口内へ注ぎ込まれた常温の水は冷たく感じられ、ライリーはユリウスにねだって水差しを空にした。

 水を嚥下すれば乾いた体が潤っていく。

 そして、心に巣食っていた不安や恐怖が消え去り、ユリウスの優しさに満たされていった。

 

 まだ熱が高いからか、全身が熱く、しかし寒気も感じる。

 ライリーが水差しの水を全部飲み干した後、ユリウスはライリーの体を抱えながら、器用に氷枕を入れ替えた。

 そこに頭を乗せてもらうと、とても気持ちがいい。


「氷枕、冷たすぎないか?」

「大丈夫。ありがとう」


 使用済みの水差しや氷枕を片付けるユリウスの顔は疲れていて、たった一日だというのに、どこかやつれているように見えた。

 その頬に手を伸ばして労りたい。

 しかし、倦怠感で腕すら上がらず、もどかしさを覚える。

 

「ユリウス、ちゃんと寝てる?」

「寝てる」


 ライリーの質問に即答はしたものの、ユリウスはわかりやすく視線を逸らし、これ幸いとばかりに氷枕を魔術陣の上に乗せるため、ライリーに背を向けた。

 そんな様子で近衛騎士を勤められているのか心配になったが、今はそこを心配している場合ではない。

 

「嘘。だめだよ、ちゃんと寝なきゃ」

「嫌だ、離れたくない」


 勢いよく振り返ったユリウスの口元は、きゅっと横に引き結ばれている。

 まるで叱られた幼児のようだ。

 叱られてもなお、意思は絶対に曲げない。

 

 そんな主張が聞こえてくる顔に、ライリーはふと思い出した。

 孤児院に来たばかりの子は、環境の変化に慣れず癇癪を起こして意地になっている時、こんな顔をするということを。

 

「もう、駄々っ子だな。熱で寝ている時に一人なんていつものことだ。慣れてるから平気だよ」


 着替えや食事も一人でできない幼児期は、孤児院から独立間近の義兄や義姉に付きっきりで看病してもらっていた。

 しかし、ある程度成長した時には孤児院の状況も厳しかったこともあり、義父や義母が様子を見にくることはあっても、付きっきりの看病を受けることはなかったのだ。


(だから、一人でも大丈夫)


 今までもそうやって生きていたのだ。

 ユリウスが心配することはない。

 

「そんなのに慣れるな!」

「ごめん……」


 ユリウスの怒鳴り声に、ライリーの心臓が飛び跳ね、安心させようと緩めた頬が強張る。

 咄嗟に謝罪したが、正直なところ、ユリウスが怒る理由がわからなかった。


 戸惑うライリーを見たユリウスは、はっと息を飲む。

 そして、自分の髪をぐしゃぐしゃとかき乱しながら頭を下げた。

 

「いや、すまん。謝ってほしかったわけじゃない。俺を頼ってほしいんだ」 

「十分頼ってるよ。ほら、ユリウスのお陰で髪もさらさらだし」


 ライリーはシーツに腕を滑らせ、自分の髪を撫でた。

 ユリウスに手入れをしてもらっている髪は、汗をかき、一日シャンプーをしていなくてもつるんとした最高の手触りだ。

 視界に入れずとも、それが動くたびに艶を放っているのがわかる。

 

「もっとだよ。ライリー、諦め癖ついてるから」

「そう?」


 諦め癖と言われても、よくわからない。

 

「今回のことも、俺たちが逃げ道を塞いでたのもあるが、それだけじゃないだろう?」

「どうだろ。そこまで考えてない」


 その選択肢しかなかったから、それを選ぶ。

 ただ目の前にある状況を受け入れ、限られた環境の中で精一杯の努力をする。

 それが、ライリーの日常だった。

 もしかしたら、それが諦め癖なのかもしれない。


 ライリーは考えを深掘りしようとしたが、複雑なことを考えると熱が上がりそうな気がしてきた。

 実際、さっきよりも顔が火照っている。

 

「とりあえず寝ろ。起きているの、きついだろ」


 諦めることについて考えたこともなく、熱に浮かされている今、複雑なことを考えるのは無理そうだ。

 ユリウスの言葉に従い、ライリーはひとまず眠ることにした。

 

「じゃあ、ユリウスもちゃんとベッドで寝て」

「ライリーが寝たら寝る」

「本当かなぁ」

「本当だ」


 ユリウスにじぃっと疑いの目を向けると、彼は自信満々に頷く。

 それでも訝しむライリーに、ユリウスは任せろと言いたげな顔で微笑んで応えた。

 しょうがない。

 ライリーは、ひとまずユリウスを信じることにした。

 

「うん、おやすみ」

「おやすみ」


 瞼を閉じれば、暗闇が訪れる。

 すぐそばにユリウスの気配がして、ライリーは何故かとても安心した。

 発熱で体力を奪われた体は休息を欲している。

 意識は、あっという間に深い海の底へ沈んでいった。


 不意に目が覚めた。

 静寂に包まれた療養部屋のカーテンはすべて閉まっているが、ベッドサイドにあるランプの火が部屋を照らしている。

 ぼんやりと見える天井は、ランプの灯りで揺らめいていた。


 右手に感じる熱に、視線を巡らせる。

 目に入ったのは、ライリーの手を握り、ベッドに突っ伏したまま寝ているユリウスの姿だ。


 療養部屋は、魔術陣のおかげで温かい。

 しかし、寝るとなると、毛布がなければ寒さを感じる。

 現に、ライリーの手と触れ合っていたユリウスの手は温かいが、その手の甲は冷たくなっていた。


「ちゃんと寝るって言ったじゃん、馬鹿」


 掠れた声は、熟睡しているユリウスには届かず消えていく。

 しかし、ユリウスの優しさはライリーの胸を震わせた。

 

 きっと、ユリウスは大人になった今でも、床に伏せる時は誰かにしっかりと看病してもらっているんだろう。

 誰かから優しさを受け取ったユリウスは、その優しさをライリーに繋ぐ。

 それはとても素敵なことで、心の奥がくすぐったくなる。


 おかげで、発熱時に感じるどうしようもない寂しさはまったく感じなかった。

 無理をして欲しくなかったと思ったと同時に、ユリウスの少々無茶な看病が嬉しいとも思う。

 

 未だ倦怠感が抜けない。

 ろくに体を動かすことができそのため、ライリーはユリウスを抱え、彼を隣のベッドに寝かせることができない。


「よっ……と」


 病人であるライリーには、自分にかかっていた毛布の一枚をユリウスにかけるのが精一杯だった。

 毛布をかけたユリウスは、掠れた声を漏らしながら、それに頬擦りをする。

 やはり、少し寒かったようだ。

 

 ライリーは腕で支えながら体をゆっくりと倒し、ベッドに背をつけて眠ろうとした。

 しかし、何か漠然とした物足りなさを感じ、僅かに熱の籠ったユリウスの手の中に、自分の手を潜り込ませる。

 そこにあるのが当たり前のような感覚に心が落ち着く。

 ユリウスの寝息を子守唄に、ライリーはそっと目を閉じた。

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