第35話 毒慣らし

 ライリーの心の変化を待っていたのだろう。

 それから一週間後、ライリーに新たな試練が課されることになった。


――毒の慣らし作業だ。


 五日前にはユリウスから予告を受けていたライリーは、その日になるまで気が気ではなかった。

 寝ても覚めても、頭を占領するのは毒慣らしのことばかり。

 食事も普段より口にできない。


 毒の慣らし作業は、万が一、毒を盛られても軽傷で済むよう、耐性をつけるために行う。

 その方法は至ってシンプル。

 薬師の監督のもと、少量の毒を飲んでいくのだ。


 管理された環境で行われるといっても、毒を飲むことには変わりない。

 ライリーの心臓はドクドクと逸りっぱなしだ。

 緊張はユリウスにもはっきりと伝わっていたのだろう。

 鍛錬や勉学、模倣訓練もいつもより軽いものになっていた。


 迎えた当日。

 朝食をすませたライリーは、ユリウスと連れ立って食堂の隣室を訪れた。

 怪我をした影が療養する部屋は、以前、貴族の服を仕立てた時と同じく無人で、がらんとしている。


 天気は曇り。

 カーテンが開いていても薄暗く物寂しい部屋は、ライリーの不安をより一層掻き立てる。

 喉元に何か詰まったような息苦しさを感じ、ライリーはユリウスからもらった髪飾りに触れた。


 アバロンシェルの髪飾りは、冷えた指先に仄かな温もりを伝えてくる。

 指の腹でつるりとした表面を撫でるだけで、何故か胸の騒めきが静かになった気がした。


(もし、ユリウスの手に触れたら……。そうしたら、もっと落ち着くのかな?)


 ライリーの手より僅かに大きく、剣だこがある手に触れ、隙間なくぴたりと合わせ、しっかりと握る。

 それだけで、きっと困難なことでも乗り越えられる。

 ふと、そんな馬鹿な考えが浮かび上がる。

 

 しかし、ユリウスから贈られた髪飾りに触れただけで気持ちが落ち着くのは確かだ。

 毎晩、香油を塗られ、マッサージを受けてリラックスしていることも考えれば、あながち間違いでもないような気もした。


「どうした?」


 一番奥の、窓側のベッドに腰掛けてユリウスをじっと見ていたからだろう。

 気遣わしげな視線がライリーに向けられていた。

 

「えっあ、なんでもない」

「そんなことないだろ。不安なことくらいわかるさ」

「まあ、そうなんだけど……」


 不安を和らげるように、ユリウスがライリーの背中をゆっくりとさすってくれた。

 すると、服越しの熱が、緊張や不安とは違うリズムで心臓を叩く。


 近頃のライリーは、ユリウスといると、どうしてか動悸がするのだ。

 下手をすると顔を見ただけで胸の奥が締め付けられる。

 おかしな体の変化だが、それをケイトや影たち、ましてやユリウス本人には相談していない。

 直感が、これは誰にも打ち明けない方がいいと告げていたからだ。


 落ち着くかと思ったら、別の意味でソワソワしてしまう。

 それが余計にユリウスに誤解を与え、ことさらゆっくりと背中を撫でられる。

 顔に熱が集まり耐えきれなくなったライリーは、ゆっくりと動くユリウスの腕をそっと押し返した。


「ありがとう。落ち着いた。もう大丈夫」

「そうか?」

「うん。平気だ」

「わかった」


 笑顔を意識して頷けば、ユリウスは渋々納得したように腕を下ろした。

 ライリーは誤魔化すようにへらりと笑う。

 ちょうどその時だ。


「あら、ちょっと遅れた?」


 ノックとともに現れたのは、オリーブグリーンのカーディガンを羽織った初老の女性だ。

 背丈はライリーの胸の辺りまで。

 穏やかな顔立ちの彼女は、ユリウスから事前に聞かされていたイーファだろう。

 普段は平民街で治療院を開き、かつ薬師をして市井に紛れている影だと聞いている。


「いや、俺たちも今着いたところです」

「なら安心さね」


 ユリウスの返答に微笑んだイーファは、手に持った籠を、ライリーとユリウスが腰をかけているベッドの、隣のそれに置いた。

 そして、ライリーに向き直ると、目尻に皺を刻んで会釈する。

 

「初めまして、イーファです。影たちの健康管理から毒慣らしまでやっています。毒慣らしはもう何人もしてきたから、安心して任せてね」

「ライリーです。よろしくお願いします」


 普段から怪我人や病人を相手にしているだけあって、彼女は終始穏やかな笑みを浮かべている。

 その落ち着いた態度に、ライリーは自然と心を落ち着けることができた。

 ようやく地に足が着いたような心地だ。


「さて。ユリウスから説明は聞いているかい?」

「はい。毒を飲んで体に慣らす、ですよね」

「その通り。想定される毒は全部で十三種類。毒性の弱いものから始めていくよ。毒にも味があるから、それを覚えるように。万が一盛られた時の判断材料になる」

「わかりました」

「では、早速始めよう」


 イーファは手短に説明すると、籠の蓋を開け、中から小さな瓶を取り出し、ベッドサイドにことりと置いた。

 小瓶は透明で、その中に入っている液体も透明だ。

 籠からベッドサイドへと移動した振動で揺れている液体の動きはどことなく重く、とろみがあることが窺い知れた。

 

「ラングという毒だよ。これはジレの葉と根を煮詰めて濾したものでね。舌から喉が腫れて気道を塞いでしまう。タイミングはライリーに任せるから、準備ができたら飲むといい」


 イーファはそう言うと、よいせと呟きながら籠を置いたベッドに腰掛け、籠から本を取り出して読み始めた。

 

 本は日に焼けて僅かに黄ばんでいる。

 よく読み込まれているのだろう。

 小口の真ん中は擦り切れているが、大事に扱われているのか、全体的に綺麗だ。

 表紙には『極東における薬草のすべて』と書いてある。

 

 ユリウスはというと、ライリーの背に手を伸ばしかけ、はっとした様子で静かにその手を下ろした。

 イーファが来る前、ライリーが腕を押し返したことを思い出したのだろう。

 そして、背を撫でる代わりに目を伏せて視線を逸らしつつ、時々気遣わしげに視線を上げてを繰り返す。


 ライリーにプレッシャーをかけないためだろう。

 いつまでも待つという姿勢と、その配慮がありがたい。

 だからこそ、その期待に応えなければ。


 ライリーはラングの瓶をじっと見つめた。

 イーファが監督しているとはいえ、これは死に至る毒だ。

 それを自ら飲むのは、魔獣や、ギルドの帰りに不埒な輩から襲われるとはまた違う、底知れない恐怖があった。


 それでも、やらなければならない。

 影武者の任務は、ライリーにしかできないことだ。

 使命感と、期待に応えたいという想い。

 これからの国のため、家族のため。

 そして何より、自分のために。


(よし!)


 ユリウスとイーファが静かに、そっと見守る中、ライリーは僅かに震える手を押さえながら毒を煽った。

 途端、口の中に広がる苦味。

 僅かに青草さのある苦味に、ライリーは思い切り顔を顰めた。


「う、え……」

「どうだい?」

「苦いです」

「そう。これは強烈な苦味があるからね。飲んだらすぐわかる」

「でしょうね」


 ライリーは口をもごもごと動かし、口内に唾液が滲み出ては飲み込むを繰り返す。

 そのおかげで苦味はすぐに消えた。

 あとは、毒の効果が出るのを待つだけだ。

 

 しかし、じっと待つのは、毒を煽ると決心するよりも落ち着かない。

 忙しなく視線を動かすライリーを見兼ねたんだろう。

 ユリウスがライリーの肩をトントンと叩いた。

 

「チェス、するか?」

「やりたいけど、いいのか?」


 毒の影響が出るまで、体に意識を向けておいた方がいい。

 そう教えてくれたのは、ユリウスだ。


「いいよ。私がちゃんと見ているからね」


 戸惑ったライリーの背中を押したのは、他でもないイーファだった。

 本を膝に下ろした彼女は、ライリーを安心させるように目尻に皺を刻んで微笑んだ。


「ありがとうございます」

「その代わり、変だと思ったらすぐに言うんだよ」

「はい」

「じゃあ、チェス盤持ってくる」

「ああ、お願い」


 ユリウスはすぐにサロンへ向かい、チェス盤と駒を持ってきてくれた。

 シーツをピンと張って平らにし、そこにチェス盤を置く。

 駒を並べたら、ゲームスタートだ。


 それから数分おきにイーファから毒の影響がないか聞かれたが、しばらくは何の変化もなかった。

 変だと思ったのは、ゲームが中盤に差し掛かろうとしたあたりだ。


「ん、え……?」


 舌がピリピリしてきたと思った時には、口の中がカッと熱くなった。

 じぃん……と広がった舌の痺れは治る様子もない。

 とうとう毒が効いてきたのだ。

 その事実が、ライリーの背筋に冷や汗を浮かび上がらせる。


(知らせなきゃ)

 

 そう思った時には、イーファはライリーに起こった異変に気付いていた。

 

「息が苦しいとかはないかい?」

らいでしゅへど、ひたが変れすないですけど、舌が変です

「いい感じに効いてるねぇ。さあ、口を開けて」


 イーファの指示に従い口を開けると、彼女はライリーの口内を覗き込んできた。

 その間にも舌が熱く腫れ上がり、呂律が回らなくなっていく。

 イーファ曰く、致死量であれば飲んですぐに気道が塞がり窒息するという話だ。

 息ができるなら、まだ許容範囲なんだろう。

 

 しかし、じわじわと口内が膨れた舌でいっぱいになる感覚はライリーの恐怖を煽る。

 ヒタヒタとすぐそこまで来ている死の気配に、ライリーは思わずユリウスの手を握った。


 ユリウスはライリーの手を包み込むようにして握ると、ライリーの舌の腫れ具合を確認しているイーファを睨みつけるように凝視する。

 

「これ、大丈夫なんですよね?」

「大丈夫だよ。舌がこれ以上腫れて窒息しそうになったらちゃんと解毒薬飲ませるからさぁ」

「なっ……!」

「君も通ってきた道だろう? 過保護だねぇ」


 イーファは呆れながら、しかし、母親のような眼差しでユリウスを見つめた。

 彼女に頭を撫で回されたユリウスは、ライリーの手は握ったまま、悔しそうに唇を噛み締める。

 それを見て、ライリーは不思議と冷静になれた。

 自分よりも動揺している人がいると、不思議と落ち着くことができるようだ。

 

 死への恐怖が消えたわけじゃない。

 むしろ、今にも膨れ上がりそうなくらいだ。

 それでも、ユリウスが無力感に襲われているような、悲痛な顔をするのは嫌だった。

 

ふりふす、らいひょうふらよユリウス、大丈夫だよ


 体の震えは止められないが、ユリウスが安心できるように精一杯の笑顔を向ける。

 すると、ユリウスはくっと息を詰め、大事なものを真綿で包むようにライリーを抱き締めてくれた。


 その温もりが心地よく、ライリーはゆっくりとユリウスに体を預ける。

 息がしやすい鼻で呼吸すると、控えめな甘さのあるムスクが胸いっぱいに広がった。


(きっと大丈夫)


 根拠もなく、そう思えた。

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