chapter1-令嬢の日常

 目を覚まして見た天井は、全く見知らぬものだった。

 いや、そもそも天井らしきものが見えない。暗くて良く見えないし、ジメジメしていて不快だし、今横になっているベッドさえも硬いようだ。

 現状を把握しようと起き上がると、足元で『ジャラッ』と音がして、重さを感じた。目を凝らしてよく見ると、右足首が鎖で繋がれている。


「な、何よ、コレ」

「あら、目を覚ましたのね」

「っ!」


 聞き覚えの無い声に、ビクッと身体が震える。そのままカタカタと痙攣のように小刻みに震えるのが止まらず、呼吸が上手く出来なくなった。

“記憶”が言っている。今小さな灯りを持って入って来た女は、実の母だと。そして、“身体”が言っている。彼女に逆らってはいけないと。

 そして今からを、この身体は知っている。


「嫁入り前に自殺未遂だなんて、お相手のフィッツジェラルド小公爵が知ったら何て言うか」

「お、かぁ……さま……」

「あら、公的な場以外でそう呼んではいけないと、何度言えば分かるのかしら。重ねてお仕置が必要ね」


 声が震える。知らない声だ。少なくとも自分のそれではない。だけどこの声は、自分の口から出た。

 どういうことだ。分からない、何も。

 母の影に居たらしい、身体付きのしっかりした男が前に出る。

 分からない、知らない。だけど“記憶”が言っている。「この男は危険」だと──!


「明日は公爵家と顔合わせなの。ドレスで隠れる場所にしなさいよ」

「了解です」

「ひっ」


 そのまま振り向かずに去って行く母の背を隠すように歩み寄って来る男を見て、喉の奥で、引きった声が漏れる。

 嫌だ──




 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ




「いやあああああああああああ!!!!!」






 *-*-*




 翌朝。使用人と思われる女性達に着せられる美しいドレスも、鬱屈とした気分を助長させるものに過ぎなかった。

 そもそも着せ方が雑だ。腕や足は乱暴にグイグイと引っ張られるし、コルセットを着けるのさえ、元々骨と皮だけのような身体を更に思い切り締め付ける。傷んでボロボロの髪も乱暴に梳かされ、何十本か抜けたようにも思う。

 この屋敷の中での立場がよく分かった。

 昨夜、「お仕置」が終わった後、重い身体を引きずってまた硬いベッドに戻りながら状況を整理してみた。

 確か、仕事を終えた後に車で自宅へ帰る途中、大型トラックが正面から突っ込んで来たんだ。そこで一度記憶が途絶えているのは、死んだということだろうか。そしてこの身体に入った。

 少しの間に、の記憶を見ることが出来た。名前はルーリエ・アステラス。彼女が三歳の時に聖女としての力が発現し、それに際して平民だったアステラス家は一足飛びに伯爵という爵位をたまわった。

 それからルーリエの生活は一転、裕福で幸せになるかと思いきや、全く逆だった。新しく建てられた伯爵邸の離れの屋根裏に軟禁され、母や母の腹心からの暴力に耐える日々。外では何が起こっているか分かりもしないのに、いつの間にか『天性の悪女』だの『神殺しの聖女』なんて民や貴族間で噂されているらしい。

 そんな中、何故か国内屈指と言われるフィッツジェラルド公爵家との縁談が持ち上がった。明らかな政略結婚、いや、実質ルーリエの監視目的だろう。相手もこの縁談に相当なストレスを感じているに違いない。

 それでも見目だけは派手に美しく着飾られた彼女──ルーリエは、憂鬱な気分のまま顔合わせの場へと向かった。執事が扉を開けるのを横目に、漫画やアニメで見たようにドレスの端を摘んで深々と頭を下げる。

 勿論こんなことを誰が教えてくれる筈もない。屋根裏部屋へ閉じ込められていただけのルーリエには、家庭教師さえ付けられなかったのだから。

 だからだろうか、ほぼ完璧とも言えるようなカーテシーを見せたルーリエの姿に、母は当然のこと、公爵家の面々と思われる人達までが驚いたように息を呑んだ。

「お待たせしてしまい申し訳ございません、フィッツジェラルド公爵様、並びに公爵夫人様、ルシアス様。ルーリエ・アステラスでございます」

 顔を上げずに挨拶を終わらせる。確か、相手の許可があるまで勝手に顔を上げるのも席に着くのも失礼に値する筈だ。

「は……はは、これは驚いた。ルーリエ嬢は単なるワガママで家庭教師を拒んだと聞いていたが、成程、必要が無かったというわけか」

 公爵と思われる声。これが嫌味だと分からない程、転生前に遊んでいたわけではない。そもそもまだ顔を上げることすら許さない辺り、ルーリエが自ら失敗するのを待っているというところか。

 だが失敗したのは、ルーリエでなく母の方だった。

 どうやら公爵の言葉をそのまま受け取ったらしく気を良くした様子の母が、「過ぎたお言葉ですわ」と甲高い声を上げる。

「甘やかし過ぎたようで、癇癪かんしゃくを起こして家庭教師を追い払ったものですから、その後わたくしがこの子を教育しましたの。さ、ルーリエ、いつまでもそんな所に居ないで、こちらに座りなさい」

「! ……いいえ、お母様。まだ公爵様からのお許しが出ておりません」

 娘の教育どころか、自分自身の礼儀も覚えなかったのだろうか。ピリッ、と空気が変わったのにすら気付いているのかいないのか。

 これは公爵に怒られる。ルーリエだけでもその怒りから逃れられるよう、フォローは出来ただろうか。

 だが少しの間の後、公爵の吐息のような笑い声が聴こえた。

「フッ……試されたのは私の方だったというわけか。ルーリエ嬢、顔を上げて、席に着きなさい」

「失礼いたします」

 何とか怒りは鎮められたようだ。これでようやく顔合わせが始められる。

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