第45話 取り戻したもの、失くしたもの
――あっ。……ああ。
足元は水場だ。水すなわち、抱水の支配下にある。
目の前で翡翠色の水面が渦を巻いた。そして鎌首もたげる水蛇が生じる。顎をひらき、ひと飲みに冽花を飲みほさんと殺到してきた。
『冽花!』
賤竜が駆けつける足音がするも間に合わない。
冽花は水蛇に飲みこまれ、その四肢を水蛇の体内に湧きおこる水流によって拘束された。水を飲んで咳き込む顔を露わにされて、喘ぎあえぎ顔を上げると――信じられない光景が目に飛び込んできた。
『兵士たちよ! 今が好機だ!』
今や扇をひらいて立ち上がり、片手をあげて叫ぶ抱水の姿があり、園路を殺到してくる武装した兵士たちの姿があったのである。
狙いは明白だ。契約者と離れてしまった――賤竜。
慌てて冽花は口を開く。
「じぇ……んろんっ! っき、基本武装の、解禁を許、可――ふブっ……!」
『
冽花は再び水蛇の身に沈められて、口元が水流によって遮られてしまう。鼻に水が入り、ガボッと泡をはき咳き込んで、目に涙をうかべた。
苦しいのもそうだが――このままでは賤竜に指示を出せない。
――どうしよう、賤竜が――!
懊悩する冽花をよそに戦況は動いていく。
賤竜は兵士らと抱水を見比べ、兵士の相手をすることにしたようだ。
だが、黙って見ている抱水ではない。白炎まといし扇を振るい、大人の頭ほどの水球を作りだすと、圧縮し、賤竜の背めがけて打ちだしていった。
幾つかは背中に目があるように
亭の――軒下から押し出されてしまう。
その瞬間、ジュッと音をたて、賤竜の体から黒き炎が立ち昇った。
肉の焦げる嫌なにおいがその場に生じる。
賤竜がかすかに身を強ばらせるのが見える。が、彼は兵士を捌(さば)くのに集中する。
冽花にはどうすることもできない。
――賤竜が。太陽の下に出されちまった……!
武装解禁のおりに傘も投げ捨ててしまっている。第一、彼は戦いを――ひいては冽花の救出を優先するに違いない。手に取るように分かってしまう。
なんとか一進一退を繰り返しながら、戦いを進行せんとするものの、抱水が途中途中で水球を飛ばし、時には無数の水蛇による圧縮された水流によって足元を狙う。
足並み崩され、日の下で戦うしかない賤竜は、体から黒炎を噴きあげ続ける。
そうして、頃合いと見たのだろう。抱水は再び腕を挙げて、声高に呼ばわる。
『三番隊、四番隊、前へ! 一番隊、二番隊は水中へ!』
その言葉を合図に――なんという忠義だろう! 先行の兵士たちは戦いをやめて、次々と左右の水中へと身を躍らせていく。否、抱水が体を浮かせて保護している。
水の風水僵尸ならではの戦い方だろう。そうして、空いた余剰をあらたな兵士が攻め入ってきた。
次々とその手にした
賤竜の四肢に、体に棍に、と縄が打たれていく。だが賤竜もさるものであり、僵尸としての膂力で引きちぎり、勢い棍を振り回し、寄せつけまいとした。
だが。それは伏線に過ぎない。
彼らの虎の子は、次なる四番隊が携えてきたのである。
『三番隊、しゃがめ!! 四番隊、構え! ――夕陽を照らすことを忘れるな!』
夕陽を、照らす?
冽花はもはや、真っ白くなってしまった思考のなかで、かろうじて瞳をむけた。そして、悲鳴をあげたくなった。
四番隊が手にしていたものは。
『っ、ぐぅ……あ……ッ!』
暮れゆく陽光を反射し、賤竜の体へとじかに向けられる凶器であったのだ。
ついに賤竜は呻きをあげ、のけ反る。その身から噴きだされる黒炎――陰気が、無数に構えられた鏡へと吸い込まれだす。
まさしく、賤竜――風水僵尸への天敵に違いない道具であった。
体から強制的に力を抜き取られる苦しさは知っている。
冽花の目から、涙があふれだした。
――賤竜……賤竜……っ
声を出すのも儘ならぬまま、あふれる涙を抱水の水流に溶かしていく。
抱水がふと目を細めたのだが――そのことには気づかなかった。
扇を振るって、抱水は高らかに声を張り、兵たちを鼓舞した。
『
地をどよもす高揚がそれに応じる。
一方的な捕り物であった。
だが、ここで賤竜は肩ごしに振り向いた。縄を軋ませて渾身の力を使い、振り返ろうとする。そうして。
『冽……花……ッ』
苦しい息遣いのなか、冽花を呼んだ。彼は、まだ諦めていぬのである。
冽花を救わんとしているのだった。
そんな賤竜へと、しゃくりあげて、冽花は涙をながし続ける。
前が滲んで見えやしない。駄目だ。泣いている暇なんかないのに!
瞬きで涙を潰して散らし、見つめ返す。だが、とめどなくあふれて止まらない。
賤竜もそんな冽花を見て、どんなに縄でひかれても、水球や水蛇をぶつけられようとも、屈しはしない。
兵士たちにどよめきがあがる。
『冽……花……ッ!』
――賤竜……!
ずぶ濡れになり、体中から黒炎を噴き上げ、吸いだされていても、賤竜は前へと進もうとした。実際、一歩だけ進むことができた。
そうして、彼は最後の力を振り絞った。
『う、ぉぉおおお!』
振り返るために撓らせていた身。一歩だけ進めた足を軸に、数多の縄を引きちぎっての――棍を
そうして、叫んだ。
『
「っとに…………人使いが荒ぇ奴らだぜ!」
園路の彼方から、遠く応じる怒声があった。
金茶色の風が真っ直ぐに園路を進んでくる。兵士らで満ちた園路を避けて、素早く泉にうかぶ庭石をも駆け渡りながら。
頭を射抜かれ、ばぁんと砕け散った水蛇より零れ落ちる――冽花を受け止めにかかる。
金茶色の腕のなかに抱かれて、冽花は咳きこんで、涙ぐむ目を開けた。
「……っ、浩、然?」
「ああ、遅れてすまなかったな」
その困ったような笑い顔に、ふにゃりと冽花は泣き笑いを浮かべたのであった。
そうして、そんな浩然に、扇のおくで歯噛みする者がいた。
抱水である。
『浩然……ッ』
その隠しきれぬ憤怒の様子に、浩然は挑戦的に笑い、瞳をむける。
「よう、抱水。派手にやってんじゃねえか。こんだけ兵士引き連れてよ、よってたかって弱い者苛めか? 俺も混ぜろよ」
『関係なかろう、お前には……ッ』
「関係ならあるさ。こいつは蟲人だし、女だしな。それに、それなりに気に入ってんだよ。お前んとこの『今の大将』に預けたら、無事じゃあ済まねえだろ?」
『……ッ』
「その顔は図星だな。そんなこったろうと思ったぜ」
『
「悲しいねえ。そんなお前を見たら、瑟郎がなんて言うか」
瑟郎、の一言を聞いた途端に、その場に維持されていた水蛇らが砕け散った。
抱水は口元を覆う扇を震わせつつ、細く冷たく目をすがめて、浩然をねめつける。
『言いたいことはそれだけか? ……その、瑟郎がおらぬ以上、お前たちの目溢しをするのにも限界はある。この場で処罰される覚悟はできているのだろうな?』
「おお、怖ぇ怖ぇ。できてるわけねえだろう? 俺も、俺たち白墨党も、これからなんだからな! ――ってことでずらかるわ。悪いが、こいつは貰っていくぜ」
「えっ」
冽花は瞬いた。ずらかる、と言って、さっさと浩然はきびすを返そうとしたのである。
慌ててその服を握りしめる。
「おい、賤竜は?」
その言葉に浩然は足を止める。彼は――眉尻をさげてみせた。
その反応にドキリと胸を高鳴らせて、冽花は賤竜を見やる。
賤竜は力を使い果たし、膝をついていた。見る間に兵士らに縛り上げられていく。その姿をみるに、焦燥感が募るばかりであるのに。浩然は動こうとしない。
「賤竜は? なあ。あいつも、連れてくんだろ? 浩然……ッ」
なおも冽花は浩然の服を引く。弱々しく、何度も。
けれども、ここで浩然は――首を振った。
「無理だ。ここまで来るのに……仲間を集めて突っこむだけでも、精一杯だったんだよ。あの状況のやつを救いだすのは不可能だ」
「……っ……そんな」
「対不起(すまねえな)」
「そん、な……だって賤竜、そこにいるのに……っ、賤竜!」
腕から逃れようと暴れるのを押さえこまれ、ひぐ、と喉を引きつらせる。
手を伸ばしたくとも、園路で捕らえられている賤竜との距離は遠い。はてしなく、遠いのである。冽花は目を見開かせて、大粒の涙をこぼした。
そして、そんなやり取りを見ていた抱水が扇を向けてくる。
『行かせると思うか?』
「むしろ、お前のほうこそ大丈夫なのか、それ」
『……? ……ッ』
言われて気付いたというように、抱水は――先とは別に、差し向けた扇が不随意に震えだしているのを見下ろし、舌打ちまじりにその手を袖で隠す。
顔をそむける。その仕草が、彼の意志を物語っていた。
浩然は今度こそきびすを返す。庭石をまた渡り始めていく。
必然的に冽花の視界から、じょじょに賤竜は遠のいていく。
どころか、消え去らんとする。
「賤竜!」
冽花はもがいた。そのつど浩然に押さえ込まれつつ。
脳裏には未だに鮮やかに、あの――縄打たれた姿で救わんとしてくれた様が焼きついている。必死に呼んできた声も、耳に染みついているので。
だから――!!
だが。
無情にも、冽花の視界から賤竜の姿は失せていく。
「っ、賤竜……!」
息を飲み、名を呼ぶものの、その声に応える者はいない。
いつも。呼べばすぐに応えてくれたのに。ずっと。ずっと一緒にいたものを。
『是』――『どうした、冽花』。あの低く淡々とした声音が聞こえてこない。
そのことが酷く、胸に隙間風を吹かせるのであった。
だが、仕方がない。どんなに呼んでも応えようがない。
賤竜は。
他ならぬ冽花を救うために、捕らえられたのだから。
「賤……っ」
震え声とともにかぶりを振るう。ひくっ、と喉を震わせて、あらたな涙をあふれさせた。
すべては。軽率だった自分の落ち度である。そのせいで彼は。
賤竜は。
わななく唇を、開いた。
冽花は気付いてしまった。『またやってしまった』ということに。
自分はまた、その軽率さで大事なものを取り零したのだ。
以前と同様に、冷たくなった体ばかりが残った。体と心が冷えているのが、以前と全く同じであり――なによりの証であった。
「ああ……」
冽花は絶望する。
「ああ……ああ……っ、ああああァ!!」
そして、自覚したとどうじに、喉が破れんほどに悲しき咆哮をあげた。
涙を振り絞って。
だが、そんな悲痛な声に、やはり応えてくれる者はいない。
呻き、しゃくりあげて泣く。普段の
猫耳を伏せて尾を垂らし。まるでただの女のようにすすり泣いて、震える拳をもちあげ目を擦った。何度も、何度も。
夢なら覚めてほしいと願うかのごとく。
だが夢ではない。彼女の悪夢は終わらない。
濡れ冷えきった拳に、あの首飾りが握られていたのだから。
「……ッ。じぇん、ろん……っ」
そう。賤竜と引き換えに取り戻した。大切で、悲しい品が、握られていたのである。
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