五


 夕方、くわうさんの店には二人の客が居た。

 一人は例の専門學校の學生である。油でつた南京豆を肴に麥酒ビールんでゐる。

 娘にちら〳〵と視線をまとはり附かせる事、くだんの如し。

 娘にしても滿更まんざらではない樣子で、たまに學生の方を窺ひ、視線が合ふとたちまち目を伏せて頰を紅潮させてゐる。

 勿論もちろん、其んな交涉を黃さんは氣附いてゐない。又、氣附いたら事である。何となれば、庖丁沙汰になりかねぬのだから――

 もう一人の客は、何だか見慣れない、小さな老人である。

 老人と學生の卓はそれ〴〵對角たいかくならんでをり、學生の席から最も遠い斜向はすむかひに老人が座つてゐる。

 初めて目にする此人物このじんぶつについても、學生はどうも氣になるらしい。娘に差向さしむけた眼差まなざしの返す刀では、此方こちら樣子やうすうかゞていである。

 それそのはず、老人は、此店このみせには到底そぐはないやうな、物〻もの〳〵しい裝束しやうぞくおつに納まつてゐるのである。

 すなはち、フロツク・コート。

 略式のモーニング・コートが一般となりつゝある近頃の時勢としては、幾分いくぶん時代錯誤アナクロニズム臭味しうみまとつた禮裝れいさうであり、實際じつさい此品物このしなものにした所がまた隨分ずいぶんと年季をてゐるらしい。生地抔きじなど可成かなり色褪いろあせて摺切すりきれた仕儀となつてをり、あまつさへ、襯衣シヤツカラは遠目にも黃ばんでゐる。

 くも零落おちぶれたれば、フロツクのフロツクたる所以ゆえん威儀ゐぎ大分だいぶ失はれ、むしろ皮肉に作用してゐると云ふのが、どうやら衆目しゆうもくの一致する所であらう。

 無論、學生もめうな爺さんだと思つてゐる。

 先程さきほど店に這入はひつた折、眞先まつさきに目に附いたのがこの珍奇ちんきなる客である。かる興味深い對象たいしやうから適度に離れた距離を保ちつゝ、尚且なほかつ、最も觀察くわんさつ便べんなる所を態〻わざ〴〵選んで布陣ふぢんしたのが此席このせきと云ふ事になる。


 老人も學生同樣麥酒ビールんでゐる。いさゝ酩酊めいていの樣子である。

「學生諸君!」

 かすれてはゐるものゝ、ひゞく老人のこゑ。學生と娘と黃さんの三人が一時いちどきに振向く。

「――諸君!と云うても、……此所こゝには書生さんは一人しかをられぬが……さうです。貴兄あなたです――貴兄には、わたくし一體いつたい何者に見えますか?」

 學生は返答に窮して默つてゐる。

「――まあ、只のぢゞいだと思つてをらるゝかもしれんが……」

「いえ、あの、學校の先生でせうか……」

「何、先生とな? ふむ、たしかに中學の教員をしとつた事はある。しかるに、それは昔の事、否又いやまたかりそれが今であつたとしてもです! 教員なる職掌已しよくしやうのみにては、わたくしの全人格を到底云ひ表す事は出來んのです! しからば、私と云ふ人閒は一體いつたい何なのか?」

「はあ……」

「判らんでせう? 判りますまい……」

「はあ……」

「――いや〳〵、謎掛けをしてゐるのではないからして、そろ〳〵眞實しんじつの所を申述まうしのべまするが――」

 老人は握つた洋盃コツプに半分ばかり殘つた麥酒ビールを、一息に呑干のみほした。




                         <續>







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