六


わたくしは、私と云ふ人閒は!」

「はあ……」

「――う見えても、これで一個の漢學者かんがくしや、なのであります!」

 何の事はない。

 大いに勿體もつたいつたにしては、極めて尋常じんじやうにして容易ようい豫想よさうしうべき答である。

 學生は正直な所落胆した。

 しかながら、さうした心理しんりさゞなみ顏色かほいろに出さぬ丈の修行は出來できてゐる。

 かれだまつて老人を見守つた。

いやしくも、漢學者たる者、すべからく漢土を敬すべし――う思つとるでせうな? 貴兄あなたも」

 これまた唐突たうとつなる御下問ごかもんである。

 學生にしてみれば、其んな事はどうでもいのであるが、神妙しんめうな顏で拜聽はいちやうする素振をがうくづさぬは見上げたものである。

「――しかるに、中〻なか〳〵さう條理でうりの通りに巧くも行かぬのです。其所以そのゆゑん何如いかん?――」

 此所迄こゝまでしやべると、老人はがつくりと項埀うなだれた。何やら口の中でぶつ〴〵つぶやいてゐる。


「オヂイサン、ズイプン、醉ツパラテヰルヨ、モウ、ソロ〳〵、かへル、ヨロシ」

 老人の席におもむろに近附き、飯臺はんだいにそつと左手を置いて、黃さんが忠告する。

 すると、猛然まうぜんたる勢ひで老人が起立たちあがつた。

一體いつたい何で此儂このわしが、酒肆しゆしの亭主に! まあ、云ふならば職人風情しよくにんふぜいに! 商賈しやうこ風情に! 異見いけんされねばならぬのか!」

 目をいて黃さんに喰つて掛る。今にもつかみ掛らんばかりである。

 娘がおろ〳〵と、老人と黃さんとを見比べる。

「――オヂイサン、ワタシ、惡カタヨ。モウ、默テルヨ……」

 黃さんは苦笑して、店の隅に引込んだ。

 老人は苦〻にが〴〵しく眉閒みけんに皺を寄せ、何やらつぶやき乍ら、よろ〳〵と腰を降ろす。

しからん。全く怪しからん。チヤンコロめが……」

 はつとする。

 聞こえたに相違さうゐない。娘と學生が、恐る〳〵黃さんをうかゞふ。

 所が意外にも、當人たうにんは素知らぬかほである。丸椅子まるいすに腰掛けて烟草たばこを呑んでゐる。

 聞こえなかつたのか? 否、其んな筈はあるまい――

 かく一先ひとまづはほつとするも、又何如いかなる危機が出來しゆつたいするやも知れぬ。

 四圍あたりの空氣には異なものがたゞよひ續けてゐる。學生はほとほ氣詰きづまりになつた。


日淸につしん談判だんぱん破裂はれつして、品川乘り出す吾妻艦あづまかん……


 突然とつぜん甲高かんだかこゑで老人が高吟かうぎんし始める。

 學生には何の歌だか良く判らない。何でも、古い歌だと思つて聞いてゐる。たゞし、內容ははなはおだやかでない。


……遺恨ゐこん重なるチヤンチヤン坊主、日本男兒の村田銃むらたじゆう……





                         <續>







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