第40話 通り魔との遭遇、そして奪われしもの

「いいね。混ぜてくれよ。ただし……こっちの方でな!」


 瞳を縮小・拡大――からの転化! その場に巻きおこる甘き薫風に、途端に男の面に驚愕が芽生えた。ピンと突き立つ猫耳と、しなやかな尾をもつ姿に変じた冽花を見て、泡を食って驚いた様子で瞳を泳がせたのである。


「こ、蟲人!?」


「そーうだよ、蟲人だ。お前ら五人いようが、あっという間にぶっ倒しちまう蟲人だよ。分かったら、その子をおいて消えな。痛い目見るよ」


 尾を鋭く振るい、臨戦態勢をとる冽花を見て、他の見張りも目を泳がせる。

 しめしめ、と冽花は内心で嗤う。怖気づいてこのまま女性を放してくれればそれで良し。襲ってきたとて、相手は無手である。十分に勝てる算段はあると踏んでいた。


 だが、冽花は顔色を変える。ふいに女性の身が大きく引き攣ったように跳ねだしたのだ。


「なっ……何してんだ、やめろ!!」


『騒ぐな。眠らせるだけだ』


 ふいと聞こえた線の細い、神経質そうな声。


 冽花は覚えがある気がした。


 だがそれを気にするよりも前に、視覚的情報の衝撃が強かった。今にも女性は事切れてしまいそうな不穏な痙攣をしていたのである。彼女の身が心配であるあまり、冽花は動いてしまった。


 鋭く地を蹴り、彼らのもとへと迫る。感じた違和感を見ない振りしてしまった。


 そのツケはすぐに訪れた。


 見張りの男たちの顔に、一様により濃い怯えの色が走るものの、彼らは退かない。どころか、意を決した様子で両腕を広げたのである。

 まるで後ろにあるものを守らんとするかのごとく。


 その姿に虚を突かれて冽花の足が鈍る。そうして彼女は、信じられないものを見たのである。


 広げられた腕の、その下の隙間よりかいま見えた光景。


 外套を身に纏った者が、片手は女性の首の命脈を押さえつつ――もう片手で、その布の下から『白き炎に輝く鉄扇』を抜いたのだ。


 炎に照らされる顔の口元は、紅を差したがごとく赤く濡れ光っていた。


 ――抱……


 頭が真っ白になった。


 そうして、その間隙かんげきが仇となった。


 ひと息に広げられた扇が、空を混ぜて冽花へと向けられる。次の瞬間、ざぶりと大きい水音が生じた。音源は通り向こうあたりである。


 ふいと、ぽつり、と一滴の雫が冽花の頬に落ちる。


 雨か? 晴れていたのに――。おもわず見上げた夜空に、大きく顎をひらいて躍りかかってくる水蛇がいた。呆気にとられて、頭から一飲みに飲み干されていた。


 がぼり、と口から酸素の泡が逃げていく。衝撃に一瞬意識が飛んだ。


 そして気が付けば、冽花は鉢のなかの金魚よろしく水球に閉じ込められていた。


 腕をばたつかせて逃れようとするものの、浮力に敵うはずもない。みるみる息が苦しくなっていき、鼻と口を押さえた。

 その水球の前に立ち、外套を着こんだ者――抱水は低く囁きかけてきた。


『悪く思うな。命までは獲らない。だが、同じように意識を落とさせてもらおう』


 ――……っ、なんで、抱水が……! っ、ガ……息、が……っ!


 冽花は苦しさの余りにきつく顔を歪めて、体を丸める。

 そんな冽花を痛ましげに細い眉を垂らして見つめながら、抱水は告げた。


『蟲人は体が丈夫だと聞く。ならば……“多少多めに頂いても”死に至ることはあるまい』


 ――なにを。なにを……言ってるん、だ……っ


 頭がガンガン痛む。目の裏が白黒に明滅していく。息が、もう続かない。


 ――じぇ、ん……


 脳裏にうかんだのは。一緒についてこようか、と告げた賤竜のことであった。

 こんなことなら一緒に来ればよかった。事態を甘く見ることなく。


 いいや、それ以前に。まず、自分の力を……過信するんじゃなかった。


 後悔ばかりが、口から逃げていく泡のごとくに脳裏に湧きあがって消えていく。


 そうして冽花の意識が風前の灯と化した。その折であった。ふいと、その胸からこぼれ出るものがあった。


 太陰つき明かりを弾く、小さいもの。それは抱水の目を惹いた。


『む? これは……』


 何やら抱水が告げている。


 おぼろげな意識となった冽花には分からなかったが。

 それは。服の下に着けていた、あの小さい凸面八卦鏡であった。


 鏡はするりと水中をすべり、冽花の――力なく投げだされた手の、ひと差し指をかすめていく。

 そこには真新しい『傷』があった。小さい瘡蓋かさぶたをこそげ取り、水のなかに一滴の血液が滲んだ。


 そうして、水を司る抱水。血液に一過言ある存在にとって、その一滴だけで十分だったのである。


 ふいとだしぬけに水球が割れて、冽花は投げ出されていた。

 腹を強く打ち、飲んだ水を吐きだす。弱々しく咳きこんでいると、なにやら抱水の動揺にゆらぐ声が聞こえてきた。


『なん、だと……お前が……』


 うっすらと瞼を開ける。


『お前が賤竜の……?』


 その一言で理解した。


 ――ああ。またあたしはアンタに助けられたみたいだ、と。

 賤竜。


 弱々しくかぶりを振って、抱水は頭をかかえた。ブツブツと何かを言っている。だが。何を言っているのかまでは分からない。


 ふと、意識を落とそうとして――冽花は胸倉をつかまれ引き起こされた。


「ぅ、ぇ……」


『おい。寝るな、賤竜の契約者よ』


「い、しき……落としたい、のか……どっち、な……」


『状況が変わった。お前を、今回は見逃してやる。昼間の“借り”がある故な。だが』


 ぶつ、と鈍い音がして、首筋に少しだけ引っぱられたような衝撃があった。

 何が起きたのかと瞬いていると、冽花は。


 目の前で抱水が、その手に凸面八卦鏡の首飾りをさげているのを見つけた。


「っ……そ、れ……っ」


『ああ。代わりにこいつを頂いていく。返してほしくば賤竜を連れて……明日の夕刻、福宝路ふくほうろ南東にあたる『柳鳴鶯園りゅうめいけいえん』……その南門にある王泉がてい(あずまや)まで来るのだ。よいな?』


 つらつらと述べられて、首飾りは抱水の手中に収められてしまう。


「なん……で……っ、かえ……せ」


 ――返せよ。賤竜が勧めてくれたのに。


 手を伸ばしたかったものの、体は気怠く言うことを聞いてくれない。


 そんな冽花に鼻を鳴らすと、抱水は無造作に冽花を放す。ばしゃりとその場にくずおれてしまう彼女を置いて、立ち上がり、その場を後にしていく。


 瞼が重たくなり、彼らの背が遠のいていくのを最後まで見届けることができずに。冽花は意識を落とした。


 その後、持ち前の回復力でもって、ほどなく回復したけれども。その頃にはもう、抱水たちの姿は闇夜にまぎれていた。女性の姿もなかった。


 冽花は肩を落とし、濡れ鼠の態で通りに拳を落とそうとして――やめた。

 肩を落とすまま、帰路につく。


 いい気分など、先の水にすっかり押し流されてしまい。あとに残るのは、冷たい胸元を吹き抜ける隙間風ばかりだった。

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