竜は陽に焼かれる

第41話 猫娘の望んだこと、その顛末への始まり

 その日の冽花は憂鬱で、かつ申し訳なくて堪らなかった。焦って、いた。


 せっかく――少し仲良くなることができたと思っていた賤竜が、恐らく自分を案じて、勧めてくれた。そうして、実際に冽花を守ってくれた。


 そんな首飾りを奪われたのである。ひとえに冽花じしんの驕りと見通しの甘さから。


 だから。やめろと言われても。どう考えても罠だけれども、行くしかなかったのである。


 視野狭窄に陥り、物事の優先順位が見えなくなっていた。

 だから。まさか、こんなことが起きるだなんて、夢にも思わなかったのだった。


 ――賤竜……っ


 冽花は胸のうちで呼びかけた。


 その身は抱水の水蛇に呑み込まれ、四肢を水流に拘束されて、首だけを突きだされた形でいる。鼻から下が浸けこまれており、彼に指示を送ることができない。


 ――どうしよう。賤、竜……っ


 懊悩するその思いに応える者はいない。


 目の前では、一方的な捕り物が繰り広げられている。


 夕陽に染まる園林ていえんに、鼻をつく肉の焦げる匂いが満ちていた。


 男の唸りとうめき声とが響き渡っており、また無数の男たちの怒号がこだましていた。

 冽花は。目をいっぱいに見開き、その光景を映し込んでいた。


 なぜなら。


『っ、ぐぅ……あ……ッ!』


 身をよじり、苦悶の声をあげているのは、誰あろう賤竜であり。


 その身は無惨にも、棍持つ四肢に縄を打たれて。陽光を照らす、幾つもの凹面八卦鏡を向けられていたからである。


 賤竜の身から黒い炎が噴きあがり、八卦鏡へと吸い込まれている。

 奥歯を噛みしめ、なけなしの力を込めて縄を引きちぎろうと、新たなそれがかけられてしまう。立ち往生せざるを得なくなっている。


 それでも彼は、前へ、前へと進もうとしていた。


『冽……花……っ』


 自分を救おうと前に出る。そんな彼の様子を、冽花は見ているしかできなかった。


 そうして。


 彼を計略にはめて、今しも苦しめているのが、他ならぬ抱水であることも。


縄鏢じょうひょう(長縄に鏢をつけた武器)を切らすでないぞ! 負けずに引け! 福峰を守りし兵士たちよ!』


 扇を突きつけ鼓舞するその声に、おおッと地をどよもす声があがった。


 冽花は見ていた。

 見ているだけしか、できなかった。


 ――賤竜……ッ!!


 彼女の悪夢は終わらない。




 遡ること半日あまり前。

 あれから客桟やどに帰り、濡れ鼠の姿にいたく驚かれた上で、冽花は事の顛末を告げた。


 ひどく言いづらくて仕方がなく、賤竜の視線が気になって仕方がなかったものの、賤竜は例によって何も言うことはなかった。


 項垂れる冽花に、抱水関連であるために頭痛を抱える探路。話し合いは遅々として進まない。

 牀に体を沈めて、こめかみを押さえ、眉をひそめつつ探路は告げた。


「正直、お勧めはできない。十中八九、罠だと思う。賤竜も連れてこいと言っていて……相手は同じ風水僵尸だ。何らかの対策を施してくるのは明白だ」


 その言葉に傍らに腰を降ろしていた冽花は唇を噛みしめる。項垂れるように頷くのだ。


「うん。でも……」


「そんなに大切なものなのかい? その首飾りとやらは」


「……っ」


 言葉を詰まらせて、冽花はおもわず賤竜を見た。


 彼は、やはり何も言わなかった。硝子球のような目で見返してくるのみだ。

 冽花は再び項垂れて考える。


 ――確かに。持っていたのは一日にも満たない時間である。それに、さして高くないものだ。同じものを購入しようと思えば簡単にできる。


 でも。


 脳裏にうかぶのは、『賤竜が手にし、差し出してきた』映像である。


 彼の忠告を聞かずに騒動を起こしたり、そうでなくとも巻き込まれてしまう冽花を案じて、『彼みずから』動いて、勧めてくれたものであった。


 少しだけ、仲良くなることができたと思っていた賤竜が、勧めてくれたもの。


 膝上の両手をぎゅっと握りしめた。小さく、頷き返した。


「うん。あたしにとっては……大事なものだった」


 どれだけ困難なことを告げているのかは、分かっているつもりであった。

 街一つを牛耳る立場にある風水僵尸に盾突こうとしているのである。下手をすれば無事では済まない。


 ――でも。叶うのならば取り戻したい。


 それは紛れもない本心だ。

 万感の思いをこめたその言葉をうけて、探路は少しばかり目端を和らげた。


「っ……そうか……。っ、いててッ」


『探路、無理をしないで』


 溜息をついた探路は、ついですぐに顔を歪めては呻いた。彼の牀縁に座っていた妹妹が、透きとおる掌で額を撫でる。その手に撫でられ少しをおくと、彼は呼吸を楽にする。


 淡く微笑むなり探路は妹妹に礼を告げて、改めて冽花を見た。


「どうしても、取り戻したいんだね?」


 その優しい声と瞳をうけると、冽花は堪らなくなった。唇を小さくわななかせた後に頷いた。


「っ……うん」


「分かった。……なら、僕も覚悟を決めよう」


「え?」


 意表をつく探路の言葉に、おもわず冽花は瞬きを落とす。


「覚悟、って……なんの?」


「さらなる痛みに苛まれる覚悟だよ」


「え!?」


「聞くんだ、冽花」


 少しだけ探路は目元に力をこめ、冽花にそれ以上の追求を制した。

 こめかみをさらに揉んで、彼は続ける。


「普通に考えて、君と賤竜の二人で出かけていくなんて自殺行為だ。それこそ、腹を空かせた虎の口のなかに飛びこむようなもの。せめて、味方が必要だ」


「味方……?」


「そう、何かあった時のために、逃げるのに手を貸してくれるような……できれば、この土地に土地勘があって、腕っぷしも強ければ尚いい。そんな誰かが必要だ」


「そんな……そんな都合のいいヤツなんて……」


 冽花は呻いた。

 この街に来て、まだ一日も経たないのである。土地勘はおろか、そんな頼もしい味方に当てなんぞありはしない。


 頭を抱える冽花に探路は頷き返す。


「だよね。僕もこの通りだ。……でもね、一つだけ心当たりがあるんだよ」


「心当たり、って……探路、でも、アンタは――」


 怪訝をつかの間浮かべたものの、ふいにふと冽花の脳に天啓が走る。目を見開かせて、おもわずと身を前のめりに乗りだした。


「まさか、記憶が蘇ったのか!?」


「そのまさか、だよ。っぅ、いっててて」


『探路、無理しないで』


「大丈夫、だよ、妹妹。今が僕の、踏んばり時だから……っ」


 両手をこめかみに添えて、脂汗を額に滲ませながら、探路は口を開いた。


対不起ごめんね、言いだせなくて。実は水蛇と……あの蟲人の戦いを、見た時には、もう思い出してたんだ。でも……こうなるかもしれないって、分かってたから怖くてね。それに……ッ、あんまりに断片的で……確証に、とぼしい情報だったから」


「探路……」


 もういい、と冽花は言いたくなったが、唇を嚙みしめる。

 驚きはしたものの、確かに、あの水蛇と蟲人の戦いで倒れて以降。目を覚ましてから、彼はどこか思いつめたような表情をしていた。このためだったのか、と思う。


 そうして今、痛みに身を竦ませおののきつつ、こんなに苦しんでまで、情報を言わんとしてくれている。

 冽花は奥歯をも噛み締める。牀に手をつき、一言も聞き漏らすまいとし顔を寄せるのであった。

 そんな彼女にうっすらと微笑みを向けるなり、探路は震える唇を開く。


「よく、聞くんだよ。一度しか、言えない」


「うん」


「水連通りの……『萬福』って料理屋の看板下に……赤い花の、鉢植えを置くんだ」


「萬福って店の看板下に、赤い花の鉢植えを置く」


「そう。それから、きっかり二刻(四時間)後……金華通りの、東端から三番目の路地を、右に曲がり……右、左、左、右、の順番に、曲がる……」


 はあ、とここで言葉を切って、探路は両手で目を覆い隠す。耐えきれない唸りが漏れた。だが歯を食いしばって、彼は言葉を紡いだ。


「面した袋小路で、待つ。……これが、思い出せたことだ」


 冽花は目を瞬かせた。

 確かに断片的であり、確証にとぼしいと、彼が言ったのも無理はない。


 これは『誰かに会うための符号』に違いない。


「探路、それって……」


 だが、誰になのか? 今でも有効なのか? 第一、その誰かは冽花らに協力してくれるような人物なのか?

 疑問は尽きない。心苦しくも冽花が訊ねる前に、探路が口を開いた。


「来てくれるのが、誰かは分からない。でも……とても頼もしいヤツだ。そういう気が、するんだよ」


 彼の口調は確固たるものがあった。やはり確証にとぼしい物言いではあるものの、希望的観測ではなく、確かな確信が伺えるものであった。

 また、他ならぬこの街の人間だっただろう探路からの有益な情報である。


 冽花は唇を噛みしめ、じっと探路の顔を見つめて考えた後に、決断した。


「……ありがとう、探路。やってみるよ」


 冽花は体をひくと、力強く頷き返した。

 探路の顔色はすこぶる悪く、額には玉の汗が滲んでいた。が、その唇が薄く弧を描く。


「いいってこと。他ならぬ……僕を救いだしてくれた、君の、ためならね。でも……少し疲れたから……ちょっとだけ休むよ」


「うん。晩安(おやすみ)、探路」


 探路は体から力を抜いた。ほどなくすぐに寝息が聞こえてくる。よほど消耗したに違いない。

 冽花は立ち上がると賤竜を見やる。


「話は聞いたな? 陽が照り次第出かけるぞ」


『是』


「妹妹は探路についててやって。何かあったら教えてくれ。あたしも、何かあったらすぐ呼ぶからさ」


「わかったわ」


 めいめい頷き返し、動きだす。


 朝になってからが本番だ。やることは多い。ひとまず体を休めるべく、冽花も牀に収まったが……明日のことを考えるとなかなか眠りにつくことはできずに、まんじりともせぬ夜を過ごすのだった。

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