四


 朝の九時頃、くわうさんは大きな籠を抱へて買物に出掛ける。

 行先は大抵近所の店である。今日も今しがた商舖街とほりの入口から三軒目にある八百屋に這入はひつて行つた。

 八百屋の內儀かみさんは寡婦ごけである。亭主が大八車の下敷になつて死んだ時に、一番下の子ははらの中だつたらしい。その孩兒あかんばう何時いつ脊中せなかに負ぶつて働いてゐる。年は三十を越えないらしいのだが、前齒まへば拔落ぬけおち、油氣のない髪をざつと束ねた恰好かふかうは、どう見ても四十を下るとは思はれない。

 店に向つて步いて來る黃さんを認めた時、內儀かみさんは卽下すぐさま目をそらしたのであるが、炯炯けい〳〵たるたか睥睨にらみから逃れるすべがあらうか。

 果たして、

「オカミサン、菜ツ葉アルカ?」

 かくづは知らぬふりを試みる。

「オカミサン、オカミサン…… オカミサン! 菜ツ葉アルカト聞イテヰルノダヨ! オカミサン、聾ニナツタカ?」

「何だい、うるさいね。聞こえてるよ」

「オカミサン! 菜ツ葉ダヨ!」

「菜つ葉なら、ほら、其所そこならべてあるだろう? ね? 色〻と―― 見えないのかい? 盲にでもなつたかい?」

 意趣返しの心算つもりである。しかし、其手そのてに浮かされる黃さんではない。默つて獲物を物色する。

「――あゝ、だめ〴〵、商賣物しやうばいものさはるのはよしとくれ!」

「オカミサン、何言ツテルカ? コノ菜ツ葉、ワタシ、買フノダヨ。――アノネ、デモネ、コナイダノ菜ツ葉、ペケヨ。半分、クサテタヨ。タカラ、今日、タクサン、オマケスル、ヨロシ」

「何云つてんだい。うちの品物に云ひ掛かりを附けるのはよしとくれ! 全く外聞が惡い。いやなら買つて吳れなくつても結構だよ!」

 內儀かみさんは忌々いまいましさうにそつぽを向く。黃さんは右手に持つた、貧相ひんさうな白菜をめつすがめつしながら、

「オカミサン、ソンナ事、云ハナイ、ヨロシ。ワタシ、御客ヨ。オカミサン、御嫁ニ來ル前カラ、ワタシ、此所コヽ、ズツト御客ヨ。商賣シヤウバイ何デモ、古イ御客、大事タイジスル、ヨロシ。オカミサン、判ルカ? 判レバ、オマケスル、ヨロシ。――見ナサイ、コノ白菜パクチヨイモ……」

 さう云つて、澁面しかめつらを橫に振る。

「そんなら、買はなけあ、いゝぢやないか! うちはこれでたんと安くしてあるんだよ。もう此所こゝから一錢だつて負かるもんかね。そんな事したら大損だよ! あゝ、其〻それ〳〵! だから、そんなにあれこれさはるのはよしとくれよ!」

「オカミサン、損シテ得取レ云フヨ。知ラナイカ? 今日、オカミサン、オマケスル。ワタシ、義理出來ル。ワタシ、明日、タクサン買フ。オカミサン、マウカル。コレ商賣シヤウバイヨ。判ルカ?」

 値段の交渉では、大抵、黃さん側に軍配が上がる。八百屋の內儀かみさんも色々と强氣に抗辯かうべんするのだが、口で黃さんにかなふ筈もない。畢竟ひつきやうする所、賣手うりてが客に勝つ道理はないのである。

「ほんと、支那人てのは食へないもんだよ」

 黃さんがかへると、八百屋の內儀かみさんは、脊中の子供を荒〻しく搖すり上げながら、ぷり〳〵はらを立てゝゐる。

「ほんとにねえ」

 向ひの莨屋たばこやの婆さんは、內儀かみさんの味方である。しかるに、氣の毒さうなかほ相槌あひづちを打ちつゝも、婆さん自身意識しない所では、うした滑稽こつけいな見せ物がかれ無聊ぶれうわづかになぐさめるよすがとなつてゐる。




                         <續>








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