八


「――見なさい。其后そのあと民國みんこくだ、民國だと威張ゐばつてゐましたが、直ぐに帝政に戾つて袁世凱ゑんせいがい自ら帝位ていゐ僭稱せんしようしたかと思うたら、又ぞろ革命だとなつたり。畢竟ひつきやうする所は何の事はない、覇權はけん爭奪さうだつ明暮あけくるゝばかりではありませんか。孫中山そんちゆうざん彼方此方あちらこちら逃廻にげまはつた揚句に病にたふれ、革命いまだしとか云うてをつて、じつに混迷をつゞけとる。この有樣ありさまで、堯舜げうしゆん治め孔孟こうまう出でし邦と云はれませうや! 泉下せんかに於ける聖賢せいけん嗟嘆さたん何如許いかばかりか……」


 一頻ひとしき慷慨かうがいの大演說をつたのち、老人は急におこりが落ちたやうな面貌かほつきになりかへると云ひ始めた。

 何やらわけが判らぬやうでもあるが、學生は內心ほつとした。

 ふら〳〵と起ち上がる。さうして、しきりに衣嚢かくしを探つてゐる。老人の貌附かほつきが段〻とはつて行く。

 フロツクの洋袍コートから、胴衣チヨツキから、洋袴ズボンに至る迄、數多あまた穿うがたれた、衣嚢かくしと云ふ衣嚢かくしを、それこそ虱潰しらみつぶしに點檢てんけんする。


「……いやこれは……」


「オヂイサン、ドウカシタカ?」


「――うゝ……、どうした事か! どうした事か! ――掏摸すりかも知れん! いや、掏摸に決まつとる! 掏摸にやられた!」


 どうやら財布かねいれが見附からぬらしい。


 憤怒ふんぬ狼狽らうばいとが入交いりまじつたやうな……

 ――いや、違ふ、違ふ。むし羞恥しうち困憊こんぱい鬱積うつせきとも云ふべきか?

 じつの所、筆者にはぢいさんのんな容貌かほつきを、何如いかなる言辭げんじもつ表現へうげんすべきか、其術そのすべを知らぬ。


「御金、無イノカ?」

「むゝ――」

「何所ニモ、無イカ?――」


 しばらくの沈默があつたのち

「――ヨロシ。オヂイサン、勘定カンヂヤウ、モウ、ヨロシ。勘定、要ラナイ」

 吝嗇りんしよくはずくわうさんが異な事を云ふ。爺さんは、曖昧あいまいなる目附めつきにて黃さんのを前埀まへだれあたりを見てゐる。

「オカネ無イ、ナラバ、ヨロシ。無イモノ、貰フ、デキナイ。モウ、オカネ、ヨロシ」

 先刻さつきまでんなに威張ゐばつてゐた爺さんの視線しせんが、焦點せうてんの定まらぬまゝちうをさ迷ふ。

「オヂイサン、今日ハ、ワタシノ御馳走ゴチソウ。タカラ、勘定カンヂヤウ、要ラナイ。心配、要ラナイ」

 黃さんは、淸〻せい〳〵としたかほで笑つてゐる。んな黃さんの表情へうじやうは、學生は勿論もちろんこの界隈かいわい何人なんぴとにしても今迄いまゝで目にした事は無からう。

 老人は黃さんの前にがつくりとかうべを埀れると、ぼそ〴〵と何事をかつぶやながら、蹌踉さうらうたる足取りで店を出て行つた。


「お爺さん、帽子、帽子……」

 娘が汚い山高帽やまたかぼう兩手りやうてに抱へて店の外へと追掛ける――



「お父さん? もうずいぶんになるけど……、あのお爺さん、前に一度……」

 戾つて來た娘が少し息をはづませながら、

「たしかその時も……」

 さう、怪訝けゞんさうに問掛とひかけたが、黃さんはそれには答へず、紙卷かみまきの烟を大きく吐出すと、莞爾くわんじとして、

「無イモノ、貰フ、デキナイ」と繰返くりかへした。

 さうして、支那の言葉かと思はるゝ一言、二言をぼそりと附加つけくはへたやうだつたが、學生の耳には聞取きゝとられなかつた。よし、聞取つた所でも解し得まい。娘の方を見遣つたけれども、其方そちらにもどうやら通じてゐる樣子やうすはなかつた。




                         <續>








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