第7話 貴竜と義敢(老鬼)の秘密
そして、あっという間に夜が訪れた。
すみずみまで磨きあげてくる! と息巻く宝保を見送り、貴竜は
その気が完全に遠のいたのを感知するや否や、瞳を天井へと滑らせる。
ふと、唇をすぼめた。数度の細い口笛を奏でる。それに応じる形で、天井裏から小突く物音が数度。
天井板が外されて、そこから黒長衣と飴色髑髏の半面に身を包む男が飛び降りてきた。
その姿をみるに、貴竜は薄く斜に構えた微笑みをうかべる。
『
「この姿の時は
『べっつにだぁれも聞いてやしねえよ。お前だって分かってんだろう?』
「念には念を入れてだ」
『堅いねえ。昼も夜もそう堅くっちゃあ、肩凝っちまうぜ?』
けらりと笑う貴竜に老鬼は鼻を鳴らす。おもむろに自身の襟の
「ん、もうやるのかよ? もうちょい情緒を楽しんでもいいんじゃねえか? ……なあ。按摩でもしてやろうか』
「要らん。早く済ませるぞ」
首を振って襟を寛げる老鬼に、貴竜は肩をすくめてみせる。が、笑みを深めるなり身を起こした。その指での招きに応え、老鬼から歩み寄っていく。牀をきしませ、手をついて乗り上げる。
その首へと腕をまわし、貴竜はあらわとされた喉に顔を寄せる。冷たい指で側面の皮をつっぱらせるなり――ちろり、と氷のような舌で命脈を舐めた。
老鬼は途端に身を強ばらせる。目出し穴の目で半眼を作り、睨みやるのだった。
「っ、遊ぶな」
『ふふ。二週間ぶりの飯なんだからさ。楽しまないと』
「いつも皇子からせしめているだろう」
『ん。まあ、悪くはないけどね? 味も質も、契約者のそれとは比ぶるべくもない』
「……いずれにしろ、その皇子が戻ってくる。その前に報告したいことがあるんだ」
『あ、そうなの? じゃあ、仕方ない』
ぶつり。
『仕方ない』と言うが早いか、貴竜は老鬼の首に齧りついていた。
粒のそろった歯列には、剥きだすと、獣のそれめく尖った牙が存在したのである。
急所を食まれた者特有の反応として、老鬼はやはり肩をゆらし張り詰めさせる。そんな彼に忍び笑いつつ、貴竜は溢れだす血をすすった。
軽く吸いついて、濡れた舌を何度も傷口に這わせて刺激する。ぴりぴりじくじくとした痛みに耐え、老鬼は歯を食い締め、身じろぎもしなかった。
長いとも短いともつかない『給餌』の時が終わる。
『……ん。
「ん」
衣擦れの音をたて体を離す貴竜。太い溜息まじりに老鬼も体を離し――そこで袖を握る手に阻まれると、怪訝げに眉をひそめた。
『座れよ。……気付いてないかもしれないけど、体冷えてるぜ?
笑みまじりだが、有無を言わせぬ口ぶりだった。
そんな貴竜の様子におもわず瞬いて――苦虫を嚙み潰したような顔をする老鬼だった。
「……先に、按摩だなんだと告げていたのはそれでか」
『ん』
なおも渋い面で見返すものの、少しをおいた後に牀へと腰をすえる。
そんな老鬼の背に貴竜の手がまわり宛がわれて、もう片手が胸に当てられた。見る間に白い炎がその手へ灯される。
背中の手と胸元の手からじわりと染み入る温もりがあり、老鬼は俯いた。
まるで熱めの湯に浸かるような心地であった。初めはひりつくそれに震える息をこぼし、やがて緩む溜息をつく。やはり、冷えていた証であった。
貴竜の手は移り、下腹と側腹をも暖めにかかる。燃える掌に炙られて熱をもらいつつ、老鬼は瞳をゆらした。
その炎の揺らめきに覚えがあったからである。
伏し目がちになりつつ、おもむろに口を開いた。
「そのままでいいから、聞いてくれ」
『うん? うん』
「先日の、賤竜奪取作戦において。邪魔立てしてきた娘がいる……と、それだけ、部下に伝えさせたな」
『うん。お前が失敗したやつな。よりにもよって、珍しく』
「……。獣の蟲人で、あること以外にも……あれは、お前のソレに似て……黒い、炎を、纏ってきたんだ」
『……へえ?』
「同様の、似通う炎を……賤竜も、用いていた」
『ってことは陰気か、やっぱ。蟲人とはいえ、普通の人間が気を扱うたァ……』
「ああ。あの時は気付き得なんだが。炎、単体を見るなら、お前のソレによく似ていた。……俺の『目』で仕組みが視えなかったのも、説明がつく」
『お前の目、
貴竜の言葉に、老鬼は半面の上から右目をおさえる。左目をも閉じ、なおも告げる。
「奴は、『前世からの借りもの』だと言っていた。その力も」
『前世からの? ……ってことは』
「ああ。二つ、混じっているのだと言っていた。一人と一匹であるのだと」
『…………ふぅん』
「一匹の……猫の側はともかくとして、一人のほうはどうだ。お前の情報のなかに、それらしい人物はいるか? 然様な異能を操るという」
『…………いるねえ。言われてみると、一人だけ』
「誰だ?」
『
ゆるりと伏せていた目を上げて、老鬼は貴竜を見やる。
貴竜は在りし日を思い起こすのか、遠い眼差しをしていた。
「最後の契約者というと……お前と、賤竜を戦わせたという」
『そ。俗に言う“朱陽・藍影の乱”だね。当時は“戦神”だとか“
「……藍玉環の、力の出所などは?」
『その手の情報はないねえ。気付いたら、相手がたに祭り上げられてた形だよ』
「……元より反乱軍。
『さすがは
「しばらくは泳がせようと考えている。あちらの意図を探る意味でな」
ここまで告げて、ひと呼吸おいた。
ここまでが報告になる。……これ以上は蛇足である、個人的な話だ。
だが、老鬼は――義敢は言わずにはいられなかった。
一度目を伏せて、再度瞳をもちあげると、呼吸と空気の変化に気付いた貴竜が、「なに?」と首を傾げてきた。
そんな彼に、義敢は意を決して言葉をつむいだ。
「奴は……賤竜を、龍脈の大河に還すのだと言っていた」
『へえ』
貴竜はひと瞬きをした後に、ふっと微笑みまじりに応じる。
『お前と一緒じゃん?』
「……まあ、な」
義敢は瞳をそらし、言葉を選ぶ。二拍ほどおいた後に、再び口を開いた。
「だが、だからこそ許せぬということもある。俺は。……あやつが、賤竜の縁者であるがゆえに」
『へえ?』
「…………お前と会い、かれこれ五年が経つ」
『うん? ああ、まあ、そうだな』
急な切り口に瞬きを重ねているに違いない貴竜。そちらに目をむけぬまま、義敢は膝の上で手を組んだ。語るにつれて、自然とその組む指は白く染まっていった。
「……お前を見つけるのに十年かかった。そこからさらに、この宮に潜り込んで、お前の前契約者を仕留めるまで五年。お前を、連れださぬことを条件に……この宮と、皇子とを隠れ蓑にして……水面下で事を進めて」
ぐっと奥歯を噛み締める。自然と目出し穴から覗かせる目も鋭く眇めていた。
「お前たち風水僵尸のしがらみを知らずに、そうも易々と言ってのけるのが気に食わん。まずもって、お前は……『どれだけ待っている』のかと。何も知らぬくせに、とつい」
瞳を床へと落とす。視界のすみで、軽く目をみはられるのが垣間見えていた。
クスリ、と遅れて小さく、柔らかい笑声が聞こえた。ちょいと瞳を寄せると。
貴竜は淡く、花が綻ぶように相好を崩して、肩を震わせていた。
『愛されてるねえ、俺もさ』
「……ぬかせ」
おもわず閉口した後に唸りまじりに告げる。が、ここで義敢は口をつぐんだ。
視界のすみに、擦りきれぼろぼろの――半透明の素足が入りこんできたためである。
だしぬけに、音もなく姿を現したそれに顔を上げる。
話の流れが、呼び水となったのだろうか。
――ああ。来たな、と。義敢は胸の内でごちるのだった。
それは女の幽鬼であった。
見るだに幽鬼と言うにふさわしいほど、その身なりは荒れ果てている。
垢じみた粗末な袍に身を包んでおり、
否。最初から彼女には、貴竜しか見えていなかった。
緩慢なすり足で歩み寄ってくるなり、義敢とは反対側、貴竜をはさむ形で腰をすえる。その身に腕をまわし、脂ぎってぼさぼさの髪に包まれた顔を肩へと擦りつけた。
そんな女に
もう触れられない女の頭を。
そうして、その手は義敢へと戻ってくるのだ。義敢の背へとまわり、その肩を抱き直す。貴竜が、今度は義敢に縋りつくように身を寄せていた。
白炎を消した掌がおのが腹から浮いて、もたげられて――半面ごしに右目と、その下の頬とを撫でていく。
義敢はすべてを目にしながら、その手を拒まなかった。
そうして。ここで手を放しゆく貴竜とともに、扉を見やったのである。
『時間切れだな』
「そのようだ」
扉ごしでも分かる騒々しい――
一人はパッと桜色の光の粒子となり消えて。一人は笑い、一人は溜息をついて立ち上がったのであった。
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