投資
武功薄希
投資 その一
高層ビルの一室で、トレーダーの佐藤は大型ディスプレイを凝視していた。株価が乱高下する様子が、赤と緑の線で描かれている。その動きは、まるで世界の鼓動のようだった。
「……こんなことになるとは」
佐藤は呟いた。数日前、世界中の天文学者が緊急記者会見を開いた。地球に巨大隕石が接近しており、衝突は避けられないという。人類に残された時間はわずか72時間。その発表以来、世界は狂乱状態に陥っていた。
しかし、佐藤は動じなかった。彼は最後の瞬間まで、自分の仕事を全うしようと決意していた。それが、佐藤家に代々伝わる武士の精神だった。
佐藤の目は、机の引き出しに向けられた。そこには、父から受け継いだ短刀が収められている。成人式の日、父は厳かな表情でその短刀を佐藤に手渡した。
「これはな、お前のご先祖様が大切に守ってきた品だ。武士の魂がこもっている」
父の言葉を思い出し、佐藤は微かに微笑んだ。父は厳しくも慈愛に満ちた人だった。現代社会で「武士道」を貫くことの難しさを知りながらも、その精神を大切にする姿勢を佐藤に教え込んだ。
佐藤は名門大学を卒業後、大手証券会社に入社。その才覚を認められ、エリートトレーダーとして頭角を現していた。仕事に打ち込む姿勢は周囲から尊敬されていたが、同時に「古風すぎる」と揶揄されることもあった。
特に、佐藤が大切にしている「武士道精神」は、現代のビジネス社会では異質な存在だった。しかし佐藤は、父から受け継いだその精神を誇りに思っていた。
「まだチャンスはある」
佐藤は画面に映る数字を必死に追った。世界の終わりが近づくにつれ、市場は狂っていた。パニックに陥った投資家たちが次々と資産を売却する一方で、「最後だから」と無謀な買いに出る者もいた。その混沌の中に、佐藤は最後の仕事を見出そうとしていた。
部屋の窓からは、異様な光景が広がっていた。普段は秩序正しく行き交う人々が、今は我先にと逃げ惑っている。高級車も安物の自転車も、同じように道路に放置されていた。
佐藤はその光景から目を逸らした。彼の世界は、今この瞬間もディスプレイの中で生きていた。
「よし、これで最後だ」
佐藤は大きく息を吐き、マウスをクリックした。彼の全資産を賭けた取引が成立する。
その瞬間、激しい振動が佐藤を襲った。
「来たか」
佐藤は静かに目を閉じた。しかし、予想していた衝撃は来なかった。
目を開けると、ディスプレイには「システムエラー」の文字が点滅していた。
「まさか、こんな時に」
佐藤は焦りを感じた。彼の取引は完了したのか。それとも、エラーで無効になったのか。答えを知る術はなかった。
窓の外では、空が赤く染まり始めていた。街からは悲鳴と泣き声が聞こえてくる。
佐藤は椅子から立ち上がり、窓に近づいた。そこで彼は、自分の姿を薄っすらと映し出すガラスに気づいた。
スーツはしわくちゃで、ネクタイは歪んでいた。顔には疲労の色が濃く、目の下にはクマができている。これが、エリートトレーダーと呼ばれた男の最期の姿だった。
佐藤は静かに引き出しを開け、短刀を取り出した。刀身に映る自分の顔を見つめながら、彼は人生を振り返った。
幼い頃から、佐藤は父の背中を追いかけてきた。父の生き方、仕事への姿勢、そして何より、どんな状況でも武士道精神を貫く強さ。それらすべてが、佐藤にとっての理想だった。
大学卒業後、佐藤は金融の世界に飛び込んだ。そこで彼は、自分なりの「現代の武士道」を実践しようと決意した。不正を一切行わず、顧客の利益を第一に考え、そして何があっても逃げ出さない。その姿勢が評価され、佐藤はエリートの座を築き上げた。
しかし、成功に伴って失ったものも多かった。家族との時間、友人との絆、そして自分自身の心の平穏。それでも佐藤は、「これが武士の道」と自分に言い聞かせ続けた。
今、世界の終わりを前に、佐藤は自問自答していた。
「俺は本当に、親父のような武士になれたのだろうか」
窓の外では、隕石の接近を告げるサイレンが鳴り響いていた。佐藤は短刀を握りしめ、静かに床に正座した。
その時、ポケットの中で携帯電話が鳴った。佐藤は思わず電話を取り出した。
画面に表示された名前に、佐藤は息を呑んだ。
「親父......」
震える指で電話に出る。
「もしもし、智明か」
厳しくも温かい声が響いた。
「親父...俺は...」
佐藤の声が詰まる。
「智明、お前の声が聞けて安心した。最期にお前と話がしたかったんだ」
父の声は、不思議なほど落ち着いていた。
「親父、俺も......最後に話ができて良かった」
佐藤の頬を、熱いものが伝った。
「智明、お前は立派に生きた。武士の末裔として、誇りに思っている」
佐藤は、短刀を強く握りしめた。
「ありがとう、親父。俺も......最後まで、武士の末裔として」
「ああ、分かっている。お前なりの道を、最後まで貫くんだな」
「ああ」
空が、眩いほどの光に包まれ始めた。
「智明、実はな。俺もお前と同じことを考えていた」
佐藤は息を呑んだ。
「親父、まさか......」
「ああ、そうだ。俺たち親子、最後まで武士の道を貫こうじゃないか」
佐藤は、声を詰まらせながらも答えた。
「分かった。親父、一緒に......」
「ああ、行くぞ、智明」
父と子は、電話越しに互いの呼吸を感じ取った。
佐藤は短刀を腹部に構え、父も同じようにしているのを感じ取った。
「親父、今まで本当にありがとう」
「智明、お前を息子に持てて幸せだった」
光が部屋を満たし始める。
「行くぞ、親父」
「ああ、共に」
短刀が肉を裂く音が、かすかに電話越しに聞こえた。激痛が走る。しかし、佐藤の表情は毅然としていた。
最後の瞬間、佐藤の脳裏に、父との思い出が駆け巡った。
厳しい稽古。温かい励まし。誇らしげな笑顔。そして、仕事に打ち込む父の背中。
「これでよかったんだ」
佐藤は最後に最高の投資が出来たと思った。
佐藤は、薄れゆく意識の中、微かに微笑んだ。父も同じ表情をしているに違いない。
轟音ともに大地がひび割れ、また一層、空が暗く濁った。
この世の終わりに命を投資した親子が、いた。
投資 武功薄希 @machibura
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