七


 じつ厄介やくかいな人物である。一體いつたいんな年寄があるものだらうか?

 劒呑けんのんである。じつに劒呑である。

 今の所は黃さんも泰然たいぜんとして烟草を呑んでゐるが、此樣子このやうすでは何時いつ又、庖丁沙汰はうちやうざたが始まるとも知れぬ。

 どうやら今が潮時しほどきらしい。此所こゝに至つては、早〻に引揚げるにくは無い。

 腰を上げようとして、ふと娘の方を見遣る。

 すると、困惑した表情へうじやうまゝ、ちらりとした笑みが啐啄同機そつたくどうきに返つて來る。

 はつとする。

 胸の奧がぎゆつと収斂しうれんするやうな、何とも云はれない笑顏である。此方こちらからもかすかな笑みを送る。若い二人のあひだを或種の感覺が去來きよらいし、一つの紐帯ちうたいを生ぜしめる。

 學生は再び腰を落着けた。矢張やはこれはどうも、中〻かへられさうにない。


何如どうです。貴兄あなた――」

 再び呼び掛けられて、ぎくりとなつた。

「一盃、何如いかゞです……」

 ぬつと麥酒ビールびん突出つきだされる。其甁そのびんの口が、突出されたまゝふら〳〵と定まらない。

 そもそも、んなに離れてゐてはとゞく筈も無い。老人の手にある甁と學生の手にある洋盃コツプとを出會しゆつくわいせしめんとせば、兩者りやうしやうち何方どちらか一方が伺候しこうするか、あるいは又、雙方さうはう共に離席たちあがつて、近接のらうる必要があらう。

「いえ、僕はもう――澤山たくさんです……」

 いづれのじんも己の尻を椅子に貼附はりつかしめたまゝ、步み寄る氣配を毫末がうまつにも示さぬ。

「さうおほせにならず、どうか一獻いつこん

 腕が疲れてきたのだらう。甁の搖動えうどうが一段と甚だしくなる。これは危ふい。

「いえ〳〵、本當ほんたうに、澤山です……」

 額に脂汗を浮かべつゝも、重ねて遠慮を申上げる。

「――さうですか。それは殘念……」

 がたり。甁が置かれる。

「――呑む事が出來ぬとおほせらるゝのですな」

 これはしたり。

「いえ、さう云ふ事では……」

 爺さんの機嫌を損ねたやも知れぬ。素直に獻酬けんしうおうずべきだつたか? 胸裡きようりに悔悟の大波が打寄せる。

「否、もうよろしい」

 存外ぞんぐわいにもおだやかなる聲音こわね。何とか波濤はたう遣過やりすごしたか? 戰戰せん〳〵兢兢きよう〳〵と先方の顏色を窺ふ。

「――所で、貴兄あなた―― 貴兄は、支那を何如どう思つてをられますかな? ――けだ大邦たいはうと思つてをらるゝでせうな……?」

「はあ……」

 卑屈ひくつな笑みを浮かべて學生がうなづく。

「又、圖體づうたいばかり大きくて、開明せぬ何とも仕樣しやうがない國だとも……」

「いえ〳〵、決して……」

 周章あわてゝ、黃さんを見遣みやると、脊中せなかを見せてけむり悠然いうぜん搖蕩たゆたはしむるのみ。

「まあ〳〵、貴兄あなたおほせにならずとも、判つてをりますとも…… しかり。たしかに支那は大邦です。それに何と云つても昔は日本よりもずつと先を進んでをつて、先生だつたのですからな。實に偉いものではありました…… 而るに! 近年の、此爲體このていたらくは全く何如どう云ふわけです!」


 黃ばんだ口髭の閒から唾が飛ぶ。じつに盛大に――

 離れた席に位置せる僥倖げうかう熟〻つく〴〵難有ありがたい。學生は來店時の己の判斷の的確なるを自らしようじた。


「阿片戰爭、香港島の英吉利イギリスへの割讓、佛蘭西フランスとの戰役そして日淸の―― まあ、日淸戰爭でわたくし從兄いとこも死んだのですが――然しまあ、其は宜しい。從兄の話は、かくいて置くとして、それそれとして、いづれにせよ、淸朝しんてう御承知ごしようちの通り瓦解ぐわかいの道を辿たどわけですな。さうして、何如どうです! 到頭たうとう帝室ていしつ制度迄せいどまではいしてしまつたでせう。まあそもそも、淸なんぞ、北狄ほくてき簒奪さんだつ覇府はふにしか過ぎぬのであるからして…… しかし、いく天命てんめいあらたまれりと云うた所で、奸詐かんさたぐひであつて、んな事は有つてはならんのです!」


 茲迄こゝまでしやべつた所で、爺さんは、更に一口の麥酒ビールを含んで、大きく息をいた。




                         <續>








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