第34話 “疑念”
──東さんが、左ポケットに手を突っ込む。右手はずっと彼女の首を締め付けている腕にあるが、左手はポケットの中にある何かを探っているようにも見えた。反撃をしようとしているはずだ。それに合わせるため、こちらも注意を引きつけてみるべく話す。
「さあ、チェックメイトだ。それでは君がどこの人間なのか話してもらおうかな? お嬢さん。」
「どこの人間、って……何を言い出すのよ、あなた? 何言ってるのか何もわからない!」
「わからないはずないだろう? 君が今日、わざわざ優羽さんを襲う理由は一つだ。この質問だって、もう確認のようなものなんだよ? この期に及んで見苦しいって、そういうのやめなよ。」
「わかんない、わかんない……っ!」
……人質を取っている人間の怯えた表情というのもまた珍しいものだ。しかし、これでおしまいだな。彼女はポケットの中身に手をかけ、しっかりと握りしめている。細長い……ナイフのような何かだな。先程までは憂いと恐怖を帯びた表情だったものの、少しだけ目を閉じた後にはそんな感情らしきものも消え去ってしまっていたらしい。
覚悟は決まったようだ。そうであれば僕もと思いつつ、一歩前に踏み出したところで──それが、姿を表した。
「……我らは、救われるべき者、我らは救われるべき羊、我らは救われるべき意思……」
それはポケットナイフでも、コンパスでもない。というか、そもそも鋭く尖った部分が存在していない。それは何かの、注射器のように見える。銀色で、橙の夕陽を反射するそれは、しかしその光でさえ吸い込んで消し去ってしまうほどの緑を充填していた。
「──我らが生は苦しみ、我らが生は憎しみ、我らが生は妬み……平地はなく、凪はなく、雲はすべてを覆い尽くすのみ……!」
何か、言葉が聞こえる。そして東さんの口元に、微かながら動きがあるのが見えた。辞世の句を詠むにしては、少々長いようにも思えるが……
「死こそ我らの望み、滅こそ我らの願い、無こそ我らの終着点……命は弱く、命は醜く、命は残虐……!」
これは何とも、ネガティブな思考というかなんというか……病んだのか? 日本の女子高生はこういう状態になりやすいとも言うし、この状況なら不思議ではないのだろうな。
ただ、あの注射器は気になるな。あの緑色のやつは毒か? というか、何故あの類の注射器を持っているんだ……?
「故に山もなく、谷もなく、波もなく……ただ死の安らぎに身を委ねよ、苦しみなき世界に身を委ねられよ……!」
「ねぇ、やるならさっさとやってくれないかな? お互いに。こっちもタイミングを測りかねてるんだ、中途半端は誰だって嫌だろう?」
別に助け出す必要があるわけでもない。故に東さんの抵抗をほのめかす事で揺さぶりをかけつつ、人質を取っている方の注意も分散させる。そしてその隙に、一歩また一歩と僕は近づいていった。
……そして、一度踏み込めば手が届いてしまうほどの距離に近づいた僕。しかし僕はそこで、ある単語を耳にして立ち止まったのだ。
「これが我らの蝶の国、命などなき平穏の未来……!」
──蝶の国。そのワードが、この耳に入ってきた瞬間。僕は足を止め、乾いた土で滑りかけながらも思い切り踏み込んで踵を返す。そして先程までと比べて数十倍はあるであろう異常な速度で元いた方へと飛び込むと、そこに設置してあった自分の鞄を急いで開く。
……そして。そこに入っていた、黒い塊を、取り出した。
「我ら導く主の御名よ、我らを生から救い賜え……!」
─ハンドガードを掴み、銃床を展開する。右手でボルトを後退させ、引っ掛けてから鞄の中にある弾倉を取ってから本体下側に空いた穴に弾の見える方を上にしてぶち込み、グリップを握り込みつつ左の拳でボルトを上から叩いて開放する。
ハンドガードを掴み直し、しっかりと肩付けをして彼女の方に銃口を向けつつ、鞄の中の弾倉を一本ずつズボンの前側に突っ込む。そして全て取り終わると、最後に鞄の中にあった一番大きな黒い塊を手に取った。
外から見れば、それはただのブリーフケースでしかないが……内部に手を突っ込んで紐を引っ張ると、高密度のケブラー繊維で作られたそれは縦長に広がって展開され、元々あった取っ手は盾のように内側に来た。だが、僕はそれを手に持つことはなく思い切り地面に突き刺し、その上に銃を乗せて精密射撃を行う準備を整えた。
「おい、それを離せ! その汚い指ごと撃たれたくなけりゃあ、さっさと離すんだ! こいつは本物だぞ!」
「へっ……な、何? 何なの、何なのあんた! どうなってるのよそれ、本物なの⁉ どこから手に入れたの、どこに入れて……」
「何いってんだ、テメェに言ってんじゃね……いや、やっぱお前も離せ! 別にお前の事なんざどうでもいいが、それはそれとして目の前で死なれる趣味はない! ホラー映画の悪役みたいな死に方したくなけりゃ、そのイカれ女さっさと離すんだ!」
……蝶の国。どこかで聞いた言葉じゃないか、クソったれ。それにさっきまでのスピリチュアルな詠唱、そして何より注射器……間違いなく、関係者だ。そうでなければ、色々と説明がつかないからな。更に、そう考えるとあの注射器は──ああ、想像したくもない。彼女のためにと言い出して僕の行動を妨害するであろう、護衛対象の姿など。
「捨てろ、捨てるんだ! 指ごとやるぞ、僕は!」
……今持っているのは、『MP5SD3』という
「ね、ねぇ⁉ 安全装置、安全装置! かかってるから!」
パニックを起こすと、人は脆いな。この状況で取るべき選択肢は、そんなものでは絶対にないだろうに。
──これは、かかっているのではない。かけていると言うのだ。
「ごめん……!」
と。未だに一歩たりとて動こうともしない彼女の方を見ていた隙に、東さんが左腕を持ち上げる。そして注射器を首筋に押し付けると、彼女は既にその銀色のトリガーに指をかけていた。こちらも急いで人差し指へと銃口を向け、安全装置を解除しながらも再度叫ぶ。
「おい、やめろ! 引くんじゃねえ……っ!」
目が、閉じられる。彼女の身体中の筋肉が硬直したのが、一目でも見て取れる。しかし、重苦しい低音がそれを掻き消した。
……指が宙を舞い、跳ねている赤い雫を受けながらもそれを注射器が隠す。弾着の衝撃によって手が弾かれ、彼女の左手と半身は少しばかり後方に。片方だけ挙げられた手の隙間からは、呆然といった様子の後ろの少女の顔がはっきりと確認できたのだ。
そして、流れるように手の平・二の腕・肘・肩へ一発ずつ銃撃。数々の特殊部隊に愛され、数々の事件で人々に流れ弾を出すことなく敵を制圧したこの銃の精密射撃性能は本物だ。骨をえぐり取るように、一射ずつ確実に致命的な部位に直撃を叩き込んで手段を奪って無力化した……と、思いたい。
「おい、ちょっとぐらい痛がってみろよ。“指ごとやる”って言ったぜ? 僕は。
……もうこれで状況は分かったろ! さっさとその女を離して、建物の影に隠れているんだ。こちらとて別にお前を撃ち殺す気も、盾にする気もないんだからな!」
「ぁ、あ……は、はいぃっ!」
銃口をくいくいと動かして隠れる場所を指してやると、彼女も流石に逃げてくれた。あの様子だと、今すぐ110をかけるような判断力もないだろう。
……やはり、問題はこいつだ。数発の弾丸をその身に受けておいて、痛がる様子も見せずにただ傷を見つめている。
──いや、違う?
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