第22話 その喧嘩の顛末は

 静寂のすきまに差されたような硬さに、一同の瞳が吸い寄せられていく。


 賤竜だ。彼が扉の傍らにある棚に歩み寄ったのである。そして手を伸ばす。


『玄関の傍らに在り、扉を向く睚眦ヤアズ


 骨ばった指が勇ましい置物を撫でる。くるりと振り向き、窓辺を指さす。


『窓辺に置かれて玄関をむく、麒麟きりんの番』


 その通り、窓辺には、一対の陶器でできた麒麟の置物が置かれていた。


 指が店の奥にある棚を指す。


『玄関から入り部屋のおくにて、玄関がわをむく豼貅ひきゅう


 とつとつとその声と指で数え上げていく。


 冽花は驚いていた。この店のなかだけでも、たくさんの風水が用いられていたことを。

 そして、賤竜の言及は老婦人の寝室から厠所はばかりにまで及んだ。


 この家にはとても多くの風水が用いられていたのである。それこそ、厠所の横に植えられた桃の木にまで言及がされたのには恐れ入った。


 一同は突然の、あまりに端的であり怒涛すぎる風水講座の始まりに、目を点にして黙すことしかできない。


 だが、意を決してしびれを切らしたらしいお向かいの店東が動いた。

 というより、不思議とその顔は赤く茹で上げられたように染まっていた。


「い、いきなり何なんだ、お前は!?」


これ風水僵尸ふうすいきょうし陰之断流いんのだんりゅう》型、賤竜』


「あァ!?」


「ああ、ええーっと、こいつはあたしの連れでぇ……!」


 大慌てで駆けつけ、場を取り持とう――弁明しようとした冽花を、賤竜は見つめた。


 じっと。けれど、ふと、その目が細められた。彼は冽花から瞳を外し、向かいの店東へむけて言葉を続けたのである。


『――先の品々、すべて、そちらが購入したものなのではないか?』


 今までの彼ならばあり得ない。一歩、他人ひとへと踏みこむ物言いを。


 否、思えば、明鈴ミンリンの母親にも質問はしていた。だがあれは単純に、興味を満たすものに過ぎなかったのだろう。今の彼は、明確に意志をもって他人と交流しようとしている。


 冽花はその反応に固まってしまった。


 次に槍玉に挙げられたのは、老いた店東であった。


『そちらもそうだ。こちらの者に贈られた品ゆえに埃一つなく、また“言われた通りに”置いているのではないか?』


 老店東もまた、もれなく口を開け放し、酸素不足の金魚よろしく真っ赤に染まり、口を開け閉めしだす。


 が、さすがは年の功であった。ぐうっと歯噛みし、賤竜へと噛みつき返した。


「ど、どっから、ンなことが分かるんだよ。なんか証拠でもあんのか!?」


『証拠ならある。――“虎口煞ここうさつ”だ』


 賤竜は再び扉のまえへと行くなり、躊躇なく開け放った。すると、正面に向かいの店の大扉が見える形になる。


『玄関に面する建物に大きな扉があり、かつ頻回に利用されている場合、風水においては“口を開けた虎が、獲物を呑みに襲いかかっている”状態に例えられる』


 言っている間に中から扉が開き、店員らしき者が数名現れる。店の前を掃き清め、窓や卓を拭いて、と開店準備に忙しく立ち回り始める。

 そのつどに開閉される扉。


『傍から見るに、この家の家相は早急に改善すべき事案である。とくに、玄関の正面から扉が見えているのがいけない。玄関の正面ないし、右方に扉が見える場合が、最も凶相とされているからだ。つねに虎に狙われているため、重い殺気を受け続けている』


 聞いていて、冽花は身震いした。


 あのひっきりなしに開けられ続ける大扉が、がちがちと歯を噛み鳴らしつつ、この店を狙う虎であるかのように思えたからだ。


 が、ふと、『殺気』という言葉に思い出した。

 つい昨日の賤竜とのやり取りを。



『ああ。あれは睚眦ヤアズだな』


「やあず?」


『是。風水において龍は、“最も強力な吉相をもたらす瑞獣”と言われている。その龍にはさらに九匹の子どもがいるとされ、第七子が睚眦である』


「へえ。……どういうご利益があるんだ?」


『魔除け、悪霊避け、邪気避けだな。睚眦は強力な戦士である。その名は“睨む”という意味の字を二つ重ねて、ヤアズと読む。名前通り、一度睨まれたなら逃げられはしない。魔と戦い、打ち払い、殺気を飲むのだと……そう伝えられている』


「へええ。殺気まで取っぱらってくれんのか?」


『是。睚眦を置くことは、家内平安、安全をもたらし、因祸为福わざわいてんじてふくとなす……凶事を吉事に変え、吉運と財運をもたらす効果がある』



 殺気を追いはらうとどうじに、凶事を吉事に変える。

 招財。家内平安、安全――を、もたらす睚眦がこの店にある。しかも、お誂え向きに、しっかりと向かいの店が作りだす状況に対応するよう、扉を向いて。


 あっ、と冽花は思い至った。それと同時に賤竜は言葉を発していた。


『この凶相についての対策はすでに成されている。それも適切な方法でな。誰か有識者の手にかからなければ……これほどこの家に則した対応は取れぬに違いない。殺気や邪気を跳ね返すこととてできるのだからな、凸面八卦鏡などを利用して』


 賤竜は首を傾げる。


『その方が、あちらの“虎”が発する殺気を返しがてらに、自身らの財運を上げることが可能だ。“理に適っている”のではないか? 風水は否応なく、こういった住民間の争いが起こり得るものだ。多くの者が自身の利益を欲するがゆえに』


 要は、本当に仲が悪いのなら。いくらでも相手を蹴落とすやり方はあったということである。


 真っ赤になった店東たちは口ごもった。互いに互いを見て、やはり酸素不足の金魚のようになっているので。


 賤竜はとどめを刺すことにしたようであった。


『重ねて根拠を挙げるとするのならば。こちらの麒麟の番であるが。風水における効能は“家内安全・夫婦円満・人間関係の”――』


「っ、もうやめてくれ!!」


 さらなる恥の上塗りとなるだろう暴露をされかけ、向かいの店東が悲鳴をあげた。

 それに呼応し、慌てて冽花も賤竜に取りすがりにいく。


「じぇ、賤竜、もういいって! さすがにもういいよ!!」


『しかし――』


「もう解決しそうだからいいんだよ!! ……っ、多謝ありがとうな!!」


 冽花の力いっぱいの感謝に、賤竜は目を瞬かせると――静かにまた目を細め返し、『是』と頷いたのであった。




 結局のところ、『意地の張り合い』だったのだそうだ。


 病床に伏せる妻子つまへの思いも、もちろんある。もちろん、あるのだけれど。老いた店東には無論のこと、お向かいの店東にも思うところがあったのである。


 掻い摘んで言うと、こういう形であった。


 昔から仲のよい二人の料理人がいて、互いに切磋琢磨しながら――やがてお互いの店を持った。あまりに仲がよかったので、店まで向かい合わせにしてしまったのが運の尽きであった。


 また、片方の料理人に商才があったことも、歯車が狂うきっかけになった。


 片方の店にくらべて、みるみる大きくなっていく店。街の堅実な食堂という立ち位置を維持し続ける友人と、みるみる大金が懐に転がり込んでくる自分。


 そうして、折悪くも、彼の妻子つまが病に倒れた。麒麟の番の置物を贈ってまで、祝福した夫婦の片割れが。


 まるで自分が彼の運気を吸っているようだ、と向かいの店東は苦悩したのである。そうして、ならばと援助を申し出た。


 だが、ここで納得がいかないのが年上の店東であった。


 風水、天運なんぞ目に見えぬものである。そんなもののために、これまで励ましあい、切磋琢磨しあってきた友が――その成功を、喜んでいたものを。勝手に引け目を感じて、援助をしてくるなどと言語道断だ。


 自分たちは対等な友なのだから。まずもって、吃不了兜着走てめえのケツはてめえでぬぐうものである。


 へそを曲げた年上の店東。とはいえ、友人の懸念する心も分かる。そのため、彼が差しだしてくる置物は置いて、塵一つなく掃除をしていて。


 また年を重ねるにしたがい、信心深さも芽生えてきたので――今の店内の様子になったのであった。


 老いた店東のことが心配で心配で仕方がなかった、向かいの店東。そんな友の心配を素直に受け入れられない、老店東。


 なんとか解決の糸口を模索し続けて、何かと理由をつけて様子を見にいこうとしては。

 あの通り、難癖をつけざるを得ず。売り言葉に買い言葉でああなっていただけの話なのであった。


 というような旨を椅子に座り、ぽつぽつと父親らから語り聞かされた子ども達。開いた口が塞がらぬという顔をしていた。


 きっとこっぴどく叱られるんだろうな、と他人事である冽花は眺めていた。

 そうして、きっと上手く回り始めるに違いないと、分かっていた。


 風水はきちんと機能していたのである。人間関係に影響をおよぼす殺気は、ずっと店を守っていた睚眦ヤアズが食べ続けていた。

 麒麟も豼貅ひきゅうもその他もおのが定位置について、きちんと大事にされて、店とそこに住む人々を守っていたのだ。


 だから賤竜は首を振ったのだろう。今なら分かる。自分の出る幕はない、この家では、最大限にもう風水が機能しているのだと、分かっていたから。


 けれども、ふと、冽花は思い出すことがあった。


 あの時。そう、あの時もそうだった。


 賤竜は冽花の示唆しさを断った上で、冽花をつかの間に見つめてから、青年へと按摩を申し出たのであった。


 冽花は賤竜を見やる。


「なあ、賤竜」


『なんだ、冽花』


「さっき、お前が老子おやじさんたちに話しだしたのってさ――」


 言いつつ、冽花の脳は次々と該当しうる場面を思い浮かべていく。


 さきほど賤竜が垣間見せた表情。自分が止めにはいり弁明しようとしたのを、だが目を細めて、柔らかく受け流すかのようにして。


 話を続けた。『どうにかしてくれた』。


 思い起こすに、その前に、青年と店東らの言い合いを見ていて、探路と話していたのを彼は見ていた。


 どうにかしたい。だが、どうにもできないと、自分は歯噛みしていた。

 そんな冽花に代わって、どうにかしてくれたのであった。


 じわりと胸に去来するものがあった。なんだか温かくって、くすぐったい。


 同時に、やはり思い出すのである。昨日の昼の一件のことを。

 そうして、冽花は――首を横に振った。


「……ううん。やっぱり……なんでもない」


 表に出さないだけで、思うところがないわけではない。痛みを感じていぬわけではなく。きっと、別の気持ちも然りであり。


 どうじに、表に出さない『本当のこと』を告げられた時、その口は閉ざされるのだろうから。訊ねるのをやめた。そうして、賤竜はそれに抗わなかった。


『そうか』


「うん。でも、謝謝ありがとな、賤竜」


『……是』


 代わりにもう一つだけ、礼を告げた。


 そんな冽花に、ぱちと瞬いた賤竜が『自分は何にもしていないのに』というような間をあけたので。冽花は小さく笑ったのであった。

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