第24話 探路と小さな姐姐(おねえさん)
「僕も蟲人の可能性があるようだから。でも、ご覧の通りだ。それらしい兆しも見られないし……妹妹から見てどう思う?」
『うーん……』
妹妹は口を結んでもにょつかせた。敷布につけた尾の先を小さくぴくつかせて、しばし考えこんだ後に……その耳が伏せられ、尾もだらりと垂れさがった。力なく首が振られる。
『わかんない』
「わかんない、のか。君でも」
『うん。蟲人はね、自分の手や足を使うみたいに自然と力を使えるの。それに、わたしみたいに“魂魄の名残”を連れているヒトと、玉環みたいに“記憶だけの形”でいるヒトがいるものだから』
「ああ。僕は力の使い方なんて分からないし、魂魄の名残も出てはこない。記憶だけ残されている場合があるのか」
『うん。それとね、『転化』する時には気の流れが盛んになるの。わたしたち魂魄の欠片や記憶が……えっと、“より原初の気に近い”わたし達が、生きてるあなた達と結びつくから、そうなるみたいなんだけど』
「原初の気に近い?」
『うん。龍脈に流れてる、陰でも陽でもない気。灰色の気。わたし達は本当はそこに在るべきものだから……だから、そういう性質があるに違いない、って。
「玉環が?」
『うん。玉環はすごく頭もよかったのよ。難しい本をたくさん読んでいて、気についても学んでいたわ』
ふと遠い眼差しをする妹妹。昔を思い起こしているのだろうと思い、探路が口を噤むと、すぐに彼女は我に返ってきた。
『そう。わたしが気を見えることに気づいて……一緒に色々試してみて、そうじゃないか、って言ってたの。……探路には今のところ、そういう気の活性化は……』
ああ、そこに行き着くのか、と探路は納得した。
「となると…………やっぱり、僕には蟲人らしい要素が一つもないわけだね」
そう結論に至ってしまう。
そうして、そう結論づけてしまうと――苦い、憶測が生まれてしまうのであった。
探路は笑った。どうにも、苦味が禁じ得ない笑みをうかべて。
「こう考えてみると、僕は普通の人間なんじゃないかな? っても思えてくるよね。……あそこにいたのは、何かの間違いなんじゃないか、って」
そういう考えも生まれてしまうのだ。その言葉に妹妹は目に見えて慌ててしまう。だが、探路はすぐに彼女を慮る気持ちにはなれなかった。
あの辛く厳しい忍従の日々が思い起こされたからだ。
自分が誰かも分からないまま、ただ狭くるしい檻のなかに座り、時おり配給される饅頭(蒸しパン)と水で永らえていた。
あまつさえ、食事には痛みが付き物であった。食事の度に浅いとはいえ傷をつけられ、血を絞り取られたためだ。その傷を自身で舐め、癒すため次の食事を待った。
そうしている間に、時々連れ込まれて、また連れ出されてゆく蟲人たちを、成すすべもなく見送っていた。時には自身が連れだされることもあったけれど、どこでも扱いは同じであった。
人間らしい活動の一切を抑制され、劣悪な環境下で『飼育』とも言うべき扱いをうけて。
少しずつ、人間性が死にゆくのを感じていた。
手足は衰え、体力がなくなり、声はかすれ、思考力も鈍麻していった。
冽花と出会った頃には、半ば獣同然と化していたかもしれない。
けれど、あの花のような輝きを見た。
花も嵐も引き連れての躍動に加えて、嫌なことは嫌だと言い、逆に人を暖かく思いやる姿があり、生きていた。人間らしく。
そんな彼女の姿に、少しだけ凝り固まっていた心が、息を吹き返したのである。
けれど。こうして平和な日常に戻ってきても思い出してしまうのだ。あの忍従の日々を。
今がもしかしたら夢であって。本当は未だにあの檻のなかにいるのかもしれない――。
ふ、と――目の前がほんの僅かに、暗くなった気がした。
気づくと探路は妹妹に抱きしめられていた。小さな小さな体に抱かれ、頭を撫でられていた。
『探路』
まろく柔らかい声が呼ぶ。仮初の名前を。けれど彼女が。野の花のような人が名付けてくれた、『こちら側』での名前を呼ぶ。探路は瞬いた。
「妹妹……?」
『うん。探路。
「――……!」
『
探路の胸のうちを見透かすような言葉であると同時に、子どもをあやすような物言いであり所作であった。どこかその所作といい、手慣れていた。
否。あるいは。冽花たちにもこうしていたのかもしれない。彼女はずっと、ずっと長く生きてきたのだから。
死者に『生きていた』という表現は不適当かもしれない。それでも、今の探路にとって、この表現と感覚がぴったりと当てはまると思った。
優しい、やさしい仔猫。龍脈に還ることなく、長くこの地上に残り続けてきた――ただ一つの約束を守るために、留まり続ける死者。
探路は口を、小さく開けて。戦慄かせた。
喉が急激に干上がるのを感じた。そして、直感的に、『まずい』と判じていた。
この感覚、この現象は――……泣いてしまう、と。
目頭がカッと熱くなり、視界がみるみるうちに歪んで、滲んでゆくのを感じていた。
けれど抗えなかった。ひくり、と喉仏を上下させて――最初の一粒が零れ落ちるのを、他人事のように知覚していた。
熱く、塩辛い涙が。
「う、ぁ……ああァ……」
抱かれている感触などはない。包む身の暖かさも、撫でてくれる手の柔らかさもすべて。
けれど暖かかった。探路は、確かに暖かさを、感じていた。
ずっと。ずうっと欲しかったものを、得られた気がした。
……否。少しだけ、違う。まだ少しだけ違和感があった。胸に隙間風を感じた。
そうして。
零れ落ちる滂沱の涙を感じながら、探路は、ただ一欠けらだけ思い出したのである。
――柔い衣擦れの音をたて、たっぷりとした筒袖を寄せてくる人影。
『しようのない奴だな』
鼻さえ鳴らして憎まれ口を叩きつつ、袖を寄せて背へと回す。抱きしめてくれる。
『お前は案外と、泣き虫なのだから』
そう言って、甘やかしてくれる、誰かの影が見えたのである。確かに。
だが、次の瞬間、激烈な痛みが頭を貫いて。
影は一瞬で消え去ってしまった。探路のなかから。
あっ、と探路は呻き声をもらした。ついで、あうぅ、と漏らした呻きは、痛みへのそればかりではなく。心が悲鳴をあげるがゆえであった。
ようやく。ようやく掴めたのに少しだけ。
――誰? 誰なんだ、君は。一体。
それが、何よりも追い求めているものだと判じた。直感的に理解していた。
目を瞑ってすすり泣く。子どものようにかぶりを振って、妹妹の胸元に顔を擦り寄せて、泣いたのである。
声にならない
――誰なんだ、君は。ねえ。もう一度、応えておくれ。
君にすごく会いたいんだよ。君のもとに帰りたいんだ。
辛くても、苦しくても。心がすり減っても。だから僕は耐え続けた。
『××』……君に会いたい。
応える声はない。それが余計に悲しくて探路は泣いた。
ズキズキガンガンと、のたくる蛇のように頭の内側から全体を、痛みに苛まれたとて。声が枯れるまで泣き尽くして、そうして体力を使い切ったのであった。
泣く力も失せて、眠気に苛まれだす探路から、そっと妹妹は離れた。そうして、牀から降りていく。その様子を見て、探路は口を開いていた。
「ねえ、妹妹。……どうして君は、普段あまり表に出ないんだい?」
『え? うーん……』
急な問いかけに、妹妹は目をみはって唸りをもらした。だが、そう訊いたのにはわけがあった。きっとこの後、冽花達を呼びにいくに違いないからである。
泣いて泣いて泣き尽くして、探路は色々なものが
そうして冽花たちが戻ってくれば、この時間は終わりを告げる。妹妹は――見ていると、滅多に表へ出てこないようだから。
頭のなかにほんの少しだけ掠めた影へ、言い訳をする。
――そうだよ、僕は泣き虫なんだ。意外と甘ったれなんだ。だから。
気になっていたことを聞いてやろうという気になったのである。
少しばかり悩んだ末に、妹妹は幼い顔に不似合いな大人びた苦笑を滲ませた。
『わたしの時間はもう終わってるから』
その答えに探路は目をゆっくりと瞬かせて、「ああ」と呻きまじりに告げたのであった。
自分の時間。自分の生は終わりを告げているから。だから。――今生の生にくっ付いてきてしまうほどの未練があろうとも、できるだけ影響を与えないように、出てこぬようにしているのだ、と。
だけど、それは。
「でも、それってすごく、寂しいことなんじゃないかなあ」
そう、探路は告げた。率直に思った。
先ほど彼女のことを、『生きている』と感じたのだから尚更に。
今、こんなに近くに大好きな
みずから気持ちを押し殺し、表舞台に立とうとせぬのはあまりに惜しく、寂しく。痛々しい。いじらしく――そんな結末を、探路は望まなかった。
それとなく、そっと内緒話をするかのように声を潜めて、囁きかけた。
「もっと哥哥と話したいんじゃないかい? ……甘えたいんじゃないのかい?」
効果はてきめんだ。その声を聞いた瞬間に妹妹は困ったような顔をした。眉尻とともに猫耳をも伏せて、尾を垂らしたのである。
『で、でも……』
「今更と思うかい? 冽花はむしろ喜ぶと思うよ。賤竜は……戸惑いつつも受け入れると思うなあ」
言いつつ、あのすこぶる内心の分かりにくい真顔を思い浮かべる。けれど、よく見ていると分かりやすい賤竜の内面に、ふふりと探路は含み笑うのであった。
冽花と風水――自分の務めに対して忠実であると同時に、自分にたいして頑なである。そうして最近では、冽花に関わる事柄に積極的に関わるようになりだした。
「まあ、僕に任せておきなよ。今日のお礼がわりだと思ってね。……ああでも、一つだけ約束してほしいんだ。僕が、君に抱っこされて泣いちゃったことを、秘密にしておいてくれること。……さすがにバレるのは恥ずかしいからね」
歯を覗かせて肩を揺らし、片目を瞑ってみせると。妹妹は瞬いた後、口元に手を当てた。クスクスと泡が弾けるように笑声をこぼしたのである。
そうして、こっくりと頷くと薄紅色の光の粒となって散った。
――その場に訪れるのは静寂である。遠くに、また人の営みの喧騒が聞こえ始めた。
ふっと一つ息をこぼすと。少し前とは別種の、穏やかな心もちでもって、探路は眠りに就いたのであった。
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