風砂
京香「雨が降るのって鳩羽と漆のところだけだよな。なんか羨ましいなぁって。」
碧里「雨ばっかりだと大変じゃないー?」
京香「そうだけど、恵みの雨ともいうだろ。2人だけなんつうか…泣くのが許されてるみたいでいいよなって。」
碧里「確かにー…?でも、漆のところ…住処みたいなのってあったっけー。」
京香「最初と最後のところじゃないの?漆の道ってあるからてっきりそうかと思ってた。」
碧里「そっかー、じゃあ最後もこの道に戻ってくる感じなのかな。」
京香「と、思ってるだけで由佳子先輩から聞いたわけじゃないからな。」
碧里「まあまあ、全部答えを聞いちゃっても面白くなくなっちゃうからー。」
2人は読み合わせるわけでもなく
台本について話している。
大小道具も担当することになったため、
それについて相談しているらしい。
碧里「じゃあここの小道具、最後の花束のところは名前の色の方が良さそうだね。」
京香「色?」
碧里「あれ、違った?」
京香「蜜柑はわかるけど他は違うだろ。」
碧里「えー、嘘ぉ。和の色名を見るのが好きでね。台本もらった後に見てみたらそこにあったんだよー。」
京香「へえ。漆と純も?」
碧里「それ単体ではないけど…それも色だと思うよ。今回小道具の準備はいらないけど。」
京香「何色?」
碧里「うーん、私の考察でしかないけど…問題ー!」
京香「は?急に?」
碧里「純と漆、それぞれに白と黒を足すとどうなるでしょうー。」
京香「ほぼほぼ答えじゃねえか。純白…と漆黒?」
碧里「そう!綺麗な対義語だよねー。和の色の範囲かといわれるとちょっと違うんだけど、でも色であることには間違いなさそうかなーって。」
京香「じゃあ途中のシンって名前は?」
碧里「わからないなー。シャーペンの芯とか心臓の心とかかなって思ってたけど。」
桃「純の後にシンをつけると純真になったり、なんて考えたけど、どうだかわかんないね。」
桃が割って入る。
古夏も興味ありげに
2人の会話に耳を傾けているようだった。
京香「なるほど、思ってる以上にいろいろ考えられて作られてるんだな。」
桃「だね。たとえ作者が想定してなかった考察だとしても、自分たちなりに意味を見つけて付加する楽しさがあるから。まあ、あまりに的外れだと怒られそうだけど。」
碧里「由佳子先輩なら優しく教えてくれそうだよー。」
碧里が口元を緩める。
彼女がいるだけで幾分か
空気が和らぐようだった。
部活の開始時間までは
10分ほどあると言うのに、
皆して早めに来ては
台本と向かい合って
あれこれと話していた。
古夏と桃は相変わらず
更に早く来ているらしい。
何度か顔を合わせていることもあってか、
古夏の表情も少しずつ
柔らかくなってきた。
杏と対面する時は
まだ小動物のように縮こまっているが。
やがて由佳子や夏希も集まり、
そろそろ時間になろうとした時だった。
ばん、と大きな音を立てて
誰かが扉を開いた。
無論、舞波だった。
手には道中も読んでいたのか
台本が握られている。
かなり読み込んだのか、
折り目がいくつもあり
部分によってはくたくたになっているのが
この距離で見てもわかる。
たった1週間。
お盆の間しか空いていない。
毎日数回、通しで練習していた私でさえ
そこまでぐしゃぐしゃにはなっていない。
彼女のそれは丁重に扱っていなかったか、
それとも──。
答えが出る前に
舞波は「おはようございまーす」と
変わらず間延びした挨拶をしては
ずいずいと進んでいった。
気の抜けた挨拶の声とは裏腹に
目つきはやけに真剣味を帯びていた。
そして。
舞波は古夏へ
丸めた台本を向けた。
古夏は縮こまるよりも前に
驚きのあまりかきょとんとしていた。
舞波「先輩。」
古夏「…?」
舞波「主役、交代してください。」
桃「…え!?」
皆が騒然とするのが分かった。
中でも桃はらしくもなく
声を上げて驚いた。
由佳子も夏希も目をまんまるにしており、
杏も意外そうに
目を見開いていた。
舞波に対しての印象は
皆して似ていたのだろう。
だからこそ、この申し出がなされるなど
考えたこともなかったのだ。
桃「な、何で急に…?嫌になっちゃったとか…じゃないよね?」
舞波「そんなんじゃないからわなわなしないでよ。」
桃「だって…」
舞波「まぁ、言いたいことは分かる。」
そう言って台本を下ろし、
彼女は円に入り込むように
古夏と桃の間に座った。
舞波「とにかく、古夏先輩が主役をやるべきです。」
桃「舞ちゃん。それ」
舞波「桃は黙ってて。」
桃「…。」
でも、と言いたげな唇を
きゅっと結んだ。
中学時代から一緒に演劇をやってきた身だ。
もしかしたら何かを知っていたのかもしれない。
舞波「前回の合わせの時思ったんです。古夏先輩の演技がすごいって。負けたくなくて、お盆の間やれるだけやってみました。でも、どうしてもあの表情も雰囲気も作れない。」
夏希「…。」
由佳子「ね、ねぇ…役の交代、本気で言ってるの?」
舞波「もちろんです。」
夏希「時間は後3週間もないんだよ。」
舞波「それは…ごめんなさい。」
夏希「…古夏先輩には申し訳ないことを話すけど…声のことはどうするの。」
舞波「私が裏から声を当てます。純の役だとしてもそうなるのは変わりないじゃないですか。先輩の表現力には当分及ばないと思うけど…それでもやってみます。」
杏「そっか、そしたら舞波がセリフを覚えた分も無駄にはならない…と。」
舞波「ただ、先輩が覚える動きが格段に増えるので、負担が偏るかなって思います。」
杏「舞波も純のセリフを覚える負担はあるの、忘れてない?」
舞波「それは大丈夫。覚えるから。」
夏希「あとひとつ。」
舞波「はい。」
夏希「文化祭は裏から声を当てる方法をとっても大丈夫として…大会でもそうするの?」
夏希を目を細めた。
舞台の大半を、裏から?
そう言いたげな視線だった。
純のセリフ量であれば
演出だという言い訳もできる。
しかし、主人公のセリフ全てが裏からとなると
正直なところ台本を覚えず
そのまま読み上げたっていいわけで。
それは舞台としてどうなのだろう、と
思うところはある。
彼女はスカートを握り、
背筋を伸ばしたまま
真っ直ぐ夏希を見て言った。
舞波「最低なこと、言っていいですか。」
夏希「誰か個人を非難することは駄目。」
舞波「そういうことではなく、部活を否定するようなことです。」
夏希「それは」
蒼「いいわよ、言って。」
夏希「先輩。」
蒼「話が進まないのは本望ではないわ。」
桃「……私も聞きたいです。」
夏希「……。」
夏希は口をつぐんだ。
はい、ともいいえとも言わずにただ黙った。
きっと先輩である私がいる前で
部活を否定するようなことを言うのは
憚られるとでも思ったのだろう。
それ以前に、自分自身が
この部活を好きだからこそ
止めたのかもしれない。
真意は図れないまま
舞波は小さく頷いた。
舞波「正直、現状を見るに大会で勝ち進むのは難しいじゃないですか。」
桃「…それはそうかもしれないね。」
舞波「みんなはどう思ってるんですか。勝ち進もうと思ってこの台本をやってますか。それとも、文化祭や大会に出るからやってますか。」
夏希「…去年の経験から見るに、その先の大会に進むのは難しいと思う。」
由佳子「京香ちゃんと碧里ちゃんは経験ないから…想像するの難しいよね。私も、実はそんなにわからなくて。」
桃「県大会すらも厳しい状況だと思います。」
舞波「杏は。」
杏「高校演劇は触れたことないから、適当なことを言うのも違うだろうし…全然わからないんだ。こんな大切な話なのにごめん。」
舞波「ううん、ありがと。蒼先輩は。」
蒼「皆が今言ってくれたわ。」
舞波「客観的に見れる先輩たちや桃が言うんならそうなんですよね。」
夏希「…だから、主役を降りると?」
舞波「古夏先輩を越せなかったから単純に辞めるんじゃないです。」
「古夏先輩」と
舞波は隣に座っていた
彼女の方へと膝を向ける。
古夏も緊張してか
少しだけ、ほんの気持ち程度
舞波の方へと体を向ける。
舞波「本音で答えてください。」
古夏「…。」
舞波「この舞台の先の未来、役者をやりたいと思いますか。」
心がざわついた。
森の中に迷っている間に強風が吹き、
一斉に木々がざわめいているような
胸騒ぎがした。
どうか。
どうか答えを出さないでほしい。
そうとすら思ってしまった。
いや、それが正しくないことは知っている。
けれど、答えを出さなければ
いつまでも見なくていいものを
見ないでいいようで。
古夏が役者を1度辞めていることを
突きつけられずに済むようで
少し安心していたのだ。
過去、画面越しで彼女を見た。
いつだか、彼女の出演する
舞台に足を運んだことがある。
確か、両親に連れて行ってもらったのだ。
舞台上の彼女はテレビで見るよりも
うんと小さくて、
けれどうんと輝いていた。
人ってあんな表情ができるんだ、
あんなに楽しそうに
舞台の上で生きれるのか、と
幼ながらに感動したことを覚えている。
その後、私とて訳あって
堅実な生き方をせざるを得なくなり、
芸術の分野からは
遠ざかるように生きるようになった。
遠ざけなければならないと思った。
浮ついてしまうのを防ぐため、
できる限り堅実に、機械的に生きるため。
しかし、どう足掻いても私は
人間の範疇から出られないらしい。
古夏の演技が脳内を掠めて離れない。
中学生になって
演劇部たるものがあると知った。
見てみたい。
知りたい。
彼女が見ていた景色を、私も。
そんな浮ついて薄汚れた、
しかし手放したくない
仄か明るい光を持った欲を
捨てることができなかった。
舞台の上は、この世の、
私にかかったしがらみを
刹那忘れさせてくれた。
演劇の世界を教えてくれた古夏には
とても感謝している。
だからこそ、目を背け続けてきた。
古夏は舞波の目をしっかり見て、
純の役をしていた時のように
優しく笑ったのだ。
そして。
首を小さく振った。
舞波「これを最後にするつもりでしたか。」
古夏「…。」
頷く。
そうか、と
短く息が漏れた。
舞波「じゃあもうひとつ聞かせてください。」
古夏「…。」
舞波「子役時代…役者としての最後は納得しましたか。」
古夏「…。」
舞波「いいや…納得できますか。」
古夏「…。」
舞波「古夏先輩は子役をされてましたよね。見てました。テレビ越しだったけど。でも、いろいろ噂されたじゃないですか。」
古夏「…。」
舞波「そんな悲しい終わり方、私は嫌です。」
古夏「…。」
舞波「古夏先輩。」
古夏「…。」
舞波「これを、この舞台を、古夏先輩の花道を飾るためのものにしませんか。」
惜しまれながらも引退すること。
この舞台を、古夏の本当の引退として
昇華したいと彼女は言った。
「こういうつもりで
書いたわけではないですよね」
「由佳子先輩には申し訳ないですけど…」と
歯の隙間から漏れる息のように
細い声でそう伝う。
舞波「でも、大会に進むことを最終目標としない…することが難しい今…私はこの舞台、古夏先輩に捧げたいです。」
桃「どうしてそこまで…?」
舞波「私が見たいから。」
見てみたい。
知りたいから。
舞波はそう澱みのない瞳で言った。
きっと舞波はもっと演技が上手になる。
この演技の世界に
のめり込みそうだと思っている。
だからこそ、その成長のためにも
古夏の演技を目に焼き付けたかったのだろう。
舞波「どうですか。」
古夏「…。」
古夏は近くにあった
自分の台本を引っ張り出し、
1番最後の白紙の部分に
つらつら、と文字を連ね始めた。
無音に響く、黒鉛の擦れる音。
その時間はやけに長く感じる。
1秒、1分…どれほど経たのだろう、
書き終えてはまず先に
舞波へと渡した。
彼女の目が丸くなる。
「そう、ですか」と
事切れそうな息が紡ぐ。
桃「…見てもいい?」
古夏が頷く。
舞波から代理で伝えることはしなかった。
皆がぞろぞろと集まって紙を眺む。
そこには。
『引き受けられません』
と、ひとこと。
そしてその下には
自分は声が出せないこと、
演技を見たいと言ってくれた気持ちは
嬉しいけれど、
役者の道を歩まないと決めている自分より
その道を進む可能性がある舞波が
主役をした方がいいと思っていることが
綴られている。
迷いはなかったのだろうか。
古夏の静か漣のように揺らぐ瞳を見る。
まるでこれでいい、と
言い聞かせ終えた後のように、
皆の反応を見ていた。
舞波は納得していなさそうだったが、
話し合いを経て
これまで通り舞波が主役の漆、
そして古夏が純を演じて
裏から私が声を当てることになった。
台本を半分外しながら読み合わせたり
立ち位置を確認したりといった練習をし、
部活終わり、杏を2人
並んで通学路を歩く。
杏は帰る直前になって買っていた
水の入ったペットボトルで
首筋を冷やしながら
「あぁー」と声を漏らす。
杏「今日いろいろあったなぁ。」
蒼「まさか主役の交代を申し出るなんてね。」
杏「薄々そうなるかなー、とは思ってたけど。」
蒼「どうしてかしら。」
杏「一緒に読み合わせたり話したりしてるうちに、かなぁ。」
一緒に。
部活内では確かに
2人に桃が加わって
固まっているところや、
2人だけでいるところも
何度か見たけれど、
そんなに長い間共にいただろうか。
蒼「あなた、舞波と仲良かったの?」
杏「いやぁ、なんだかんだでそうなりまして。実は遊びに行ったり連絡取り合ったり…まあほどほどに。お盆もちょっとだけ練習に付き合ってたんだよね。」
凄まじかったよ、あの集中具合は、と
ペットボトルのキャップの方を持ち、
緩やかに回しながら言った。
杏「役決め前だったかな、言ってたんだよ。『やっぱ主役が1番見てもらえるしチヤホヤされるじゃん?』って。だからどれほど大変だろうとそれしか狙ってないって。」
蒼「彼女らしい考え方だけれど。」
杏「そう言ってたのに、主役を降りるって言ったんだよ。」
蒼「それは諦めると言っているようにも見えたわ。技量の差が辛いからそれを免れようとしているだけなのであれば、それは迷惑でしかないわ。」
杏「さぁ。そこまで利己的なだけの子じゃないと思うけど。」
ぺこ。
ペットボトルが凹む音がした。
ちらと横目で見てみれば
杏は水を飲んで、そしてまたキャップを閉めた。
杏「不覚にも古夏が主役の方が舞台全体が良くなるって思っちゃったんじゃない?まあ本人の口から聞いたわけじゃないから知らないけど。」
蒼「どうかしらね。」
杏「意外とあの子、ちゃんと演技も演劇部も好きだよ。だから他の先輩や同期がいなくなったって部活に残ってるんだろうからさ。」
蒼「舞波のこと、よく知っているのね。」
杏「蒼が人のことに深煎りするのが下手なだけですー。」
蒼「不要だもの。」
杏「あー、ほらまたそう言って。うちは蒼のことも知りたいけどなー。」
蒼「意義を感じられないわ。それに杏はよそに言いふらしそうだから嫌よ。」
杏「心外だなぁ。」
さらりとかわすようにそういう。
彼女が本気で傷つくようなところは
今のところ想像できない。
そのくらいいつもへらへらとしていて
掴みどころがないのだ。
杏もまた、私に対して
腹の底を見せるのは
億劫なのだろうなと密かに感じとるだけだった。
8月も3分の2を終えた。
文化祭まで、今後さらに
忙しくなることだろう。
部活の頻度もこれまで
週3日だったのが
週によっては4、5回と増えていく。
やれることをやるのみだ。
鞄を持ってに力が入った。
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