探路と妹妹

第23話 探路と小さなお留守番

 その日、探路は一人で、壁を背にしてベッドに腰をおろし、膝にのせた本を読んでいた。


 少しずつ一人で座れる時間も増えて、腕も僅かながら動かせるようになってきた。


 そうして現在いるのは、広々として、瀟洒しょうしゃな調度品の置かれている部屋であった。


 いわゆる、『お向かいの店』の一室にいるのであった。


 あの後――こっぴどく叱られた店東てんしゅたちは反省し、意地張りをやめて協力しあうことになった。具体的にいえば、向かいの店東が臨時で働くことになったのである。


 彼自身の店は、彼がおらずとも回るようにしてあるらしい。また、何かあってもお向かいなので問題ない。


 さらにその腕は、老いた店東をして鼻の下をこすり、「やるじゃねえか」と言わしめるほどのものであり。それにまた照れ隠しの悪態が返り――なかなかすぐに元通りとはいかぬようであった。


 だが、あの二人はあれでいいのかもしれない。冽花らは顔を見合わせて笑った。


 そして、今回の件で厚くお詫びと感謝をされたのが、冽花たちであった。何か礼を、と言われて――探路を見た。


 療養中の探路が、余裕をもって休むことができる客桟やどを紹介してくれないか、と。こう訊ねたところ、では、と提案されたのが、自身の店、家の空き部屋の提供だったのである。


 そして重ね重ね、お向かいの店東たちに礼を告げて、冽花らは居を移したのであった。


 現在、冽花たちは留守にしている。


 そのため、普段はない静寂があり。ほんの少しだけ開けられた窓から風が入り、探路の頬を心地よく撫でる。


 ふ、と欠伸がもれる。窓からは通りの喧騒が聞こえてくるけれど。彼は、その賑わいが嫌いではなかった。


 むしろ落ち着く。失った記憶の――何かに触れるようで。


「……うッ……」


 ふと俯いて、体を倒し、震える手をもちあげて額を押さえこむ。


 鋭い頭痛が突如として彼を襲っていた。震える息を吐きながら、波が去りゆくのを待つ。


 最近になって起こるようになった事象であった。


 記憶のことを考えると、酷い頭痛が生じる。まるで、それを思い出させまいとするかのように。痛みは頭の奥より生じて、瞬く間に頭全体に――割れるようなそれへと変わっていくので、探路はすっかり参ってしまっていた。


 そして、治療に当たり続けている賤竜から言わせるに、『通常想定されうる頭痛ではない』とのことであった。


 探路が痛みに苦しむつど、その体の気血水きけつすい(人の体を成り立たせている三つの要素)に急激な乱れが生じるのだという。またなんやかやと難しいことを言っていたが、要は通常の体の循環で発生しているものではない。


 重ねて賤竜は探路の首に嵌められている『首輪』にも注目した。それまでは硬い沈黙を保っていたのだが、ここにきて異変を生じさせた。


 探路が痛みに苛まれるおりに、微細に『気』を発するのである。その気は経絡を通り、頭へ伝播している。


 ただごとではない。早急に外さねばならない。

 そのための冽花たちの外出であり、留守であった。


 一応の頓服の調達と鍵屋探しである。本当は一緒に行ければいいのだが――ご巡幸の日取りが近づく今、こんな状態の探路を連れまわせるはずがなかった。


 けれど、一人にしていくのも心配である。


 そこで。


『探路』


 一緒にお留守番する存在が置かれたのであった。


 まろい幼子の呼び声が響き、ふ、と傍らに気配を感じる。

 あらぐ息を飲み、探路は瞳を転がした。


 降って湧いたように現れた、少女がそこにいた。隣で立ち膝になっており――手を伸ばしてきては探路の頭へと触れた。


『痛いね……探路。快点好起来はやくよくなーれ


 眉尻をさげ痛ましげな顔をしている、齢十にも満たぬ幼子である。

 冽花と同じ目と髪色に猫耳尻尾をもつ、彼女の前世の亡霊こと妹妹。


 その身は死者であることを表わし、半ば透きとおっている。触れた手の感触もない。


 だが、労りの気持ちは痛いほどによく伝わってきて、探路は目を細めた。


多謝ありがとう、妹妹。……だいぶ、よくなってきた。撫でてくれたおかげかな」


『本当? ……よかった』


 ピッ、ともたげられる尾先が小さく揺れる。幼い顔がほころぶのを見て、探路も口元を緩めた。ようやく波が去ってきて体を伸ばし直す。


『冽花たちを呼ばなくて平気?』


「ああ、問題ない。それに……たまには僕を気にせずに自由に歩きまわってほしいから。気をつけるよ」


『無理は、しないでね。わたし、冽花をすぐ呼びにいくから』


 ぐっと両手を握って意気ごむ妹妹に、より笑みを誘われてしまう。


 冽花も、出かける前もこうして何度も心配してきた。やはり繋がりを感じてしまう。


謝謝ありがとう。もしもの時には頼むよ」


『うん。――またわたし、消えてるね』


「あっ」


『うん?』


 膝から転げ落ちた本をゆっくりと拾いあげる探路を見て、妹妹は空に溶け入ろうとする。その身がより薄らぐのを前に、おもわず探路は声をあげていた。


「待ってくれないか、妹妹。消えないでほしい」


『どうして?』


「暇なら話し相手になってくれないか? 一人で過ごしていると……どうしても、記憶について考えてしまうんだよ」


 栞をはさみ、探路は本を閉じた。眉尻をさげる。


 名前も住んでいた場所も、元はどんなことをしていたのかすら思い出せない自分。どうしたって事あるごとに求めざるを得ないし、そのつど痛みに襲われていた。


 一人だと、確実にそう遠くない内に二度目に見舞われてしまう自信があった。


 探路のほのかな怯えもまじえた顔を見つめて、妹妹はこっくり頷き返した。再び両手の拳を握りしめる。


『わかったわ。わたし、お話し相手になる』


「助かるよ。君には聞いてみたいことがたくさんあったからね」


『聞いてみたいこと?』


「そう。前世のこととか、蟲人のことについてね。僕も蟲人の――……ふぅ」


 言いかけて、ふと言葉を切って警戒する。が、痛みが訪れなかったのに安堵する。


 そう、探路もまた蟲人の可能性があった。あの蟲人の売買の場に囚われていたのだから。だが、未だになんの兆しもないのである。


 あるのは時おり魘されることぐらいだ。もっとも、探路はその最中のことを覚えていぬのだけれど。

 探路は体を楽にし、両腕を膝の上に置きつつ、首を傾げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る