第29話 ミカエラの視察

 ある日の昼下がり。

 会議室の机が端に寄せられ、机の上に置いてある音楽再生機からはワルツが流れている。

 

 ライリーは右手をユリウスの左肩甲骨下に添え、左手で彼の右手しっかりと掴んだ。

 そして、リズムをとりながら足を前へ横へと動かしていく。

 その動きは流れる清流のように滑らかで優雅だ。

 

 成人の儀の日、日没時から催される夜会では、ミカエラへの挨拶が終わるとダンスの時間になる。

 ミカエラが踊るのは三人いる婚約者候補の令嬢たちだ。

 貴族の中では成人前から婚約者は一人に絞られ、すでに誓約書等でその関係を縛られているのが通常である。

 しかし、ミカエラの婚約者が三人とも候補に留まっている理由は単純明快。

 要は、権力闘争である。


 ライリーに音楽の教養はまったくない。

 あるとしても、ハルデランに古くから伝わる民謡や収穫祭で演奏される四大精霊たちへの讃美歌くらいだ。

 

 ダンスのレッスンの必要性を聞き、ライリーは今度こそ逃げ出したくなった。

 単純な模倣だけでなく、ダンスもするのか。

 それも、最終的に披露するのが衆人環視の中で。

 その光景を想像しただけで恐ろしい。


 背筋を凍らせたライリーだが、不安は一気に解消されることとなる。

 幸いなことに、ライリーにはダンスの才能があったからだ。

 それに加え、ユリウスが文字通り手取り足取り教えてくれる。

 今回は身体接触ありきの訓練であるため、おふざけも揶揄いも一切なしだ。

 

「ここで相手をターン」

「っ……」


 ユリウスの指示に従い、女性パートを踊っている彼の右手を左手で持ち上げながら、右手で回転する体を補助する。

 

「そう。でもちょっと遅いかな」

「うん……」


 ライリーはミスを指摘され、顔を顰めた。

 指示されたタイミングでターンをリードしたつもりだったが、微妙な遅れが生じているようだ。

 音楽に合わせて足を動かし移動する動作はできるのに、ターンや女性の腰を支えながら持ち上げるところはどうしてもタイミングがずれてしまう。

 周囲とずれれば目立ってしまうため、それはどうしても避けなければならないというのに、何度やっても上手くいかなかった。


(なんでここだけ? 悔しい……)


 悔しさをバネに、他のパートが完璧になってからというもの、一通り流した後は、苦手なそのパートを繰り返し練習している。

 ユリウスが音楽再生機で、直前の演奏を流し始めると、すぐさま互いの体をホールドし、ワルツに合わせて体を動かしていく。

 その時、不意にパンパンッと手を打つ乾いた音が響いた。


「ちょっとちょっと! それじゃダメでしょ!」

「ミカエラ殿下!」


 練習を中断させた闖入者は、ライリーが影武者をする予定のミカエラその人だ。

 彼と顔を合わせるのは、ライリーが王都に着いた日以降、初めてのことだ。


 ミカエラは音楽再生機を止めると、光のカーテンのような髪を靡かせてライリーとユリウスの前にやってきた。

 煌びやかな衣装を纏った彼は、麗しの王子様を体現している。

 

 ライリーとユリウスは慌てて膝をつき、王族への最敬礼をしたが、ミカエラはそんなことはどうでもいいとばかりに手を振って敬礼を解かせた。

 その顔は憂いに満ちている。


(どうしよう。がっかりさせた?)


 ライリーが王都に来て、かれこれ一ヶ月。

 訓練の内容は多岐に渡るが、勉強や訓練に慣れたミカエラたちに比べると修得速度は遅いだろう。

 

 一刻も早く技術を身に付け、洗練する。

 それが、彼らの思い描いた計画ではないだろうか。

 

 ライリーはミカエラを前に、その期待に応えられているのか、とてつもなく不安になった。

 

「いいよ、今は。それよりユリウス、駄目じゃん」


 ミカエラはむっと頬を膨らませ、ユリウスを指差した。

 てっきり、自分が叱責を受けるものだとばかり思っていたライリーは、駄目出しを受けたユリウスと共に驚き、戸惑うばかりだ。

 

「え?」

「私ですか?」


 揃って首を傾げたライリーとユリウスに、ミカエラは目を見開いて驚いている。

 一瞬だけ減速した勢いは、次の瞬間には復活し、ミカエラはオブラートに包むことなく叱責の理由を二人に告げた。

 

「そうだよ。令嬢役ならリードしちゃダメでしょ」

「リードしていましたか?」

「思いっきりね。それじゃあライリーの練習にならないよ。僕が代わる」

「はえ⁉︎」


 突然の教師交代に、ライリーは素っ頓狂な声を上げた。

 彼は王族で、本来なら言葉を交わすどころか遠目で見ることも叶わない尊い血筋を持つ殿上人だ。

 その御仁が、白魚のような手を差し伸べてにっこりと微笑んでいる。

 これが冷静でいられるだろうか。

 

 とてもじゃないが、冷静という言葉を頭に留めることができず、錆びたブリキ人形のように動きを止めた。

 

「ほら、手を」

「し、失礼します」


 ミカエラから催促され、ライリーはギギギッと音が鳴りそうなほどぎこちない動きで、恐る恐る彼の手を取る。

 

 同じような身長、同じような顔。

 鏡写の光景に、ライリーは幻でも見ているような気持ちになった。

 しかし、それと同時に、間近で見るミカエラの顔は、見慣れた自分の顔と同じであるはずなのに、彼の顔は芸術品のように美しいと思う。

 ユリウスからは、ライリーはミカエラと同じ香油を使っていると聞いたが、ミカエラからは柑橘系の爽やかな香りに加え、甘くて良い匂いがした。

 

「ユリウス、最初から」

「はい」


 ミカエラの指示に従い、ユリウスが音楽再生機を操作する。

 ワルツが流れ始めると、ライリーは必死にユリウスから習ったことを思い出して体を動かした。

 出だしは上々。

 ライリーのリードに、ミカエラはするすると流れるようについてきてくれる。


(次だ。この音で、ターンさせる!)

 

 ミカエラの言うことが正しいのであれば、ユリウスからずっと指摘を受けていたターンも遅れずにリードできていたはずだ。

 やがて音楽が終わり、ダンスを共にした相手への礼儀としてお辞儀をすると、ミカエラは花が咲き誇るような笑顔を振りまいた。

 

「うん、大丈夫。ユリウスがリードしちゃってて遅れていると感じてただけだよ」

「ありがとうございます」

「本当のことだからね。あと敬語はなし! これから僕の話し方も真似るんでしょ?」

「はっ……うん」


 ライリーはうっかり敬語で返事をしそうになり、慌てて修正する。

 何の変哲もない返事だが、ミカエラはさらに頬を緩ませて喜んでいる。


(ユリウスもミカエラ殿下もなぁんか強引なところあるよな)

 

 主従関係になると、そういうところも過ごしているうちに似てくるのだろうか。

 それとも、ただの個性だろうか。

 

 ともあれ、ミカエラ本人から及第点を貰えたのはとても嬉しい。

 実を言うと、歩き方や食事作法とは違い、ダンスは一回の練習の中でユリウスから何度も同じ箇所を指摘されていたため、ダンスに苦手意識が芽生えていたのだ。

 ミカエラから練習の成果を褒められ、ライリーの口元が自然と緩む。

 

「ユリウスは教えるのは上手いんだけど、僕は君ほどダンスが達者じゃない。ライリーがユリウスと同じレベルになっちゃったら、ライリーと踊る僕の婚約者候補のご令嬢たちは不思議に思うだろうし、今後本物の僕の立つ背がないじゃないか」

「申し訳ありません」


 ユリウスはミカエラからの嗜められ、はっと息を呑んだ。

 ダンスの教師として間違ったことはしていない。

 ただし、ミカエラを模倣するという観点でいうと、教師としては未熟だったようだ。

 まさか自分が間違っていたとは思わず、申し訳なさそうに眉尻を下げている。

 いつでも自信に満ち溢れているユリウスが反省している。

 その様子は新鮮で興味深くもあるが、これで揶揄うほどライリーは子どもではない。

 

「いいよ。じゃあダンスも大丈夫そうだし、お茶にしよ! ケイトには言ってあるから、もう準備できていると思うよ」


 ミカエラは落ち込んだユリウスの背をポンと叩いて励ますと、ライリーとユリウスを一階にあるサロンに促す。

 せっかくの誘いだ。

 断るのは野暮というもの。

 

 ミカエラに続いて階段を登っていると、甘い香りが鼻腔を擽る。

 彼の言う通り、サロンにはすでにアフタヌーンティーの準備ができていた。


 窓際の、一番陽当たりのいいテーブル席。

 テーブルを挟んで二人掛けのソファにライリーとユリウス、その対面のソファにミカエラが座った。

 テーブルには三段のアフタヌーンティースタンドが三人分置いてあり、そこにはおしゃれな食べ物が見栄え良く鎮座している。

 

 一番上はセイボリーとして、サラミとチーズのトマト添え、海老と玉子のタルティーヌ。

 二段目はスイーツとして高級品であるチョコレートを使ったテリーヌとカラメルがたっぷりかけられたプリン。

 三段目はサイドディッシュとしてサーモンとアボカドのガレット。


 おやつにしてはボリュームがあるが、ダンスでたくさん体を動かしたライリーにとってはちょうどいい量だ。

 ユリウスについては、言うまでもない。


 ミカエラはおやつを前に目を輝かせ、鼻歌を歌っている。

 そこでふと、ライリーは疑問に思った。

 

「今日、こっちに来てよかったの?」


 ミカエラは帝王学やマナー、剣術など、朝から晩までぎっちりと予定が詰まっていると聞く。

 この影の屋敷にも、数ヶ月に一回顔を出す程度らしい。

 そんな多忙なミカエラが突然姿を現した。

 問題ないはずだが、ライリーは少しだけ心配になったのだ。

 

「うん。今日は体調不良ってことでお休みにしているんだ。影兼任の護衛を部屋に置いてきたから大丈夫」


 ミカエラはそう言うとタルティーヌを上品に食べ始めた。

 病人扱いされているため、食事は消化の良いものになっているそうだ。

 彼は普段よりも軽い食事だから腹が減ったとぼやいている。


 それを眺めながら、ユリウスはガレットにナイフを入れる。

 

「来るなら事前に連絡してください」

「サプライズの方が楽しいでしょ」

「あはは……」


 ミカエラの言動はジャクソンにそっくりで、ライリーは乾いた笑い声を上げ、ユリウスは肩を竦めて諦めたとポーズを取る。

 影になると、サプライズ好きになるんだろうか。

 

 ユリウスも人を揶揄うのが趣味のようなもので、たまに背後から驚かされることがある。

 仲良くなった影からは、ユリウスのイタズラの数々を教えてもらい、その仕返しの内容も教えてもらった。

 魔獣の幻影が現れる陣などの本格的な魔術から、リアルな蛇のおもちゃを仕込んだりする物理的なものまで何でもあり。

 ある意味、日常生活そのものが訓練だ。

 

 そんな構成員を束ねるのはさぞ気苦労が絶えないだろう。

 一度きりしか会っていないが、ドハティ公爵は肩書き以上に凄いのかもしれない。


「いやぁでも僕らそっくりだね」


 ミカエラは頬杖をついてじっくりとライリーの顔を見てきた。

 鏡に写したような容姿は、まるで双子のようだ。

 

「本当に血が繋がってないんで、ないの?」

「うん。ライリーの方がご両親のところで止まったから、王家の方を十代遡って調べたんだよね。そこから直系も傍系も、庶子に至るまで今の世代まで辿っていったけど全部記録に残ってて、ライリーには繋がらないってわかったんだ」


 ライリーはその調査結果に舌を巻いた。

 十代もの世代を遡るということは、単純計算で三百年前までの記録を調べるということだ。

 それを庶子に至るまで調べ尽くすとは驚愕の一言だけでは済まされない。

 また、それだけ調べても、ライリーとミカエラに血の繋がりが一切ないことにも改めて驚かされた。

 

「これで?」

「そう。不思議だよねぇ」


 ライリーはうっかりスプーンに掬っていたプリンを落としてしまったが、隣にいたユリウスが持ち前の反射神経でそれを皿で受け止めた。

 ユリウスは甲斐甲斐しく予備のスプーンでそれを掬い、ライリーに差し出す。

 自分が落としてしまったものだ。

 もったいないので、ライリーはそれをパクリと食べた。

 

「見ているこっちも不思議な気分になります」


 ライリーに給餌しつつユリウスはしみじみとそう言った。

 近衛騎士としてミカエラに仕えている彼にとって、目の前に主君が二人いるようなものだろう。

 そう思うのも納得だ。

 

「だろうね。あ、そうだ。本番が近くなったら、髪も染めて目に色ガラスも入れるんでしょ? どっちが本物ゲームしようよ」

「有意義なゲームになりそう!」

「でしょ? うんうん、楽しみが増えたなぁ」


 ライリーが賛同するとミカエラは満足そうに頷き、チョコレートのテリーヌを食べてはまた頷いた。

 それからミカエラは、ライリーにハルデランはどんなところなのか、冒険者としてどんなことをしてきたのかと質問してきた。

 王子として、そして影として王城の外に出ることはあれど、遊ぶために外出することはほとんどないミカエラにとって、庶民の生活は未知の世界そのもの。

 そんな彼にとって、ライリーの話は面白かったようだ。

 

 それで味を占めたのか、ミカエラはことあるごとにライリーの前に現れ、ダンスの練習の後、優雅に茶会をすることが多くなった。

 王城で待機する、影を兼任する近衛騎士から泣きが入り、最終的に二週間に一回、休日限定と取り決めがされたが、たまにミカエラがそれを破るまでがお約束だ。


 ミカエラは王族で、ライリーが嫌っていた貴族の頂点に位置する者だが、その人懐っこさはチビたちを彷彿とさせる。

 面倒見のいいライリーが、自然とミカエラを友人のように思うのは自然な流れといえた。

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