噛み潰す
夏希「じゃあ早速ではあるんだけどざっくり位置取りながら読み合わせしたいから、稽古場の方に移動しよう。」
杏「稽古場があるんすか。」
夏希「ここより広いだけの普通の教室だけどね。ここの廊下を少し行ったところなんだ。」
桃「案内するよ、こちらでーす。古夏先輩も!」
古夏「…。」
今日も古夏は早くにきたようで、
私が部室に入る頃には
同様に早くにきていた桃と
あれこれ会話をしているようだった。
昨日から古夏は部活に参加した。
桃や夏希のサポートがあり、
とりあえずは受け入れてもらえるような
空気はできていた。
読み合わせは代わりに私が読んだ。
舞波はよく思っていないのか
古夏と会話すらしようと
しなかったことが気がかりだったけれど。
由佳子には声を出せない彼女を
役者として推薦したと
事前に説明しなかったことを謝罪した。
まずは台本を完成させることが優先だと
考えていたことを伝えると、
「進捗を心配して連絡くださいましたもんね」と
重圧だったのか困ったように、
けれど微かに笑って言った。
次の瞬間、それを考慮して
どう変更すべきかと
独り言を呟きメモを書き殴り始めてた。
台本は初校が完成した時点で
古夏に送っているので、
目は通してくれているのだろう。
昨日は紙媒体の台本をもらい、
それと睨めっこをしていた。
目が爛々としているように見えた。
そして今日、
発声練習も終え、
役者組は稽古場で動きありの
読み合わせをするという。
が、どうしても台本について
聞きたいことがあった。
蒼「悪いのだけれど、先に通しを始めておいてくれないかしら。ちょっと台本のことで確認したいことがあるから、由佳子は残ってもらえるかしら。」
由佳子「あ、はい…!わかりました…。」
舞波「早くきてくださいねー。」
舞波はいの一番に
部室から出ていった。
身軽い靴音が廊下に踊る。
桃「じゃあ一旦鳩羽のシーンは抜きで…あ、純はどうします?」
夏希「私が代わりに読むからそこもやろう。」
桃「りょーかい。古夏先輩、動きは頼みました!」
なんて話している声が
段々と遠のいていく。
由佳子は猫背になって
台本を両手に持ち眺めている。
まるで古夏を見ているような気分になった。
由佳子「あの…よくないところとかありました…よね。」
蒼「駄目だしをしたいわけじゃないのよ。ただ疑問に思って聞きたいの。いくつかあるから座ってちょうだい。」
これでは圧迫面接をする試験官と
新卒の就活生のようだ。
そんなに怖いのだろうかと
不思議に思いながら正面に座る。
こ、こ、と時計がなり、
共鳴するようにエアコンが唸る。
夏らしい蝉の鳴き声が
曇り空にきんきん響いた。
蒼「まずはじめに、純のセリフについての意向を聞きたいわ。」
由佳子「無くすかどうか、ですよね…。」
蒼「端的に言うとそうなるわね。」
由佳子「今のところ、無くすことは難しいと思っています。純は理想の娘で…家族のシーンや漆とのシーンでその面を全面に押し出して欲しいんです。」
蒼「わかったわ。」
由佳子「先輩はどう思いますか。」
蒼「これに関しては、私も削るのは厳しいと思っていたのよ。だから確認までに。となればもし古夏のまま舞台を進行するなら、舞台袖から誰かが声を当てるか、音声を録音するか…かしら。」
由佳子「そうですね…。」
蒼「次なのだけれど…漆の本名について。台本にはないけれと、別であるのよね?」
由佳子「あぁ…あえて記載はしていませんがありますし、決定もしています。漆というのはあくまで鳩羽がつけただけですから。」
蒼「なるほど。それならなおさら気になるのだけど、家族のシーンのところ、正確には漆の父と母ではないのよね。両親が漆、と呼ぶのに違和感があるのよ。」
由佳子「確かにそうですね…けど、本名をセリフで入れるつもりもなくて…。演出で仄めかすつもりです。答えが中盤で出てしまったらなんとなくしっくりこなかったんです…。」
蒼「両親とのシーンで本名が出たら犯人がわかったミステリーのようになりそうね。それに、漆と本名だとそれはそれでややこしくなるし、あくまで追憶なら突っ込むところでもないのかしら。」
由佳子「漆はある意味記号としてずっと使う名前…なイメージです。両親視点、純に変わろうが漆と呼び続けるのも、漆が捨てられて純になったと気づいていないのを表現したくて…。」
蒼「そうなのね。ならここはこのままのほうが良さそうね。」
由佳子「なんだか…書いてる時は視野が狭くなってたんだなって…。」
蒼「こうしたいっていう軸はあるじゃない。それがあなたのヒントを通じて伝わっているのだから、そのまで悲観的になることでもないと思うわ。」
由佳子「…ありがとうございます。」
台本を捲る。
自分のメモが数列並んでいる。
由佳子はペンをずっと握っており、
言葉を交わすたびに忙しなく動いていた。
つい数日前に刷ってきたばかりなのに、
既に隙間には夥しい数のメモが
書き残されている。
由佳子「他にもあれば聞きたいです。」
蒼「漆は多重人格で、蜜柑たちはそのひとつひとつ人格…という解釈でいいのかしら。」
由佳子「そうですね。そうなんですが…うーん…鳩羽も蜜柑もみんな、漆が捨ててきた感情たちなんです。感情であり人格で…難しいですよね。」
蒼「そういえば捨てたものしかない、と鳩羽のセリフであったわね。」
由佳子「はい。まずちぐはぐなことで迷ってしまう大人びていて、でもある意味子供な自分を捨てて、軸を持つことにするんです。」
蒼「だから長く裏側の空間にいる…古くから人格として作成されている、と。」
由佳子「はい。次に普通はこう考えるべき、と言った正しい思考を持つ露草の感情を捨てます。普通であれば、親にどう言われようと好きなように生きることを望むのが漆本体です。親の言いなりになるのは違うと考えます…だけど、それを諦めます。この時点でほぼほぼ純の軸が出来上がっていくんです。」
由佳子は先ほどまで
怯えるようにして話していたのに、
目つきは真剣なものへと変化していた。
自分の中でもきっと
この台本に対しての答えが見つかっておらず、
それを探そうと宝の地図と
睨めっこしている顔つきのようにも見えた。
由佳子「それでも何かを楽しみたい。本当はバンドを組んでみたかったけど、駄目なことは目に見えていて…それは愚か吹奏楽部の入部にも口を出されてしまい…僅かあった興味も捨てます。」
蒼「それが蜜柑ね。最後に若葉と青磁…この2人が最後に捨てられるのが少し意外だったのよ。」
由佳子「そうですか…?」
蒼「ええ。特に若葉。蜜柑と似ていて何かを楽しむと言った感情の形のように見えたわ。」
由佳子「確かにその一面もありますね。でも若葉の主軸は楽観主義…どうにかなる、みたいな無意味な自信です。蜜柑はその辺りちょっと現実主義的にしたかったんですが…やっぱり似ちゃってますよね。」
蒼「似てはいるけれど、今の説明で少し噛み砕けた気がする。」
由佳子「よかった…。でも、もうちょっと分別できないか試行錯誤してみます。」
由佳子は「もっと楽観的に」、と
自分の中で整理のついた文を
書き残していた。
由佳子「そして青磁は、台本でもある通り怒りです。怒るとかキレるって大切なものだと思うんです。不合理なことに怒れるって、きっとまだ諦めていない証拠だと思うから。」
青磁は怒りという怒りの言動は
台本内ではないけれど、
ところどころ荒々しい口調に
それが表れているように見える。
蒼「それを最後に捨てるのね。青磁と若葉が純に会ったことがないのって、もしかしてその頃には純が表に出突っ張りだからかしら。」
由佳子「そうです…!純はどちらかと言えば昔は捨てられた側にいたんじゃないかなって思ったんです。けどだんだんバランスが傾いて…それで、漆がこの空間へ。」
蒼「それなら漆は?本来の自分というのはわかっているし、自分を捨てたからこそ完全に純になれたというのは理解できるのだけど…けれど、これだけ多くの感情を捨てているのなら、最後に若葉と青磁の感情を捨てた時点で純になれるんじゃないかしら。」
由佳子「それでいうと、最後に捨てられたのは漆自身ですね。…これまでの感情に足りないものがあると思いませんか。」
蒼「複雑なものは抜きにして基本的なものからかしら。」
由佳子は頷く。
それでいうと、
よく言葉として見るのは喜怒哀楽。
なるほど、腑に落ちて口に出す。
蒼「…哀しみね。」
由佳子「はい。自分の思う不幸に悲しむこともやめたんです。悲しいことを悲しめない。…最後の砦な気がして。」
蒼「漆が感情のひとつなら、オリジナルというのはどうなるのかしら。」
由佳子「ちょっと無理矢理ですが、主人格が常に悲しんでいた…と解釈していただければと思います。だから主人格が奥に下がった今、皮肉なことにある意味最も幸せな状態なんです。憂うことも何もなく、期待に応え続ける存在…でも、たまにやりきれない時があって、蜜柑たちが表に出て助ける場面もある…。」
蒼「純にひびが入ることはあるのかしら。全て捨てた後だとしても。」
由佳子「漆が暴れているのであり得ます。」
蒼「それは主人格な上、捨てたはずでもどこか悲しいって思っているからかしら。」
由佳子「はい。そして、鳩羽の名付けのせいでもあります。名前があるからこそ、よりそこにあるものを実感してしまうことってあると思うんです。」
例えば、相手に対して
複雑な感情を持っていたとする。
そのうちのひとつが
嫉妬などと知ってしまった暁には、
より妬いて、いつか憎くなってしまう
…みたいな話なのだろう。
自覚することで目につきやすくなるのは
実際にある話だ。
蒼「ここまでの話を聞くに、この台本の最後は統合の認識ではなさそうね。」
由佳子「はい。統合だと円満解決して、分裂して捨てた感情たちが戻ってくるみたいじゃないですか。けど、この話はそうじゃない。」
蒼「両親とのことは何ひとつ解決していないものね。漆が迷い込んで、この空間がなくなるだけ。」
由佳子「となると、純として生きていくことになるのが、この物語の終着点だと思うんです。けど、完全に純になると全てに救いがない…だから、せめて漆を戻す…という感じでしょうか。」
悲しむことができるのは
辛うじて心が生きている証拠。
それすらできなくなれば
本当に壊れてしまうから。
しかし、逆に言えばそれ以外の感情は
1度無かったことにしてしまうのだ。
消してしまうのだ。
改めて演目をなぞる。
文字が指の腹のしわに
吸われていきそうな感覚に見舞われた。
花道を飾る。
…惜しまれながらも引退すること。
漆と純以外は
晴れてその役目を終えるのだ。
由佳子「せめてもの反抗として悲しさを宇宙へ…現実へ送り返すんです。完璧と悲しみだけをもって…どこかで楽しみとか怒りとかの星を見つけて呼吸しながら…。そうなると、純と漆の場面も変更ですね。純は消えないから…ここも変えなきゃ。」
「すみません、最後の方こんがらがっちゃって」
と細い声で言った。
次々とメモが足されていく。
こんなに考え、構想を練っているのだ。
数学と違い、答えはない。
こんがらがるのも当然かもしれない。
由佳子「他はどうでしょうか。」
蒼「キャパオーバーにならないかしら。」
由佳子「全部言ってください。修正があるのは承知の上ですし、お盆に入ったら直接話せません。連絡に時間がかかっちゃいます。台本、完成させたいんです。」
蒼「…わかった。私があと気になったのは、鳩羽はどうして漆が元となる人格だと知ることができているのか、かしら。」
由佳子「やっぱりそこ引っかかりますよね。私もそこは噛み砕けていなくて…初めは鳩羽が長くいるからということにしようと思ったんですが、それでもしっくりこないんですよね…。」
蒼「誰も漆が主人格だとは知らないほうがいいような気がするわね。」
由佳子「ですね。そうなるとなぜ名前をつけたんだってことになって…。何となく…とか、ふわっとしちゃうんです。」
蒼「名付けの原動力が漆を守り壊すためだったが故にそこがずれる…と。」
由佳子「ならこういうのはどうでしょうか。ちょっとチープになる気もしますが…鳩羽は長いことここにいますし、酷く退屈していて、平凡でルーティン化された日々を壊したかった、とか。」
蒼「それなら、人格の増加は目に見えているのだし、表の状況がよくないことは想像に容易い。好転させるために何かを変えなきゃと焦った…というのはどうかしら。」
由佳子「いいかもしれません。鳩羽のアンビバレンスな感じが出てる気がします。優しさと不器用さ…うん、いいかも。」
他の人格たちと仲良くしたい、
けれどぶっきらぼうに冷たく
「退屈だったのさ」と言い放つ
鳩羽の姿が浮かぶ。
その方がこいつと離れられて
清々したと思ってもらえるから。
寂しいくせして、1人でいるべきだ、
それでよかったなんて思うのだろう。
あまりに独りよがりでエゴの塊だ。
だんだんと鳩羽の像が見えてくる。
雲の中に隠れていたそれが
風によって顕になるようだった。
蒼「そこにちょうどよく名前を忘れた漆がやってくる…。いいんじゃないかしら。…そうね、鳩羽自身はこの空間が嫌いだったわけでもないと思いたいわ。」
由佳子「私もその解釈です。居心地はいいけど退屈で、迷いに迷って1人で決めちゃったんです。外に出ようって。けれど、その行動の先は自分たちの消滅…。」
蒼「報われないわね。」
思っている以上に
沈んだ声となって空気中を漂った。
それを気にしないようにと気遣ってか、
やや声を張って由佳子は言う。
由佳子「それなら後半に入ってすぐの露草と鳩羽のシーン以降も要修正ですね。漆が主人格だったってことは、ちゃんとどこかで明記した方がわかりやすいだろうから…。」
蒼「後半、大幅修正になるけれど大丈夫かしら。」
由佳子「お盆に詰めます。ごめんなさい、確定までが遅くなってしまって…。」
蒼「前半は練習できるわ。それに、台本の軸が固まっていくのであれば本望よ。」
ぱらぱらとそれを捲る。
鳩羽が露草に詰められるシーンが
偶然にも開かれた。
「救いようのない人ですね」という
露草の言葉が自分に向けられているよう。
蒼「この台本、主には両親との関係の不和よね。ならばどうしてももっとわかりやすいような形にしなかったのかしら。もちろん、内容が一層重くなるしそのあたりも考えてくれたとは思っているけれど、気になったのよ。」
由佳子「そうですね…。」
思い悩んでいるのか、
口元を隠し考えているようだった。
少しして小さく頷き、
彼女はペンを置いた。
由佳子「思うんです。露骨に虐待であると言われるものは年々統計として増えてきています。子供の人数は減っているのに。不思議な話ですよね。」
蒼「昔からあったものが露呈してきているとも言えるんじゃないかしら。」
由佳子「はい、もちろんそれもあります。時代…でしょうか。そういう子は声をあげやすいんじゃないかと思うんです。いや、もちろん事情はありますし、簡単に声を出せない現実があるのを知っています。助けを求めたって周りの大人が動いてくれない場面もあって、しんどくて、誰も信頼しようなんて思えなくなって…生きる気力が底を尽きる。そんなことがあるのもわかります。」
由佳子はスカートを優しく握った。
言葉を選んでいるのだろう、
ややあってから長い前髪を
少しだけ横に流して言う。
由佳子「けど、私が今回焦点を当てたいのはそこじゃなくて…どちらかと言えば裕福で、不便ないと思われている子にしたいんです。」
蒼「不便のない。」
由佳子「両親からはそこそこの愛をもらって、友人や先生にもそこそこ恵まれて…自分でもわかってるんです。幸せな方だって。だからこそ、その層にいる人たちの不幸ってなかなかわからないじゃないですか。…例ですが過保護で…だとか、習い事が多すぎて…とか、困っていたとします。本人にとっては心が疲弊してしまうほどで…でも、助けてと勇気を出していってみても、周りからは「恵まれてるんだから」なんて突っぱねられることが多いかもしれない。だんだん空っぽになっていくんですよ。こんなことで文句言ってる自分は悪いんだ、嫌いだって。少しずつ疲弊の原因への矛先が親から自分に変わるんです。」
恵まれているのにこんなことで衝突して
全て台無しにしてしまうくらいなら
捨ててしまったほうがいい。
自分をからにして、周囲の期待と理想を
詰めていたほうがいい。
そうして純は生まれたのだろう。
由佳子「自分の不幸は自分にしかわかりません。私の不幸と先輩の不幸はもちろん違います。お金がなくなることを最も不幸だと思う人もいれば、愛が枯渇することを不幸だと言ったり、それよりももっと単純な、ご飯をこぼしたことが世界一不幸な出来事だという人もいるかもしれません。人には人の不幸があります。」
それを。
途中で息を吸った。
ひゅう。
喉がかすかに鳴った。
由佳子「一見しただけで外野が文句を言えるものでしょうか。」
言っていいものでしょうか、と
由佳子は口をつぐんだ。
漆はこんな思いをしているのにとでも
言いたげな表情だった。
蒼「……青磁は捨てずに言い返すことはできなかったのかしら。」
由佳子「難しいし、多くのものを捨ててしまった漆にはできないと思います。特に優しい虐待としつけの境界線は曖昧ですから。子供のことを思って言っているのはわかるんです。だからこそですよね。誰も悪くない。それが1番苦しい。怒りの矛先がないんです。捨てたほうが楽なんです。」
蒼「まるで経験があるかのような言い方ね。」
不意に呟いた。
「わかりますか」と由佳子は力なく笑う。
由佳子「ここまで露骨ではありませんが…恩を感じる時もあれば、好き勝手に言われて心底腹立たしい時もあります。けれど、それも恵まれた悩みなのでしょうね。」
蒼「そうね。」
彼女は恵まれていると思う。
私から見れば彼女はそう映る。
けれど、私の知り得ない
彼女だけの不幸があるのだ。
その不幸の形は
同じ立ち位置にならない限り
知ることはできない。
私も彼女も、誰だとしても。
だからこそ、あなたしか知らないのであれば。
蒼「提案なのだけれど。」
由佳子「はい、なんですか…?」
蒼「由佳子も今回役を持ったらどうかしら。」
由佳子「え、ええっ。」
由佳子は目をまんまるにして、
あまりに驚いたのか
猫背だった上半身を
ぴしゃ、と伸ばした。
が、すぐさま一層猫背へと戻る。
由佳子「でも私、役者、やったことなんてないし…。」
蒼「新入生が入ってすぐ、部内に向けてやる短いものならしたことあるでしょう?発声練習もちゃんと参加しているし、経験者ではあるじゃない。」
由佳子「けど……いや、まず…うーん…どうして私に?」
蒼「経験があるのなら、その生々しさが出ると思っただけよ。全く同じじゃなくとも、ニュアンスは掴みやすいと思うのよ。無理にとは言わないわ。ただの提案よ。」
彼女自身ここまで感じて考えているのだ。
傷になっているものなのであれば
もちろん傷口を抉るつもりはない。
ただ、心が辛くて
どうしようもないという
状況でないのであれば、
由佳子が最適だと思ったのだ。
漆などセリフ量の多いものは
負荷がありすぎるし
舞波の反感も買うだろう。
となれば、役の被っている
青磁か漆の父となる。
由佳子「やるとしたら父ですよね。」
本人もわかっているようで
静かに口にした。
蒼「そうなるわね。」
由佳子「…私、目立つことが苦手なんです。だから、これまで大きな舞台は参加してこなくて…。台本を作るのも見てもらうのも、怖くてどうしようかと思いました。」
蒼「そんな感じはしなかったけれど。」
由佳子「先に夏希ちゃんに見てもらっていまして…その時に言われたんです。今回は少しでいいから役者やった方がいいって。自分が、自分で作った登場人物になるなんて…解釈違いがものすごくあって嫌になっちゃう気もするんです…。けど…。」
きゅ、とまたスカートを握る。
そしてその後、台本を持ち
俯いてじっと見つめていた。
うんうんと短く唸った後、
声を震わせて言った。
由佳子「考えさせてください。京香ちゃんには申し訳ないけど…。」
蒼「私から伝えておくわ。提案した責任はあるもの。」
由佳子「ありがとうございます。」
はにかみ、台本で口元を隠した。
彼女の手の側面が不意に見える。
シャーペンの後だろう、
黒い汚れが付着していた。
蒼「長引かせてしまったわね、早く移動しましょうか。」
由佳子「はい…!」
部室を後にする。
ふと台本へと視線を落とす。
まだしわの少ないそれは
さらさらとしているはずなのに
夏だからかまとわりつくような
不快感に襲われる。
雨に当たった後のようだった。
鳩羽のことが
少しだけわかった気がする。
こんなちぐはぐで
衝動に任せて動くような人物のことなど
わかるわけがないと思っていたけれど、
案外違うのかもしれない。
ずっと1人だったのだ。
ああ。
鳩羽、あなたは
1番最初に捨てられたのね。
親とも言える、漆のエゴで。
憂うような呟きが
頭の中を掠めた。
稽古場に向かうと、台本でいう中盤あたり、
漆と蜜柑、若葉、青磁の4人が
騒がしく会話をしている場面だった。
桃「お!話し合いは終わりました?」
蒼「ええ。ひと段落したわ。」
由佳子「すみません。台本の後半、だいぶ変えます…。」
夏希「わかった。どの辺りまでは変更はなさそう?」
由佳子「えっと…」
由佳子を中心に
小さな声で相談する声がした。
主に夏希と話している姿が窺える。
初校完成後、部内に送る前に
彼女に送信していたとも言っていたし、
信頼しているのだろう。
役のある者は上手と下手に別れており、
台本をじっと見つめ、
自分の出番を待っているようだった。
4人の出番が終わり、
漆と家族の回想へと入っていく時だった。
舞波は次のシーンもあるのだが
不意に止め、由佳子たちの方へと向かう。
桃「どした?」
舞波「あのー、変更があるって聞こえたんですけど。」
由佳子「あ、うん。後半は結構変わる…っていうか、変えなきゃだなって…。」
舞波「じゃあこの後のシーンの読み合わせって必要です?」
嫌味も含まれているのだろうか。
純粋な疑問をぶつけているようにも見えた。
彼女のいうことは一理ある。
変更される可能性が高いのであれば、
変更されないであろう場所を
固めるべきなのだ。
京香「1回は通しておいたほうがいいだろ。」
舞波「えー?本当に言ってる?」
京香「ああ。どんな役なのか、動きありでやっていったら互いに気づくところもあると思うし、どっちに捌けるかとかは話し合って損はない。」
舞波「批評するにもずっと正面で見てる人いないじゃん。ずっと台本見てたでしょ。碧里はどう?」
碧里「あー…前半を固めるのは効率的にはいいんだろうけどー…私は60分の台本は初めてだから、慣れておきたいなー。」
舞波「まーそっか。由佳子先輩、どんくらい変わります?セリフはまあ変わるとして、キャラ的なものとか。」
由佳子「場面の数もキャラも変わらない…と思う。大きくはこの後の露草と鳩羽のところのセリフと、漆と純のセリフ…ちょっと解釈というか、設定を変えるから…。」
舞波「え、設定まで変わるんなら前半も無理じゃないですかー?」
蒼「前半でも細かなセリフは変わるかもしれないけれど、基本は今のままよ。」
舞波「文化祭まではあと1か月くらいしかないんですよ?間に合います?」
由佳子「すぐに修正するよ。役者のみんなには迷惑をかけて申し訳ないけど…。」
夏希「舞波、一旦位置に戻って。碧里も言ってくれたけど、60分通しは結構体力も使うし、慣れておいた方がいいから今日はこのまま通すよ。」
桃「設定の変更とかは後で共有しましょー。次のシーンは…漆家族のところですね。」
蒼「夏希。台本について話し合うのであれば、純のところは私が読むわよ。」
夏希「いいんですか。…そしたら、すみませんがお願いします。」
夏希の演じる露草の登場場面までは
あと少ししかないけれど、
そこが終われば最後の場面以外では
登場しない。
夏休み初め、心底申し訳なさそうに
手伝って欲しいと
頼み込んでくれたことを思い出す。
その時よりも目に見えて
背筋が伸びていた。
蒼「やたら静かね。」
稽古場の隅に寄って
隣にいた杏に話しかける。
杏「一応部外者だからね。あくまで助っ人助っ人。」
その割には蜜柑の役は
セリフが多い。
漆、鳩羽に続いて
3番目に多いのではないだろうか。
この部分は大会本番では
誰が演じるのかまでは
まだ決定していなかったはずだ。
まだまだ考え、決めなければならない。
ため息が漏れそうなところを
ぐっと堪えた。
主人公である漆役の舞波は
意外にもしっかりと
台本を読み込んでいるようで、
つっかえることなく
さらさらと読み上げ、動いていた。
家族のシーンでも、
ちくちくと小言をいう母との会話では
反抗心が僅かに見える態度を、
自分の理想を押し付ける父のと会話では
くりっとした目を伏せ気だるげに、と
父と母に対してそれぞれ
微々ながら異なる姿勢を見せている。
そして。
古夏が…純が静かに登場した。
まるで影なき妖怪のように
すっとその場につく。
純は完璧な人格をする。
だから、漆と席を変わる時も
にこやかに、弾むように
その肩を叩くかと思っていた。
けれど。
古夏「…。」
古夏は誰よりも
辛そうな顔をしていた。
それが何故なのか
理解するよりも前に、
ト書きにあるように舞波が飛び上がる。
古夏は舞波と目を合わせて、
目を閉じて、ゆっくり開いた。
そして夕食の置かれているであろう
テーブルに視線を注ぎ、
純らしく優美さをもって席に着く。
刹那。
ぱぁっ、と
花開くように目に光が灯る。
まるで花火を初めて見上げた
子供のような目だった。
杏「わぁー…切り替えすご。」
杏が声を漏らす。
微か、私の隣で小さく、小さく言っていた。
古夏は私に合わせるように
音を聞いているようだった。
セリフを口にした。
背後で漆の家族と純の会話を
見届けている舞波は
険しい顔をしていたけれど、
元の顔立ちもあるのだろう、
黙っていても華のある人間だった。
鳩羽と露草のシーンを終え、
鳩羽と漆のシーンに移る。
この場面もほぼ全て
セリフは変更されるだろうが、
舞波と対峙することが
どのような感覚かを
知っておくことには損はない。
彼女の漆は、自信が見えた。
場面的なこともあり、
漆ははっきりと自分の意見を言うようになる。
それに加えて舞波自身
実際場数を踏んでいることもあり
読み込み方や動きは上手なのだ。
私を見て、という言動を
無意識レベルでしているように思う。
一目を置く存在感があった。
蒼「『どこへいくんだ』」
舞波「『少しだけあたりを歩いてきます』」
蒼「『そんなの』」
舞波「『そんなの無駄ですよね。でも、宇宙って残念ながら無駄がないみたいなんです。これからそこにいくのなら、もうちょっとだけ無駄の味を知りたいです』」
先ほどの舞波の言動からは
考えられない言葉だな、と思いながら
捌ける舞波を追いかけた。
そして漆と純のシーン。
最後、宇宙へと、
現実へと戻っていく2人の対峙だ。
想像していたもののままと言えばいいか、
漆は葛藤を言葉に、
少しばかりの怒りを持って
純にぶつかっていた。
反して純は必死に、
けれど優等生の姿からか
人間味がないような気がした。
しかし、舞波は古夏を前に
僅かたじろいでいるようにも見え、
対して古夏は悟ったように目が据わっている。
私だけがそう感じているのだろうか、
古夏が、純が登場すると
周囲とは違った空気が舞い込んでくるようで、
心が落ち着かなかった。
蒼「『お父さんもお母さんも、あなたのことを思って言ってるんだよ。娘には不便なく暮らして欲しいって思ってるから』」
舞波「『わかってるよ。でも、そんなのただの押し付けだよ』」
漆はずっと戦っている印象だった。
迷子になって、探して、見つけて。
そしてどうしようもならないことを
目の前に諦めていく。
対して純は、淡々としているイメージがあった。
ただこなす。
ただ理想の姿となる。
だから自分がない。
純だけが私の中で
ぷかぷかと存在が浮かんでいる。
純が生まれたのは
一体何のためだったのか。
漆の代わりとなるため。
けれど、決して
乗っ取るためではない。
°°°°°
だから、漆と席を変わる時も
にこやかに、弾むように
その肩を叩くかと思っていた。
けれど。
古夏「…。」
古夏は誰よりも
辛そうな顔をしていた。
°°°°°
全ては漆を守るため。
鳩羽よりも誰よりも
漆を思い大切にしている存在。
古夏はそれを
誰よりも早く理解していたのかもしれない。
だんっ。
大きな音がした。
はっとして台本から顔を上げる。
古夏が足を踏み出した音だった。
眉間に皺を寄せ、
下唇を噛んでいた。
どうしてわかってくれないの。
そう聞こえてきそうだった。
肌がぴりぴりと痛むほどに
空気が張り詰めている。
皆も顔を上げて古夏を
見ているのがわかる。
一間遅れて、代わりにセリフを言う。
蒼「『違うわ。勉強のことを案じているのも、友達とのことを案じているのも全てあなたが心配だから』」
舞波「…。『それが迷惑だって…』」
怯んでいた。
恐怖を前に威勢を張るように
意図せず語気が強まっている。
1歩後ずさる彼女を見るのは初めてだった。
食われる。
袖にいる私ですらそうと思った。
そして。
舞波「…っ!?」
古夏「…。」
古夏は彼女がセリフを言い終わる前に
大股で舞波の元へと詰め寄った。
袖を掴むでも肩を掴むでも、
胸ぐらを掴むでもなく。
彼女は。
古夏「…。」
舞波の口を抑えるようにして
両手で頬を包んだ。
どれよりも優しい止め方だった。
舞波は目をまんまるにし、
浅い呼吸をひとつ、また数歩下がった。
けれど古夏は臆することなく、
その間を埋めるように
頬に手を添えたまま距離を詰める。
これは純と漆だからこそ、
自分自身だからこそのの距離の取り方だろう。
唇はわずかに震え、
未だ眉間に皺は寄っているけれど、
つい先ほどより幾分か
緩和している、しようとしている。
漆を安心させようとしている。
愛のある説教だ、と不意に思う。
ふわり舞い上がったスカートが
時間をおいて重力に倣った。
両親は漆の心を割った嫌な存在ではある。
けれど、嫌なだけの存在じゃないんだと
心の底から訴えていた。
嫌なことだけに目を向けて
言葉にし続けると、
嫌の沼に嵌って抜け出せなくなる。
だからそうなる前に
漆を引っ張り上げようとしているみたい。
全て好きにならなくていい。
嫌いなところと好きなところがあっていい。
だから悲しむことをやめないで。
どうしてこの単調で
一見味気のない純のセリフから
この動きができるのだろうか。
自然と台本を持つ手に力が入っていた。
目が離せなかった。
杏「蒼。」
蒼「…!」
すぐに台本に視線を戻す。
何故か声が震えた。
蒼「『そんなこと言わないで。お父さんとお母さんが悲しがってしまう』」
その後、漆と純の会話は進む。
これまでこの場の空気を
リードしていた舞波のペースが
目に見えて崩れているのがわかった。
そして、2人のシーンの最後。
蒼「『私たちが捨てられるの。晴れてスペースデブリの一部となるのよ』」
古夏は「いってらっしゃい」と
朝の光に照らされながら送る人のように
朗らかで清々しい笑顔を見せた。
自分が捨てられることは怖く恐ろしいはずだ。
けれど、純に至っては
…古夏の描く純は、漆を1番に考えている。
自分が消えようと漆が少しでも
心穏やかな時間が過ごせるなら。
そう思っているようだった。
このセリフは確実になくなるのだが、
惜しい気すらしてしまった。
舞台全体の最後、
純を除く人格たちが
漆に向かって「さようなら」と
別れの挨拶をする。
そして鳩羽だけが漆の名前を呼んだ。
漆は…舞波は、表情を曇らせたままだった。
ぱん。
桃が1度手を叩き、
皆の緊張が緩やかに解かれていく。
桃「お疲れ様でした。まあ、変更はあれどこれくらいが60分の」
舞波「ちょっと休憩してくる。」
水道を持って
たん、たんと上靴を鳴らし、
誰の話を聞くわけでもなく
稽古場を後にしてしまった。
背中が小さくなったように見えた。
稽古場では沈黙がその場を支配したが、
すぐに桃が碧里や京香に話しかけ、
その場の空気を軽くした。
部員の話し声が程よく耳に届く中、
杏が隣で台本を眺めていた。
蒼「連れ戻した方がいいかしら。」
杏「いいや、放っておいてあげてよ。」
蒼「効率を重視したのは彼女なのよ。」
杏「鬼だなぁ、情ってのがないの?」
杏はからかうように
少しだけ笑った。
それから妙に声を落として言ったのだ。
杏「蒼だって見たでしょ。あんな主役を食うような演技を正面からまともに受け取ったら、嫌でも自分と比べちゃうってもんなの。他者基準でついた自信持ちだったらなおさらね。」
古夏の方を見る。
舞波の出て行った扉の先を
静かに、ただ静かに見つめていた。
やけに視線が鋭い。
睨むまでは行かずとも、
いつも大きく見開かれた目とは
似ても似つかないほど冷めきっている。
純ともいつもの古夏とも違う。
直感的にそう感じたが、
うまく説明することもできなければ
そもそも何となくであって
はっきりとした理由がない。
蒼「古夏?」
古夏「…!」
ぱっとこちらへと振り返る。
いつもほど縮こまってはいないけれど、
少しだけ視線を泳がしているのを見て
彼女は役から戻ってきたのだとわかった。
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