4話
翌朝、天使のアプリは勝手にアンインストールされてしまっていた。役目を終えたということだろうか。消えてくれて良かったというのが本音だった。
学校に着いて、私は私の下駄箱を開けた。繰り返すが、私は私の下駄箱を開けたのだ。すると奇妙な物が入っていた。
それは見間違いでなければラブレターというものだった。真っ赤なハートのシールで封をされているのだから、ラブレターに決まっている。奇妙に思いながら私は封を開けた。シールは一度剥がされたみたいに粘着力が緩かったが、気にしない。
そして絶句した。
『昼休みの集まり、校門じゃなくて屋上にしよう?Kより。』
入っていたのは、琴乃梢からの返事だった。
休み時間に何度もメールを送ったけれど、梢は既読のマークさえ付けなかった。梢の教室に行って彼女を探したけれど、何故か毎回いなかった。
昼休みが始まるとすぐ、脇目もふらずに私は教室を出た。廊下を全力で走っていると、どこかの教室からドタバタ走るなと怒鳴り声が上がった。人が死ぬところなんだよ、と心の中で反論する。私はトイレを過ぎて、階段を二段飛ばしで駆け上った。
(バカバカバカ!ふざけんなバカ!)
歯を食いしばりながら次々と階段を上った。ぐるぐると動かす両足に熱が集まり、猛烈な疲労感に襲われた。
(あんた死ぬ気満々じゃん!)
涙が出そうになるのを必死に堪えた。自分がとんでもない失敗をしたと思った時、私はいつも泣きそうになった。メールを送らない、話しかけもしない、いじめっ子に立ち向かわない。こんなに中途半端なやり方が梢を殺すのだと考えると、悔やまずにはいられなかった。
走り続けて、私は屋上に辿り着いた。ドアノブに手をかけると、同時にどっと疲れが出て、数秒間激しく呼吸をした。数秒経ったなら顔を上げて、指に力を入れる。
(梢──!)
私はドアノブを回した。冷たい金属の取っ手を強く押し込むと、太陽の光が私の目に突き刺さった。あまりに眩しすぎて、少しの間動けずにいた。
片手で光を遮ると、眩しさに邪魔をされていたものがやっと見えるようになった。
フェンスの外側に、彼女はいた。
「恵子ちゃん。」
何日ぶりの琴乃梢の声が、光よりも速く耳の中に伝わってきた。まず、分からなかった。私は誰よりも早く屋上に辿り着いたものと思っていたのに。梢はどうやら昼休みが始まる前から私を待ち構えていたようだ。
梢は穏やかに言った。
「今日はね、ずっとひなたぼっこしてたんだ。もう授業とか意味無いもんね。」
その言葉が、私に数滴の汗を流させた。じりじりと焼くように差す日光が鬱陶しい。一歩一歩、私は綱渡りをするみたいに、慎重に梢へと近付いた。
踏み外せば死ぬ。琴乃梢が。
2ヶ月前と変わらない、セミの鳴き声が遠くから聞こえた。セミの寿命は1週間と聞いた。実際にはもっと長いらしいが、ぽとりぽとりと落ちている彼らは、近付くと最後の力を振り絞って叫び出す。
私はまるで、その時みたいだった。恐る恐る足を進める。天使が囁いた時から、寿命が4日しかなかった琴乃梢にゆっくり近付く。彼女が最後の力を振り絞って、体重を後ろに預けないことを祈りながら。
汗が滝のように、流れ出す。
その時だった。横から強い風が吹くみたいに、後ろからぶっきらぼうに押されたみたいに、ぞろぞろと背後からやってきた人たちがいた。
「おじゃましまーーーーす!!」
「いぇーい!」
「ほらやっぱりいた!アイツだよ!あん時こずと話してた奴!」
「こずーー?」
呆気なく私の歩みは止まってしまった。
咄嗟に振り向くと、そこには4人の女子高生がいた。その中のうちの1人は、見覚えがあった。佐藤瞳。この間話しかけてきた、茶髪のいじめっ子。だから彼女たちはきっと、天使が言っていた、琴乃梢を苦しめる悪魔たちだった。
見られたんだ。私は思った。彼女たちは梢が下駄箱に手紙を入れたのを見て、悪辣にもそれを覗き見したのだ。そして愛の告白をするとでも勘違いしたのか、のこのこと屋上にやってきた。
「やっぱ同性愛者じゃん。」
「きっしょ!」
「あっ!この前の違いますけどって、まだ彼女じゃないってコト!?」
「伏線回収じゃん笑笑」
口々に発言する彼女たちに私は戦慄した。あんたたちのせいで、梢が死のうとしてるってのに。
「え、こずフェンス越えてるじゃん。」
4人のうちの1人が、異常に気付いた。
騒がしい人たちにでもしばらく黙ることはできるようで、辺りはしんと静かになった。セミの鳴き声だけがみんみんと騒がしい。セミは生きることに精一杯だった。梢はどうなのだろう。
「マジ?」
誰かの声が小さく聞こえた後、梢はくすっと笑った。
「梢……」
走り寄った私は、喉がからからに乾いていた。息を吐いたり吸ったりしながら、何とか絞り出した声で話しかけた。
「駄目。死なないで。」
我ながら、か細い声だった。フェンス越しに届いているか分からない程に。
琴乃梢は少しだけ微笑んで言った。
「決めたんだ。やっぱり、消えた方がマシだと思う。」
彼女は両手を離した。
落ちた訳じゃない。梢は両手をぶらぶらと下ろしただけ。まだ落ちた訳じゃない。
「こずえっ!」
私はフェンスに片足をかけて、不慣れながらも登り始めた。小さな輪っかに指を差し込み、必死に鉄網の壁をよじ登った。
「あんたが落ちたら私も落ちるから!!」
私は叫びながら、やっとフェンスの頂上に手をかけた。そして、汗を一生分かきながら、琴乃梢を見下ろした。
その瞬間、彼女は後ろに倒れた。
にこりと笑った梢の全身が、私の両目にはっきりと映った。
彼女の両目にも、さぞ滑稽に私が映ったのだろう。
きっと死にかけみたいな顔をして、真夏の日照りをこれでもかと吸い込んだみたいに真っ赤だった。
そして私は、彼女の名前を叫んだ。
「──消えた方がいいよ。恵子ちゃん以外。」
彼女の背中から、天使の翼が生えた。
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