私と彼女の幕引きを

あたりは口角が自然と上がった人で溢れていた。

生徒たちが首から看板をぶら下げたり

声をかけたりして客引きをしている。

保護者らしき人から

来年受験を考えているのだろうか、中学生や

小さな子供まできゃいきゃいはしゃぐ声がする。

校内は飲食物を販売している箇所は特に

甘かったり揚げ物のような重めの香りだったりが

うんと立ち込めている。

隣を歩く杏は並ぶ教室の店を見ながら

ふらふら歩いていた。


杏「うわ、何回見てもおいしそー!甘いもの食べたいなぁ。」


蒼「早めに部室に集まるよう言われてるでしょう。それに、よそ見ばっかりしていると人にぶつかるわよ。」


杏「わーわー。はいはいわかってるけどねー。」


蒼「本当にわかってるのかしら。いつもメイクに時間かかるとかなんだとか言ってるじゃない。」


杏「蜜柑の衣装に合わせてウィッグ持ってきたから、今日はさらに時間かけるよー。」


蒼「なおさら早く向かいなさいな。」


杏「あーあ。お店は舞台終わったら回ろっかな。」


蒼「あなた昨日も来てたじゃない。」


杏「来たけど回る人が違ったら楽しみ方も違うじゃん?昨日は1人でざっと見て演劇部のみんなも大変そうだったし少し話して帰ったけど、今日は舞波たちと回って後片付けまで一緒ってな感じで。」


蒼「仲がいいのね。」


杏「1か月みっちりでしたから。蒼は?古夏と回ったりしないの?」


蒼「私も古夏も一応受験生なのよ。」


杏「そうだった。完全に忘れてた。」


蒼「呑気ね。」


杏「いやいや。最近普通にほぼ毎日部室で会ってたから3年生って感じしなくって。来年も学校にいそう。」


蒼「留年してるじゃない。」


杏「あはは。蒼に限ってそれはないなー。はーあ、シノジョに入学してても楽しそうだったなー。」


蒼「成山はそうでもないの?本気で考えているなら編入でもなんでも」


杏「ただのぼやきですー。」


どこで買ったのか

ペットボトルを手にしたまま

手癖のようにキャップの部分を持って

くるくる回していた。

その時だった。


「せんぱーい!」


人々が声のする方向へと

視線をそれとなく向けるのがわかった。

どうやら私の方向を見ているらしい。

振り返ると、こちらに向かって

駆けてくる藍崎さんがいた。


七「先輩、蒼先輩!お久しぶりです!」


蒼「ええ、久しぶり。相変わらず元気そうね。」


七「はい、とっても!夏休み明け初めましてだ!全然会えなくて寂しかったです!」


杏「今は店番ないの?」


七「あ、あれ、杏ちゃんがいる!?」


杏「見えてなかったんかい。」


七「なんでなんで!遊びにきたの?」


杏「それもあるけど…メインは劇だよ。」


七「わぁ!杏ちゃんも見にいくんだね!」


杏「違う違う役者。助っ人として参加してるの。蒼も出るからたんと見てやって。」


すると杏は距離の近いことに

肩を組んできた。

暑苦しいので腕で払うと

「ケチ」と頬を膨らまされる。

何がケチなのだ。

目の前では目をキラキラに輝かせ始めた

藍崎さんの姿。


七「ほんとに!?蒼先輩も出るんですか!」


蒼「ええ。」


七「そうなんだ!古夏ちゃんが出てるって聞いてたけどまさか蒼先輩も出るなんて!絶対絶対ぜーったい見に行きます!」


杏「あーい、待ってるからね。蒼が。」


蒼「なすりつけないでちょうだい。」


藍崎さんは手をぶんぶんと

大きく振りながら送り出してくれた。

面倒なことが起きなければいいけれど。

心の中でため息をつく。


杏「愛されてますねぇ。」


蒼「人の多い中でああも大きい声をあげたら迷惑だわ。」


杏「素直に受けとりゃいいのに。」


蒼「……ありがたいはありがたいけれど、これまでのことを思うに受け取りづらいわ。」


杏「え、素直すぎて怖い。」


蒼「あなたが言ったんでしょう。」


杏「あはは。七はうるさいしまあトラブルメーカーではあるけど、裏表ないし純粋に応援されて嬉しいは嬉しいんだよなー。」


蒼「よく人のこと観察してるわね。」


杏「観察してるだなんてなーんか人聞きの悪い。」


何となく振り返る。

既に人の波に呑まれたのか、

それとも早急に去ったのか

藍崎さんの姿はなかった。


昨日、文化祭1日目は

大会本番のメンバーで挑んだ。

蜜柑役を桃が担うパターンだ。

照明や音響も、夏希が事前に

連絡してくれていた幽霊部員と

なりつつある生徒が担当した。

午前の舞台だったこともあり

人の入りはまちまちだったが、

大きなミスもアクシデントもなく

そこそこの手ごたえとともに幕を下ろした。

休みの日だったはずの杏も

わざわざ観に来てくれており、

「すごかった」

「展開は知ってるはずなのにわくわくした」と

嬉しそうに語っていた。

途中、立ち位置の関係で

演者の顔が見えなかったなどの

貴重な意見も聞けたところで、

明日もあるからと早々に

解散したのだった。


そして今日。

日曜日、天気はそこそこ、午後の舞台。

しかも昨日の上演を見た人から

どうやら古夏が演者をしているらしいと

噂が出回っているという話も聞く。

部室に入ってすぐ

由佳子が古夏へと

「大丈夫ですか…?」と

気遣っている姿が目に入った。

桃と舞波も今来たばかりなのか

鞄を置いて座ろうとしているところだった。


古夏「…?」


由佳子「あー…えっと、結構…古夏先輩が舞台に出るって話題みたいで。」


桃「私も友達から聞かれましたね。出るって本当?みたいな。」


舞波「あー。んで、なんで返したの?」


桃「見に来てくれたらその時知れるさ。お楽しみにって言っといた。」


舞波「集客術。」


由佳子「あ、先輩、杏ちゃん!おはようございます。」


蒼「おはよう。」


杏「おはようございまーす。」


杏が「何の話っすかー」と

臆することなど微塵もなく輪に入っていく。

古夏は終始きょとんとした顔をしており、

噂があろうとそんなに

気にしていないような雰囲気があった。

由佳子が杏に説明すると

なるほど、と短く返事をして言葉を止めた。


舞波「見てくれる人が増えるなら本望だしいいじゃん。」


由佳子「野次馬的だとちょっと…って思うけど…。」


古夏「…。」


舞波「そうですかぁ?古夏先輩の演技でばちんとほっぺ引っ叩いて舞台の世界観につれてけばいいだけです。」


杏「頬叩くと現実に戻っちゃうて。」


舞波「それくらい強い衝撃を与えるってこと。もちろん私らもそれくらいやるけど。」


蒼「そう言って昨日杏に指摘された立ち位置のところを忘れたりするのは勘弁よ。」


舞波「ふん、当然完璧にしますから。先輩こそセリフふっとばさないでくださいよー。」


蒼「したことないでしょう。」


杏「仲良いんだか悪いんだか。」


桃「喧嘩するほどなんとやら。」


桃や杏はそう言うが、

決して仲は良くない。

舞波は鼻を鳴らし

そっぽをむいていた。

このような人と長い間共演する。

こうしてみると

やはり彼女とは馬が合わない。

が、舞台の上では鳩羽と漆だからか

そこまで気にならないのが不思議だ。


上演の時間が近づき、

各々の準備を始める。

役によって髪を結んだり解いたり。

普段見慣れていないこともあり、

髪を整えただけで

がらっと印象が変わった。

衣装へと着替え、

最終確認をした後

体育館の方へと向かう。

前の催しも盛り上がっているらしく

賑やかな音が詰まっているのがわかる。

幕が閉じられている中、

それぞれ道具を配置し

自分の持ち場へと戻っていく。


桃「小道具も…うん、揃ってるね。」


杏「時間もそろそろ。」


舞波「夏希先輩、アナウンスお願いします。」


夏希「ええ。」


生徒会の人だろう、

運営の人たちからマイクを貸してもらい、

1度袖から少し離れた。

舞波は板付き、私もすぐの出番のため

袖の方でじっと待つ。


杏「いよいよかー。はなかざ初演兼千秋楽。」


蒼「文化祭2日目でいいじゃない。」


杏「やーだよせっかくだし盛り上げたいじゃん?自分の中でアガるって言うか。」


普段ベリーショートだが、

ウィッグをつけ、

流し前髪にストレートのロングヘアをした

杏が声を弾ませて言う。

蜜柑らしい派手な服装で

スカートも短い。

それすらも似合ってしまうのが

スタイルが良く顔の整っている杏の強みだろう。


杏「衣装大丈夫っと。蒼も平気そう。」


蒼「どうも。」


杏「…わ、そうだ。中学の時蒼の方から衣装見てくれたことあったよね。」


蒼「そうだったかしら。」


杏「あったよ。「ここほつれてる」って言って目立たないように少し縫ってくれたじゃん。」


蒼「あぁ…。30分もない短い台本だけやった時の。」


当時の杏は小さくて

可愛げのある人だった記憶がある。

髪が長かったが手入れされていて、

女の子らしい後輩だった。

友人から杏の家に関して

とある噂を聞いていたけれど、

実際関わってみれば

怖い人でも何でもなく、

いち個人として、いち後輩として

対等にと意識し続けていた。

それが私の思う正義だったから。

藍崎さんに懐かれ始めたのは

確かその後の中学の文化祭あたりだったか。

こう思えば私たちは

例の不可思議な試験の前から

3年ほどはなんだかんだで

関わり合っていることになる。


杏「夏前だったよね。その後すぐ引退なんだもん、2歳差って罪だねぇ。あ、でももし大学生になって同じ劇団入ったらいつまでも一緒じゃん!」


蒼「そんな暑苦しいこと言わないでちょうだい。」


杏「えー、いーじゃーん。」


蒼「集中しなさい。」


杏「はぁーい。」


そんな機会はもうない、と

一蹴すればよかったが、

開演前空気を悪くすることも憚られる。

口をつぐみ、袖から舞台を眺む。

舞波が準備を終えたようで

小さく膝を抱えているのが見えた。

隣に人影が揺らぐ。

杏だった。

彼女もまた舞波の方を見つめていた。


杏「また蒼と一緒の舞台に立てて嬉しいよ。」


それに返事はしなかった。

その代わり、夏希の開演アナウンスが終わり、

ブザーが長く耳に残る。

今何を言ったとしても

聞こえないのだろう。

そんなことを思いながら

短く息を吸った。


そして。


ざー。

ざーっ。


舞台を、体育館をも包み込むような

雨の音が響き出した。


幕が上がる。

あたりは真っ暗。

舞台の上の光が漏れて、

手前にいる人の顔が

うっすらと浮かび上がっている。

それよりも手前にかかる光のカーテン。

眩しい。

自分に見合わないほど

明るい色に覆われていて目が眩む。


かつん。

靴音を鳴らした。


視線の先には膝を抱えて蹲る

黒いワンピースを身につけた舞波が

…漆がいる。

瞳に一切の光を受け入れず、

俯き続けている彼女が。


これから私は彼女に名前をつけ、

そして全て壊すのだ。

寂しいと孤独に叫びながら、

相談することもなく

ただ1人、表の本物の人格を想って。


蒼「『おい、そこの君。君、君だよ。聞いてる?』」


舞波「『…ここは?』」


蒼「『やっとお目覚めか。このままじゃ風邪引くぞ。』」


はっと驚いて顔を上げた漆と目が合う。

くりっとしていてはっきりした視線だった。

ずぶ濡れになってしまっている

彼女の頭上に傘をさす。

髪から雫が流れ落ちる幻さえ

目に映るようだった。






***





舞台は順調に進んでいき、

前半、中盤をすぎ

後半へと差し掛かって行った。

蜜柑や漆との共演シーンの間に

客席の方へと体を向ける動きがあり

そちらの方を見て見れば、

前日とは比にならないほど

人が入っていた。

昨日の時点で空席が

いくつかあったのだが、

今日はそれがほぼなく、

様子見をしに来たのか

立って壁沿いでそれとなく

見てくれている人も多かった。


古夏が演じるシーン。

私が裏から声を当てる。

彼女の演技力に

追いついているとは到底思えないが、

舞波や古夏の要望、

そして音響の仕事の都合もあり

録音せず生で声を当てることになった。


客席から見えないよう

ぎりぎりの場所まで寄り、

できるだけ声が届くよう飛ばす。

ただでさえ舞台の隅から声を出しているのだ。

遮蔽も多く聞こえづらいだろう。

杏曰く真ん中あたりは

全然聞こえているとのことだったが、

ならば1番後ろは…と思うと

妥協していられなかった。


舞波「『あなたは今後どうするの。』」


蒼「『漆と一緒なら、泣きながら宇宙を泳ぐことができるよ。』」


舞波「『この空間は本当になくなってしまうんだね。他のみんなはどうなるの。』」


蒼「『私たち以外は捨てられるの。あなたへの名付けを最後に、生まれてしまった人格たちは、漆を守る生活の花道を飾るんだよ。』」


舞波「『じゃああなたは。』」


蒼「『私は守ることはできない。でも、頑張れとも言わない。ただ一緒にいて近くで支えるだけ。』」


とん、とん、とん。

3歩。

純が漆に近づいた音と共に、

その姿を確認する。

そして小さく笑いかける。


蒼「『もう思い出してるんでしょ、本当の名前。』」


純と漆のシーンは

何度も何度も練習した。

特に古夏の口を開く瞬間と

私の発声を合わせる練習。

合図、息遣い、タイミング。

1ヶ月詰めに詰め込んだ。


純が捌ける。

捌けるその時まで

手先から足先も全て純そのもので、

当然の如く私に一瞥もしなかった。

純らしい。


雨が降る。

漆は静かに傘をさした。


蒼「…。」


深く息を吸った。

もうすぐ終わってしまう。

大変なことも多々あり、

一概に楽しかったとは言えないが

大きく見ればきっと楽しかった、と思う。

この1ヶ月はもちろん、その前から。

中学生の頃から

堅実に生きようと思いながらも演劇部に入り

杏や七、部員たちと出会った。

高校入学こそ大変で

それこそ一叶に助けてもらって

こうしてこの場に立つことができている。


夏希から相談を持ちかけられた時

本気で自作の台本を制作して

舞台を作るのか正気じゃないと思った。

しかしこうして作り上げた。

多くの人が見にきており、

喜ばしいことに席を離れる人は

思っている以上に少ない。

古夏の影響が大きいだろう。

ともあれ、お世話になった部活の手助けができ、

しかも舞台の上で光を浴びる古夏と

同じ場に立っている。

これ以上嬉しいことはない。


次のシーンは焦りも含む

シリアス展開なのに、

何故か口角が上がりそうになった。

同時に心が僅か痛む。


息を吐き切る。

口をへの字に結んだ。

漆を連れ戻すのだ。

自分の愚かさに目を向け、

酷く後悔しながら

彼女に「待って」と言葉をかけるのだ。


漆は傘をさしてくるくると回して、

楽しむように歩いている。


た、た、だ。

強く踏み出した。

漆は穏やかな笑みを浮かべている。

古夏との対峙を経て

舞波は更に演技が上手になった。


蒼「『漆。』」


舞波「『またお会いしましたね。』」


蒼「『追ってきたんだ。』」


舞波「『そうだったんですか。でももう行かなきゃ。』」


蒼「『漆、駄目だ。戻ろう。』」


時間の流れに逆らうことはできず

淡々と、しかし重みを持って

舞台は進んでいく。

鳩羽が自分の弱い部分を吐露しても

漆はこれまでの彼女と違い

決意を胸にさらさらと交わす。

舞波自身のことは好きではないが、

漆と鳩羽として立つと

どうしても手放してはいけないような気持ちが

腹の底で微か煮えている。


舞波「『鳩羽さんが言ったんです。「ひとりぼっち同士はたまに仲良くすべきだ。そして離れる運命なのさ」って。』」


笑うのだ。

嘲笑でもなく、受け入れるように。

それが鳩羽の心を締め付けるのだ。

漆は何もわかっていない。


蒼「『やめてくれ、聞きたくない!』」


私が耳を塞いだ瞬間だった。

ぶつ、と断線するような音がして

私たちを照らしていた照明の光が

舞台から一粒残らず消え去った。

これまでに暗転する箇所もあったが

ここまでぶつ切りなものはなく、

客席にいるる人々も

その違和感に気づいたようで

何事か、とざわめきだす。

音響も止まっているらしく、

沈黙から一転、森の中のどよめきのよう。

人々の不安が広まっていく。


蒼「…!」


顔を上げ、耳から手を離す。

真っ暗だった。

一瞬カーテンの隙間を掻い潜って

昼光が床に線を引いたが、

それが現れたのは風の影響だったらしく

再度闇に包まれる。

舞台の上に印として付けられた

バミリが仄かに光っている他、

一切の輝きが失われた。


雷の音はしていない。

機材トラブルか、偶然の停電。

このまま続けなければと思うと同時に、

停電の原因がわからない以上

続行は危険の可能性もある。

正しいのは。

正しい判断を、すぐに。


そう考えると同時だった。

凛と響く声がした。


舞波「『あなたは蹲っていた私に声をかけてくれました。』」


蒼「…!」


漆は喋ることをやめない。

台本にあったそのト書きが

頭の中を掠めた。


彼女に止める意思はない。

そのつもりなど毛頭ない。

舞波は何かしらの目的を持って

ずっと舞台に立っている。

今回に至っては、

古夏の花道を飾るためも含んで。


そうしたいのは

私だって。


また、耳を塞いだ。

今度はいらないざわめきの音を聞かないように。

あなたの声だけを聞くように。


舞波「『こんな空っぽの私なのに、傘まで渡してくれました。いつもは毅然としているけれど、中身は不安や迷いでいっぱいなこと、知っています。繊細で臆病なことだって知っています。誰よりも人間らしいあなたを知っています。』」


蒼「『僕の醜い部分を美化するな。』」


舞台の外が焦っているからか、

それとも闇の中冷静に、

いや、舞台の世界の中では

停電なんて起きておらず

漆とただ対面しているだけだからか、

幾分か安心し、余裕の隙間ができていた。


もしも。

もしも、主役を交代していたら。

この期に及んでそんなことを考えてしまう。

もしも、漆役を古夏がしていたら。

暗闇の中、どんな表情で

演じたのだろう。

どんな声で言葉を紡いでいたのだろう。

声を出せないことすら忘れ、

どうしようもない空想に耽る。


舞波「『私が迷子だと思っていました。でも、本当は逆だったんですね。迷子だったみんなと本当の名前を見つけにきたんです。見つけたからには、帰らなきゃ。帰るところがわかったんです、鳩羽さん。』」


蒼「『嫌だ。』」


舞波「『責任を持って、帰ってくれと言ってください。』」


蒼「『そんなことをしたら君は!』」


そんなことをしたら古夏は。

正式に舞台を降り、

2度とあの光を浴びることはないのでしょう?


舞波「『今度こそ、この花を持って宇宙を漂うことになる。でも、今は前ほど苦しくないんです。』」


蒼「『だからって急ぐこともないじゃないか。』」


きっと、こう言いたかったのだろう。

今更になって杏が役決めの際に

「結構ハマり役だと思う」と

言っていた意味がわかった気がする。


舞波「『お願いします。』」


蒼「『もうやめてくれ。』」


古夏の人生は、古夏が決めるべき。

彼女の意思を尊重すべき。

それが私の正しさであり

守るべき道だった。

だから自分の欲になど

目を向けないようにしていた。

藍崎さんが無理矢理に

自分が良いと思った方へ

古夏を引っ張っていこうとしていたのは、

もしかしたら羨ましかったのかもしれない。

そんな自分が愚かしい。


舞台の上だからだ。

普段なら考えないことが

鳩羽を通して巡っていく。


漆の言葉に被せるように

嫌だ、と否定を重ねた。


舞波「『鳩羽さん。』」


蒼「『やめろ。』」


本当はやめてほしくない。

この先も演技を続けてほしい。

古夏。


それを言う権利など、私にはなかった。


舞波「『この場所があったから』」


蒼「『こんな場所なんて生まれなきゃよかったんだっ!』」


はっとして顔を上げる。

未だ暗闇なのに、

何故か舞波が面食らって

目をまんまるにしている顔が浮かんだ。

思ったよりも声を張り上げてしまった。

しかし、それに狼狽えることなく

練習通りの間を持って

舞波はセリフを続ける。

もう誰も、何も止まってくれない。


舞波「『でも私、ここがあるから逃げることができました。助けてもらって、呼吸をすることができました。私、漆です。漆……でした。この名前、大好きです。でも、本当の名前を思い出してしまったんです。だから、その名前に戻らなきゃ。綺麗な名前なんですよ。真っ直ぐ一筋で、自分じゃないみたいだけど、これがないと自分じゃないんです。』」


その時、運の良いことに

ぱっと照明がついた。

体育館の方は元より消灯していたため、

綺麗にまた舞台にのみ

注目が集まっていく。


漆がこちらを見ていた。

暗闇の中見失わず、鳩羽を見つめていた。


あぁ。

そうだ。

そうよね。


古夏ではなく

舞波と話している。

漆と、話している。


舞波「『私はお父さんとお母さんのものであって、鳩羽さんのものじゃないから。』」


蒼「『君は。』」


あたりが一層明るくなる。

直前まで光がなかったこともあり

目を開けていられないほど眩しかった。

徐々に目を開く。

微かに花を打つ静かな雨の音がする。

いつの間にか側には

杏が登場と共に持ってきた

くすんだ紫色の花束がそこにあった。

鳩羽はそれを手にすることはない。

悔しく数秒、睨むだけ。


左右から皆が空を見ながら歩いてくる。

その手には皆、花束を抱えている。

それぞれの登場人物の色だ。

鮮やかで、いってらっしゃいと言うには

十分綺麗なものだった。


純は花束を持たず、何も言わずに立っている。

舞台の奥の方で、

今にもおかえりと言いそうな

温かみのある笑顔をして。


…いいや。

いってきます、だろうか。


夏希「『お天気雨ですか、初めて見ました。』」


杏「『狐の嫁入りって言うんでしょ?』」


京香「『雨だ、雨だ!』」


夏希「『星が降っているみたい。』」


杏「『ずっと奥に宇宙がいるんだよ。』」


京香「『本当だ、呼吸してるぜ!』」


碧里「『見て、たくさんのお花が咲いてるわ!』」


京香「『針金の花もある!』」


碧里「『私たちの頭の中で咲いていた花よ、違いないわ!』」


杏「『カラフルで綺麗。』」


夏希「『あっちにも、こっちにも。』」


碧里「『漆、漆ー!早くおいで!』」


京香「『こらこら、もう漆は帰るんだよ。』」


杏「『うちらとはここでお別れなんだ。』」


お別れ。

半歩、踏み出してしまう。

練習の時はこんなことしていなかったのだが

自然と動き、そして止まった。

自分が追うことはできない。

漆はもう決めたのだから。

自分で決めて歩き出したのだから。


漆は振り返る。

蜜柑たちに向かって微笑み、

傘をさして顔を隠す。

客席から見えるのは

漆の方を向く皆と

傘で顔を隠した漆、

そして奥に立つ純だけ。

雨の降る音が強くなっていくばかり。


漆は背を向ける。

純のいる方へとゆっくり歩いていく。

1歩1歩、踏みしめるように。

少しずつ漆が遠のく。

彼女の覚悟した背が、この雨が、

もう出会えないかもしれない

星になる僕らへの餞と言わんばかり。


杏「『さよーなら!』」


夏希「『さようなら。』」


碧里「『さようなら。』」


京香「『さようなら。』」


蒼「………『漆!』」


誰かは叫ぶ。

漆は足を止めるも、

振り返ることはしない。

そんな漆に純が手を伸ばす。

漆の手を取る。

上からは光が降り注ぐ。

皆にそれらは粒となって行き渡るのに、

光の遮られた傘の下は真っ暗のまま。


そして。

冬の日に降る雪のように

静かに舞台は幕を下ろす。

いつまでも雨の音が

耳の奥にこびりついて離れなかった。





***





拍手が幕越しに伝う。

それを耳にしつつ

次の舞台パフォーマンスがあるため

簡易的な片付けを行い、

人によっては部室へ、

人によってはクラスへと向かった。

文化祭閉会式後に大道具などを片付けるので

その時にまた集まることになる。


部室では舞波がうんと背伸びをして

そのまま床に寝転んだ。

黒いワンピースから着替える前に

どうやら力尽きたらしい。

古夏がそれを覗き込み、

由佳子がへなりと笑って

彼女も近くに座った。


舞波「トラブルえぐー…。」


蒼「開口一番がそれ?」


舞波「よくやったと思いませんかぁー…。」


古夏はしゃがみこみ、

うんうんと大きく頷いた。

舞波は嬉しかったのか

嫌味に思ったのか、

ふへー、と大きく息を吐いた。


由佳子「本当にお疲れ様…アクシデントはあったけど、昨日よりも何倍も良かったよ!」


舞波「当たり前ですぅ…。」


蒼「へばっても自信は折れないのね。」


舞波「そりゃあ…ってか先輩、なんですかあの演技。」


突然状態を起こすものだから

古夏がびっくりして尻餅をついた。

ごめん、と小さく謝ると

古夏は小さく吹き出してから首を振った。

微笑みではなく

面白くて笑う彼女は

もしかしたら初めて見たかもしれない。

舞波はそれを当たり前のことのように受け入れ、

私の方へと顔を向ける。


蒼「あの…って?」


舞波「停電以降ずっと。今まで以上に感情が乗ってて、いい意味で裏切られました。」


蒼「あまり記憶にないのだけど。」


舞波「1日目機械的にこなしすぎじゃないですか?手え抜いてたんですかぁー。」


蒼「そんなことするわけないじゃない。」


舞波「ほんとかなぁー。」


蒼「あなたねぇ」


由佳子「ま、まあ、文化祭お疲れ様ーってことで、ね、ね?」


古夏「…。」


蒼「そういえば杏とこの後回るんじゃなかったの?」


舞波「っべそうじゃん。ひゃー…ちょっと休みたぁい…。」


と、上演前の杏のように

いらない呟きを落としながら

脱力したままに着替えて

部室から去っていった。

途端、静まり返る部室が

彼女の煩さを物語っている。


由佳子「タフですね…。」


蒼「あの様子だとこの1ヶ月、朝から晩まで詰めてたでしょうから休まないといけないでしょうに。」


由佳子「最後の方なんて他の人のセリフまで覚えてましたし。」


蒼「よく頑張ったわよ。」


由佳子「ぜひ本人に言ってあげたらどうですか。」


蒼「調子に乗るから嫌ね。由佳子もお疲れ様。」


由佳子「えっいや…そんな、全然。」


蒼「台本から役まで。おかげでいいものになったわ。」


いえ、と言いそうなところ

口をきゅっと結んだ。

そして照れ隠しのように笑い

「ありがとうございます」と言う。


由佳子「作り上げられたのはみんなのおかげです。私の願いも叶えられそうですし。」


蒼「願い?」


由佳子「このお話で誰かの今の悩みが少しだけ軽くなればいいな…って。」


蒼「そうね。きっと。」


その時、ばたばたと

廊下から音がした。

振り返る前に扉が勢いよく開く。

見てみれば、夏希が走ってきたようで

乱れた髪を整えてから

私の前へと進んだ。


夏希「よかった…先輩、まだここに残ってたんですね。」


蒼「ええ。この後は自習室か図書館か…少し勉強をしてから片付けの時にまた戻ってくるわ。」


夏希「そうでしたか。古夏先輩も?」


古夏「…!」


まさか話が飛んでくるとは

思っていなかったのか、

下げていた目線を上げ、

咄嗟に頷いていた。

反射的な反応と言った方が正しいまである。


夏希「最後まで本当にいろいろと…先輩、ありがとうございます。今回、こうして先輩と演劇できて楽しかったです。」


夏希はそう言うと、

腰から綺麗に頭を下げた。

彼女にとって私の存在が

大きかったと人伝に聞いた時は

本人から聞いたわけではないから

真偽不明だと思ったが、

現状を目の当たりにして

もしかしたら本当かもしれない

なんて思ってしまう。

そして顔を上げて、

真剣な、しかし目に涙を溜めて口を開く。


夏希「大会まで…よろしくお願いします!」


蒼「…ええ。こちらこそ。」


次がある。

言うなら今だろうか。

出られない。

そう言うなら。


しかし、文化祭の舞台を終えた彼女たちには

少しでいいから休んでほしい。

これまでほぼ休みなく

自分たちを律して懸命にやってきたのだ。

だから、今日くらいは。


残った由佳子と夏希に

お疲れ様と告げ、部室を後にする。

夏希に答えたままに

古夏も後ろをくっついてきていた。

少しだけ歩く速度を落とす。

彼女が隣へと小走りでやってきた。


蒼「古夏もお疲れ様。」


古夏「…。」


蒼「後は大会ね。」


古夏「…。」


蒼「それが終わると…そうね、古夏は…。」


古夏「…。」


そこまで口に出して、

はっとして手で隠す。

古夏はそれをきっと見ることなく

自分の鞄を漁ってはノートを取り出して

らしくもなくその場で文字を連ねた。

いつもは机など書く場所があるところで

それをするからこそ、

珍しいと思い黒煙の擦れる音が

止まるのを待った。


部室等は穏やかだった。

人1人すら通らない。

皆、文化祭の行われている

普通科や音楽科の棟に集まっている。


不意に音の種類がひとつ減る。

古夏がノートを見せてくれた。

支えがなかったからか

いつもよりも崩れた、

けれど彼女の素らしい文字だった。


古夏『舞台の景色を見せてくれてありがとうございました。』





°°°°°





古夏『舞台の景色を忘れることができません。』





°°°°°





特別教室にいた古夏に声をかけ、

あなたがどうしたいかと

問うた時の答えを思い出す。


その下には。


古夏『全てがフィクションとなってよかったです。』


とひと文添えられている。

それがどういう意味なのかわからず首を捻る。


蒼「これはどういう意味かしら。」


古夏「…。」


そう聞いても、

古夏はにこ、と笑うだけだった。

ペンを持ちすらしない。

これが答えの全てであり

これ以上は何もいうつもりがない表れだった。

仕方がない。

古夏がそうするのだ。

そう決めたのだ。


少しだけ口角を上げる。

それだけが私にできることのはずだ。


蒼「大会も頑張るわよ。」


古夏「…!」


大きく頷いてくれた。

それだけで十分だ。


また、何度目か足を前へと伸ばす。

図書室に向かうまでに

藍崎さんに捕まらなければ幸いだけれど、と

心の中で言葉を落とす。

窓から陽の光が漏れる。

かつての憧れ、

そして今は友人の古夏の隣を歩いた。





***





片付けを終え帰宅する。

いつもであれば

掃除機をかけたり

料理をしたりと動くのだが、

今日は疲労からかぐったりしている。

思っている以上に

削がれていたらしい。

それでも最低限はしなければ、と

自分の決めた最低ラインの家事と

自分のメンテナンスを行う。


お風呂から上がり

ストレッチをしている時だった。

夜だというのに

インターホンが鳴った。

どうやら玄関ではなく家の前のようで、

出てみれば制服を身につけた一叶が

タブレットのみを持って立っていた。


一叶「蒼、今1人?」


蒼「ええ。」


一叶「ちょっといい?」


蒼「今すぐにしなければならない話なのでしょうね?」


一叶「今回は雑談しにきたんじゃない。重要な話し合いだよ。わかってるでしょ?」


蒼「…やっぱりその話なのね。上がって。」


そういうと一叶は礼儀正しく

「お邪魔します」と言って室内に入った。

ダイニングテーブルへと促し、

対面するように座る。

一瞬の無音が緊張感を生んだが、

一叶は小さく笑い口を開いた。


一叶「今日はお疲れ様。」


蒼「お疲れ様。まだ制服のままなのね。」


一叶「少し立て込んでてね。」


蒼「…そう。」


一叶「今回の舞台、古夏と杏も誘って完成させたらしいじゃん。」


蒼「情報は早いのね。杏のツイートからかしら。」


一叶「誰でもいいじゃん?犯人探ししなくても。」


蒼「ふうん。…一叶の言った通り、その2人を助っ人として誘ったわ。」


一叶「良くも悪くも何も起きなかったみたいだね。」


蒼「そうかしら。いろいろあったわよ。」


思い返すだけでも、

台本作成が遅れていたり

舞波が主役を交代して欲しいと言い出したり

本番では停電したりなど、

ぱっと思いつくだけでもこんなにある。


一叶「杏のことをもっと気にかけたり、古夏の声を取り戻したりくらいしてあげればよかったのに。」


蒼「何を言ってるの?前者はさておき、後者はそんな簡単なお話じゃないでしょう。」


一叶「せめてSNSで発信するくらい…まあ過ぎたことだからいいけど。」


チャンスは何度かあったのに、と

言いたげな目つきでひとつ息を吐いた。

タブレットを操作して

何かしらの画面を用意しているらしい。

空白の時間すらもったいなくて

話をすり替えるよう

別の話題がないか脳の中を巡る。


蒼「そういえば、植物を育ててたわよね。あれはどうなった?」





°°°°°





蒼「どうしたのよこれ。前からあったのかしら。」


一叶「ううん、この夏からだね。」


蒼「また急ね。」


一叶「意外といいもんだよ。水やりとか花が落ちたりとか虫のこととか、なんかいろいろ大変だけど。」


蒼「でも綺麗なのでしょう?」


一叶「そうだね。でも大変なものは大変。あればいいけどこれは駄目ってやつ。」





°°°°°





前に一叶の家へと向かった時、

3つほどの花束のような

大きさのものが

目に入ったことを思い出した。

が、一叶はあっけらかんとして言う。


一叶「ああ、全部捨てたよ。」


蒼「え?」


一叶「捨てたというか……いや、まあ、捨てたかな。」


蒼「どうして。大変だったから?」


一叶「それもあるし、蒼は知らないと思うけどあの後植物をものすごく増やしたんだ。花が咲いてるのも含めて、部屋敷き詰めるくらい。」


蒼「ええと…その行動も理解できないのだけど。」


一叶「やっぱり花は大変。花粉も花びらも落ちるし枯れた後ももちろん。」


蒼「そうでしょうね。」


一叶「質問の答えから逸れちゃったね。手に負えなくなったからってのと、もう必要なくなったから、が理由だよ。」


蒼「必要なくなった。」


一叶「そう。思っていたよりも早くに決定的な選択があってね。その選択があった時はある部分が一定数値に達していないことが確認できた。」


蒼「話が見えてこないわ。」


一叶「そうかもしれない。とにかく、ある意味幸運だったってことだけ知っていればいいよ。」


蒼「誰にとっての幸運かしら。」


一叶「珍しく突っ込んでくるね。」


蒼「重要な話し合いの前の会話だもの。気になるわ。」


一叶「あはは。いいよ。幸運は広範囲の話だね。例えば蒼のいた演劇部の今の話やその未来の話…助っ人として参加した古夏や杏の話だとか。」


蒼「ならばその逆は。」


一叶「不幸の話?それはもう想像できるんじゃないかな。」


蒼「…私1人、かしら。」


一叶「ふふ、どうだろうね。」


蒼「あくまで答える気はないのね。」


一叶「うんと珍しいことにだいぶ教えたよ。」


蒼「最期だから?」


一叶「元から決まっていたかもしれないよ。…さっき言ったことは答えにも等しいんだ。これ以上は何も出てこない。それはそうとして、この話を本当だとして受け取るの?」


蒼「…さぁ。」


一叶「あ、ずるいんだ。」


蒼「あなたがしたことよ。」


一叶「あはは、そうだったね。…さて。」


準備が終わったのか、

座り直してこちらを向く。

タブレットの画面は見せるわけでもなく

あくまで彼女だけが見るためのものらしい。


一叶「重要な話とは言え、ただの確認をしにきただけなんだ。」


蒼「…。」


一叶「2024年9月8日。園部蒼、契約は満了だ。」


蒼「…そう。」


一叶「蒼、お疲れ様。」


家に入ってきて直後、

お疲れ様と言われた時とでは

全く意味の異なるものだった。


文化祭お疲れ様。

今回は、園部蒼お疲れ様。


人生お疲れ様、も同義だ。

なんだかんだ数年間

よく生きたと思う。

これで私の人生が終了すると思うと

あっけないとは思うが、

最後に貴重な経験ができた。

今だけなら悔いはないと錯覚できよう。


この後私がどうなるかわからない。

目を閉じてその時を

待とうとした時だった。


一叶「ただし。」


蒼「…?」


一叶「念の為今後のためにもいろいろと残してはある。契約の更新の許可が降りたんだ。先生のご好意だよ。」


契約更新。

その許可。

頭の中で言葉が浮遊している。

理解ができなかった。


蒼「……え?…それはどうして?契約は今日で…」


一叶「落ち着いて。1回疑問を呑み込んで話を聞いて欲しい。」


蒼「…わかったわ。」


一叶「まず、契約更新の許可が降りた。意味はわかるね?」


蒼「…えぇ。」


一叶「ただ、さっきも言った通り初期に予定していた期間の契約は満了したが故、いろいろ残してあるとは言っても限りがある。今後の人生において、いつか暮らせなくなる日が来る。金銭は問題なくとも、蒼そのものとしての話だよ。」


蒼「…。」


一叶「そこで相談、いや、提案だ。」


契約更新については

その許可が降りただけ。

となれば、次に彼女が言うことは予想できた。


一叶「契約を更新しない?」


蒼「…なるほど。」


一叶「蒼の性格上満了は満了だ、と言って更新はせがみそうになかったからね。こう言っておかないとそもそも視野に無かったでしょ。」


蒼「私がわがままを言って更新されるような話ではないと思っていたからよ。ものを売買したり、保険だったりそういったものの契約とは度を超えて難儀なものじゃない。」


一叶「そうだね。蒼は賢いし引き際を見定めている。けれど頑固。」


蒼「それでいいのよ。軟弱ではいられないのだから。」


一叶「なんだかんだ言って蒼も被害者だよ。そうならざるを得ない環境だったことは確かだ。」


蒼「許可が降りたと言ったけれど、それは一叶が頼み込んだというの?」


一叶「そういうことになる。」


蒼「何故?」


一叶「…そうだな、難しいけど…もうちょっと蒼の過ごす未来を見たいんだよ。」


とにかく、と一叶は話を戻す。

はにかむ彼女を見て、

まるで仮面がひとつ剥がれたようだと思った。

本心でそう思っているように

見えてしまう今の私は

それほど冷静な判断が

できなくなっているのだろう。


一叶「とりあえず11月まで更新しようか。その後はまた話し合おう。さらにその後はどうするのか。」


蒼「…卒業後、展望はあるのかしら。」


一叶「ない。」


「いや、ないに限りなく近いだね」と

言い直した。


蒼「1%もかしら。」


一叶「さあ。ただ生活以前にそもそもとして生存が危ぶまれるだろうね。だから展望はない方が正しい。」


蒼「そうよね。…わかりきってることだったわ。」


一叶「選ぶのは蒼だよ。」


蒼「…けれど更新を持ち出した。」


一叶「…うん。」


蒼「やっぱりあなたは意地悪なのね。」


一叶「でも終わってほしくはなかったでしょ?それは…互いに本望じゃない。」


蒼「中途半端な優しさは余計な苦しさを生むのよ。」


一叶「全ての権限があるのであれば、無期限に契約を更新したさ。」


「友達を守るために」と

付け加えて言った。

一叶と私はあくまで

契約絡みの関係で、

彼女もそう割り切っていると

思っていたからこそ、

友人と言われ驚いた。


それと同時に一叶が

それができない立場をわかってくれ、とも

私だって辛い、とも言わなかったことに気づく。

まるで無駄な感情を

当然のように落としてきたようだった。

ぱた、とタブレットを倒す。

その画面は既に真っ暗だった。


一叶「選ぶのは蒼だよ。きっと。」


蒼「きっとだなんて不確定でらしくもないこと言うのね。」


一叶「そうだね。」


「そう言いたくなった」と

目を伏せて弱々しくそう言った。


突如として訪れることになった

明日を目の前に動揺しながら、

しかし確かに安堵したことを胸に

ひとつ深呼吸をした。

少なくとも残り2ヶ月。

その後、私は、一叶は

一体どんな選択をするのか。

今からは想像もつかない。











砂漠の幕 終

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