第8話 自分のエッセイの構成について考えてみた
まずエッセイに興味を持つのはどんな内容なのか?
そこだと思う。
読んでいて、この人良いなと思われたら次のエッセイも読んでもらえる確率は上がると思う。
エッセイは確実に自分視点であり、個人の見解になる。自分の思想や体験を書くものなので当たり前。話題の中には他人が出てくるので、その人への配慮は必要だよね。そして読んでくれている人への配慮も大切。
とは言え、これって結構難しい。
(「とは言え……」これが反転、配慮)
だからこそ俺はタブーが多いのだと思う。
犯しているタブーは5種くらいあった気がするんだけれど、ちゃんと覚えているのは3つ。反転、例え、横道に逸れるだったかな?
俺はこれをめっちゃやる人w
でもあの検証を見て思ったの。
俺のエッセイがサクッと読めるのは横道に逸れても関連のものであり、反転は相手を尊重するために使っていることが多く、例は親しみやすいものに変換する為だから。
なんの余談もないと面白味がない。
ほら、学校の授業を思い出してみて。
中身が詰まった授業は確かに有意義だけれど、余談が多い面白い授業は頭に入ってきやすかったという経験はないですか?
(「ほら……から続く話」これが例え話)
ちなみに自分が反転で使う言葉はいろいろあって、何度も読みながら修正していることを知っている人は少ないと思う。
・とは言え
・だが、しかし、でも
・しかしながら
・そうは言っても など
(これが横道に逸れる、余談の話)
**
ここまでで一旦まとめるけれど、俺のエッセイっていうのはこんな風に構成されている。
読んでくれる人が全て俺と同じ考えとは限らないし、しているとも限らないし、やれるとも限らないでしょう? だから俺はその人たちのことも考えて「とは言え……」と反転させるんだよね。
それは「自分でも分かっているけれど、簡単じゃないよね」と。
そもそも自分は誰のことも否定したくないんだよ。それには何の意味もない。
否定したところで、友好関係は築けないし相手の気持ちは相手のものでしょ?
相手から受けた印象があって、それを仮に良くないと思ったとしても「人の行動は善意から始まること」が多いの。
ただ、その善意はあくまでも主観だから相手にとっても「有難いこと」に該当しない場合もある。だから世の中には「有難迷惑」というものが存在する。
自分は世話を焼きたくなってしまうタイプなので、人と接することを避ける傾向にある。迷惑になりたいわけじゃないから。人と仲良くなるって難しい。
そして「してあげたい、善意」は自分の自己満足でしかないのだから、そこから派生したものには責任を持つべきだと思っている。どんな言い訳も通用はしない。それが善意か悪意かなんて関係ない。
自分でしたことは全てが自己満足であり自己責任。
そういう考えの持ち主であり、これに関しては他人の覚悟のなさや責任逃れにげんなりする原因の一つである。
ネットだから、リアルだからなんて関係ないんだよ。
安易に他人ごとに関わってはいけない。何とかしてあげたい気持ちは分かるし、理解もする。でも俺のように、疲れ切って判断力が鈍っている時に行動すると大惨事にしかならないの。
どうか、俺のしたことを教訓にしてこれ以上余計なことをしないで欲しい。
お願いだから。
関わった責任は持たないといけないと思っている。
いろんなものを過信しすぎて目測を誤った結果、二か月も続いているんだよ。
別にやり込めたいわけでもなく、早期話し合いが行われるものだと思っていたのがいけない。あの手この手でいろいろしてきたけれど、そんなことくらいでは動く人ではなかった。
そして最大の過ちは相手を精神の強い人だと過信していたことにある。
俺に宣戦布告するくらい強いと思った。違ったよね。
あれを恨み言と捉えていたなら、もっと違ったかもしれないとも思うけれど……初めから間違った方向にいっているのが問題なのだから、そんなことを言っても仕方ない。
何の話か分からない人は、深く考えないで。
さて、今日もお互い一日熱中症に気を付けようね。
いつも来てくれる皆さまありがとう。大好きですよ。
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