見えていなかったもの
第46話 猫娘、小さき隣人と語らう
薄暗い室内で冽花は目を覚ました。膝を抱えて、牀(ベッド)に座りこんでいる。
窓の外からは雨音が聞こえる。しばらくぼうっとしてから。
「今……」
几点(なんじ)だっけ、とぽつりと呟く。そうして見回す。――見回せばすぐに見つかるはずの、椅子に腰をおろして休む姿がいない。探路の姿もない。
「ここ……」
どこだっけ、と呟いたところで、ふいと傍らに薄紅色の光が弾けた。
冽花の目の前に妹妹が現われる。眉尻をさげて優しく微笑みかけると、牀に手をつき、冽花を覗いた。
『ここは
「……そうだっけ?」
『ええ。女将さんが部屋を用意してくれたのよ。いまはゆっくり休むように、って』
「そっ、か……」
かくりと項垂れ、冽花は膝に顎をのせた。なんだか、体に力が入らなかった。
分厚い膜ごしに世界を見ているかのごとく、すべてが遠いのである。
そんな冽花に、辛抱強く妹妹は言葉を続けた。
『探路も
「……そっ……か」
今度は少しだけ答えるのに間があいた。内容を咀嚼(そしゃく)するのに時間を要したからだ。
頭が動かない。
『冽花』
妹妹は牀によじ登る。冽花の隣に膝をついて、小さく丸まった身を、小さい体でそっと抱きしめた。触れられぬ手で背を撫でる。
『あなたは頑張ったわ』
ぴくりと、その言葉を聞くと冽花は睫毛を揺らした。奥歯をぎゅっと噛み締めるのだ。
そうして、絞りだすように呟く。
「がん……ばって、なんかねえ」
『頑張ったわ』
「ちがう。あたしはだめだった。しっぱいした」
「ダメじゃないし、失敗なんてしてないわ」
「っ……だったらなんで……ッ」
冽花は顔を上げた。優しく健気な隣人を睨みつけてしまう。新たにこみ上げてきた涙で視界が歪んだ。叩きつけるように吼えていた。
「なんで賤竜はここにいないんだよ!?」
だが。言ってしまってから気付いた。その言葉がどれだけ――目の前の少女を悲しませるのかを。
かすかに細められた妹妹の瞳が揺れる。耳が後ろにひかれて伏せられてしまう。ハッとし冽花は項垂れた。
「っ……
「いいのよ。たしかに……哥哥(あにさま)は、遠くに行かれてしまったわ」
妹妹の言葉は柔らかくも声は沈んでいる。
それも道理であると、冽花は歯噛みした。
三百年もの間、賤竜との再会を待ち望んでいたのだ。
再びの離別に、胸は張り裂けんばかりの悲しみに襲われているはずだ。
彼女にそうと言わせてしまった罪深さに、背を丸めて、より一層、膝小僧に顔を埋めた。そうして、やはり自嘲気味につむぐ。
「……ほら。やっぱり失敗してる。駄目なヤツなんだよ、あたしは。いつも……いっつも考えなしで、勢いのまま突っこんでくからさ。首飾りも取られたし。賤竜も……」
鼻をすする。あふれた涙が頬を伝い落ちていく。ぎゅうっと膝を握りしめた。
妹妹は何も言わない。黙って冽花の背を撫で続ける。
ほどなく、冽花はその沈黙を気まずく思う。何か言わねばと思い、だが結局泣き言しか思いつかずに、そんな自分に嫌気がさしつつ口を開いた。
「こんな契約者で、賤竜も困ってるはずだよ」
『そうかしら?』
妹妹はとぼけた口ぶりで問い返す。冽花は少しだけ反感を覚える。
今の精神状態では、「そうに決まってる!」と、子どものように反論したくなるのだった。
あれからどれぐらい経ったか知らぬものの――未だに覚えているのだから、鮮明に。
『冽……花……ッ!』
そう、懸命に呼んで。縄打たれて動けなくなり、陰気を吸われて苦しい思いをしつつ。それでも冽花のもとへと来ようとしてくれた姿が。
自分がヘマをしなければ、あんな酷い目に遭わせずに済んだのである。
自然と――自虐的な物言いになった。俯いて頷き返す。
「そうさ。こんな契約者の面倒みなきゃいけないなんて……賤竜が可哀想だ」
『そうかしら』
「そうだよ。だって――」
そうして、なおも後悔という心地よい
『でも、哥哥は楽しそうだったわ』
「……え?」
楽しそう? 賤竜が?
冽花は瞬いた。おもわずと穴が開くほどに妹妹を見てしまうのだが、彼女は笑って頷き返した。ゆっくりと冽花の背を撫でさすりながら。
『ええ。哥哥は楽しそうだったわ。例えば……ふふっ、覚えているでしょう? 哥哥たちの素晴らしい演武。仰っていたじゃない、『“思いっきりやっちまえ”と命じられて、“思いっきりやっちまった”』って。初めてよ? あんな仰り方したの』
妹妹はころころと笑い声を漏らす。
『あとにも先にもあの時だけ。哥哥が風水僵尸になられて以降は』
「嘘」
『嘘じゃないわ。それからもっとある。
「…………」
覚えている。
賤竜は目を瞬かせてから細めて、静かに『是』と呟いたのであった。
あの微かながらも柔らかく『人間らしい』表情を覚えている。
妹妹はなおも告げた。歌うように告げていくのである。
『それ以外にもあるわ。たくさんたくさん、ある。冽花は頑張っていたわ。哥哥のことを知れるように、哥哥が三百年後の世界でも不自由しないように。たくさん、心を砕いていたわ。哥哥はご覧になってたのよ』
「そんな……でも……」
『誰にでもできることじゃあないわ。少なくとも、玉環(ユーホン)だったら。ここまで哥哥はお心を開かれなかったでしょうね』
玉環。もう一つの前世を引き合いに出され、冽花は瞬きを落とした。
「玉環でも?」
『ええ。彼女も、彼女なりに懸命だったけれど。哥哥を対等には見なかった。見られなかった、というのが正しいのだけれど。……でも。哥哥にだって心はあるわ。あまりに見えない、見えづらい。お見せしようと、なさらないだけで』
少しだけ妹妹は寂しげに笑った。けれど、次の瞬間には穏やかで、晴れやかな笑みに変わるのである。
体を離すと、まっすぐに冽花を見つめた。優しく甘い蜂蜜色の眼差しで。
真っ直ぐに心を込めて告げるのであった。
ずっとずうっと二人の旅路を見てきた者として。
『冽花だから。冽花だからこそ、哥哥は動かれたのよ。助けようとした。冽花が“そうとしたい”と思うことを叶えるために。――まずもって冽花。どうして、あの首飾りをそんなに取り戻したいと思ったの?』
「そりゃあ……」
あの首飾りは賤竜が勧めてくれたものだから。
無鉄砲で、事件に巻き込まれてしまいがちな自分を心配して。
「……あ」
冽花は思い出した。
賤竜は――見ていたのであった。何にも言わなかったけれど、傍らで見ていた。ずっと。
自分の勧めた首飾りを奪われ、懊悩する冽花の姿を。
『あたしにとっては……大事なものだった』。そう、迷わずに言い切る姿を。
賤竜にだって心はあるのだ。
「……ああ……」
冽花は息を漏らした。狭まっていた視界が、少しずつ開けていくような思いがした。
どうじに新たな涙が込み上げるのを感じた。それまでと異なり、温かな涙であった。
「賤竜」
彼に会いたい。そう、心から願った。
話したいことがたくさんある。
見えてなかったこと、見ていてくれたことへの感謝。たくさん、たくさん。
拓かれた冽花の目。磨かれたかのように澄んだ瞳を見て、妹妹は満足そうに頷いた。そうして一度だけ、冽花の頭を撫ぜては消えていく。
冽花はくすぐったくて首を縮めたものの。すぐに涙を拭いて、真っ直ぐな目をして立ち上がったのだった。
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