5話

 それを天使の翼と言い表す以外に何かあっただろうか。この世のものとは思えない程に真っ白で美しい翼だった。宙を舞う純白の羽根が、瞬く間に私の視界を覆った。


 彼女は宙に浮いていた。青空の下で仰向けに寝転んで、とても嬉しそうに私を見つめていた。


「来てよ。」

「へっ……」


 突然、私の身体が勝手に動き出した。登りかけだったフェンスを超えて、私の身体は命綱の無いスカイダイビングに挑んだ。


 後ろから耳をつんざくような悲鳴が上がる。けれど、私は不思議にも落ち着いていた。


 ふわっと白い翼に包まれた。いつの間にか私は梢に受け止められていて、彼女は私を抱えたままゆっくり屋上に戻った。


「逃げちゃったね、あいつら。きっと大きな騒ぎになるよ。」


 コンクリートの地面に降ろされると、私はへなっと座り込んだ。理解が追いつけなくて頭がくらくらする。


「私、恵子ちゃん以外はみーんな嫌い。醜くて、汚くて、悪魔みたいだもん。」


 意識がぼやけたまま、梢の声が聞こえた。


「だからさ。全部消しちゃっていいよね?」


 梢はスマホの画面を見せてきた。


 そこには、天使のあの画面があった。何やら人を殺すことができるらしい、とんでもない画面。名前を打つ場所に書いてあったのは、『allオール』という文字だった。


 英語でもいけるんだ、なんて思っていると、決定ボタンがポチッと押された。それはもう簡単に。梢の白い指先が画面に触れた瞬間、私の目の前が真っ暗になった。





 (あれ……?)


 気が付くと、私は硬めのソファーの上に寝転んでいた。ゆっくり起き上がると、そこはあの世と呼ぶには見覚えのありすぎる場所だった。すなわち近所のカラオケ、KYOKYOだった。


 ほっぺたをつねってみた。痛くなかったので、きっとこれは夢だった。


「恵子ちゃんは大丈夫。対象から除外しておいたからね。」


 真向かいに座っていた梢がそう言った。私がぼうっと梢を見つめていると、彼女は何かを語り出そうとしていた。


「去年かな」


 彼女は呟いた。


「私のスマホに天使が舞い降りてさ。勝手に私のことを不幸だって決めつけて、何でもできるようになる力をくれた。」


 梢はくせっ毛に触れながら微笑んだ。


「でもね、世界が広くなった途端に、私はこんなに空っぽなんだって気付いた。学校は今まで不登校だったし、みんなが話してることは分からない。普通じゃなかったの。」

「………」

「私、普通の女子高生になりたかった。」


 囁くように梢は言った。


「両親は死んじゃったし、女の子なのに女の子が好き。気持ち悪いよね。けれどね、しょうがないことかも知れないけれど、いじめられるのはすごく辛かった。」


 俯きがちに彼女は言う。しかしすぐに顔を上げて、私に笑顔を向けた。


「恵子ちゃんがまた話しかけてくれて、決めたよ。私と恵子ちゃんしかいない世界を作ろうって。」


 その時、私は多分変な顔をしてしまった。何を馬鹿げたことを、といった感じの表情だと思う。


 私と梢しかいない世界。きっと彼女にとっては天国に等しい場所なのだろう。しがらみも何も無いし、それなりに話せる友達はいるし、何よりもいじめっ子たちがいない。


 私にとっては、どうだろう。考えてみようとしたら、梢が悲しそうな顔をしていたので思考をやめてしまった。


「……分かってはいるんだけどさ。恵子ちゃんは私のことを好きじゃないし、私と2人きりだなんてごめんだよね。」


 彼女の言葉に、私は返事ができなかった。本当も嘘も、琴乃梢には相応しく無いと思った。


 彼女は意を決したように言った。


「だから、選んでほしいの。私は何でも恵子ちゃんにしてあげられる。美味しい料理を出すことも、好きな景色を見せることも、ぐっすり眠らせることも、自由にできる。」


 最後に彼女はこう言ったきり、黙ってしまった。


「恵子ちゃん。私しかいない世界と、私だけいない世界、どっちが良い?」


 私はしばらく沈黙していたが、やがて立ち上がった。


 外に出ると、ここはよく音漏れが酷いことで有名なのだが、店中がしんと静かだった。私はすたすたと2つのコップを持ちながらドリンクバーまで歩き、オレンジジュースとホワイトウォーターを注いだ。混ぜたのではなく、ちゃんと分けた。


 烏龍茶は、喉を乾燥させるらしいから飲まない。炭酸は好みだけれど、私は苦手なので飲まない。喉に気を遣って常温の水を飲むよりかは、私は楽しむことを選ぶ。


 コップを1つ脇に挟んでドアを開けると、きょとんとした顔の梢がきょとんと座っていた。私はドリンクを、中ぐらいの音を出させながら置き、彼女の瞳を見ながら言った。


「考えさせて。」

「え?」


 私はマイクを持ちながら、小型の機械に文字を打ち込んだ。


「考えたいから。とりあえず歌おうよ。」


 だって、せっかくカラオケに来ているのだから。私が選曲したのは、『小さな恋のうた』だった。


 2001年にリリースされたという、超有名で超人気の曲。これを選んだ理由は1つ、ただ私が好きだからだ。下手っぴながらも歌い始めると、梢はぽかんとしていた。


 1番目のサビが終わると、私はマイクを使って大声で梢に話しかけた。


「ほらっ!梢も歌ってよ!」

「……えっ。でも、私サビしか知らなくて。」

「ならサビだけ歌って!マイク持って!」


 無理矢理梢にマイクを持たせた後、2番のサビ前を私は熱唱した。ここは1番と異なって、少しだけ曲調が変わる。言葉をただ繰り返すことが、たまらなくいい。


「行くよ!」


 すっかりテンションが上がった私は、立ち上がった梢に声をかけた。彼女はおずおずとサビを歌い出す。


 私も合わせて思いっきり歌って、二つの声が重なった。


 (……梢の歌、綺麗じゃん。)


 歌いながら私は思っていた。彼女とはカラオケに行ったことが無かった。前々から聞いてみたかった彼女の歌声は、とても透き通っていた。


 ひたすらに歌う。サビが終わると梢は、酸欠になったみたいに強く呼吸していた。構わずに私は歌い続ける。その先に、彼女がまた合わせてくれることを確信しながら。


 再び歌声が重なった。


 恋の歌が部屋中に響いた。


 最後の歌詞まで歌い切ると、私はマイクをソファーに置き、パチパチと大きな拍手をした。


 梢は後ろを向きながら、はぁはぁと浅い呼吸を繰り返していた。私が心配になって話しかけようとした、その時だった。


「ありがとう。」


 彼女はそう言った。声は震えていて、まるで泣いているみたいだった。


「私、頑張るから。辛くても、恵子ちゃんのこと思い出して、頑張るから。」


 私は、今度はすぐに返事をした。


「うん。」


 何だか私も泣きそうになって、取り繕いながら言った。


「負けないで。」


 すると、世界はまた暗転してしまった。まだドリンクに口をつけていないのに。私は暗闇に包まれながら、ゆっくりと目を瞑った。

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