第8話 『わたし』が『あたし』と在る理由
貴竜の話を賤竜にしたためだろうか。あの顔が驚愕に染まる様子を正面から眺めたためだろうか。
久しぶりに、
それはふっくらした杏の花が、花びらを散らし零れても、まだなお溢れんばかりに。
満開に咲き誇る、春の
――めぇい。
甘く甲高い仔猫の鳴き声。いつも、この一声から夢は始まるのだ。
めいめい鳴くので、その音にもあてて『妹妹』。なんとも安直な名付けであったものの、仔猫は一等その名を気に入っていた。その名を彼らに呼ばれることも。
彼らとこの杏園を散歩し、遊ぶことも。だから、小躍りせんばかりの勢いで跳ね、駆け回ったのである。
「おーい、妹妹。そんなに急ぐと転ぶぞ~」
――めぇいめぇい。ッ、ブみッ……!
「ああ、ほら、やっぱり」
雪のひとひらめく花びらの敷きつまる地面に、顔から突っこんでいく。
そんな彼女に笑いまじりの声を投げて、少しだけ歩調を早めては、抱き上げてくれる青年の姿があった。
齢十代後半の、どこかあどけなさの残る顔立ちをした青年である。くっきりとした目鼻立ちの顔に、愛嬌のある微笑みを浮かべている。
その額には白い角が生えている。先の丸い、小指ほどの長さの一本角である。
「怪我はないか?」
青年を追いかける形で、やはり少し歩調を早めて追いついたもう一人が覗きこんできた。大股で近づいた反動か、その手の酒瓶がちゃぷりと大きな水音を生んだ。
こちらは二十代ほどの、端正な顔立ちをした青年だった。
切れ長の目を瞬かせて、ほどなく安堵に胸を撫でおろす。その額にも同じく、先が丸く小指ほどの長さの黒角が生えていた。笑いまじりに告げるのである。
「まったく、
「仕方ないよ、まだ子どもなんだもの。それにしても顔からいくとはなあ」
――めぇい!
「あはは、ごめんごめん。つい笑っちゃって」
白角の青年の手に弱い
柔らかく可愛らしい一撃に肩を揺らして笑い、彼は黒角の青年を見た。
「
「うん。いい塩梅だと思う。あの木の辺りはどうだ?」
めいめい頷き返し、青年らは杏の木の下に向かう。そうして腰をすえると、妹妹を放し、おもむろに酒を汲みだすのであった。
そんな彼らに纏わりついて、時に風に吹かれて舞い躍る花びらへとじゃれつく妹妹。
陽は穏やかな明るさを帯び、のどかな昼下がりとなっていた。
のんびりと互いに酒を注いで時に手酌で進めながら、他愛のない話で盛り上がっていたところ、ふっと訪れた間断があった。
思い出したように――いいや、チラチラと黒角の青年を横目に伺っていた、白角の青年。折しもちょうど、彼へとじゃれついていたので、その姿は一目瞭然であった。
意を決したようにここで――思い出した風をよそおいながら、口火を切った。
「そういや、哥哥。あの件、考えてくれた?」
「ん? あの件……ああ、あの件か。そうだなあ……」
「っ、なんか気になることでもあった?」
おもわずといった様子で身を乗りだす。すると、黒角の青年は、顎を撫でさすりながら唸った。
「いやな。実現の難しさをな、考えていたのだよ。父上らの代よりこの方、この国は太平となりつつある。戦はおろか野党すらなりを潜めているだろう」
「ああ……」
聞くだに溜息まじりの落胆の色濃い声。
見上げると、少しだけ目を伏せて曇った白角の顔がある。それを見て、おもわず前足をのせて乗り上げていた。
そんな彼女を見下ろし、白角の青年は頭を撫でてくる。唇を結んで。……思案げにしていたものの、手にしていた杯をひと息に飲み干すと、空のそれを勢いよく掲げたのである。
思いきったように瞳を上げ、告げた。
「でもさ! 『太平に、なりつつある』、だろう? 億が一ある可能性もある。だからさ。……やってみない? ねえ。俺たちも契りを結ぼうよ、哥哥」
その瞳と声の強さに、黒角の青年も瞬く。それに勢いづいて、白角の青年は告げた。
「ともに
そう言って、さらにグッと手にした杯を高くもたげる。
そこまで見て――ようやく、黒角の青年は笑い返したのである。
そこまで強気に言っておきながら、いまだに揺れる
「……そうだな。
「っ……やったぁ!! ――っと、誓いにはそう、酒が必要だよな、それこそ!」
おもわずともう片手を握りしめて、勢い杯を傾けようとして……空っぽのそれに気づく。
慌てて酒瓶を手にし互いの杯に注ぎ直す白角の青年に、なおも笑みを深めては、黒角の青年は首を傾いだ。
「ちなみに、その誓いの名前は?」
「ああ。やるならここがいいと思ってたから、そのまま『
「妹妹に?」
急に水をむけられて、呼ばれたと思い、また顔を上げる。白角の青年は優しい微笑みをうかべていた。
「そうすりゃあ、妹妹が長生きできるように願掛けにもなると思ってさ」
「ああ……なるほど」
「うん。ってことで、妹妹。お前は今日から、俺たちの誓いが交わされたことの証人だ。生き証人ってやつだ。誓いは、果たされるべきだ。だから、覚えていて長生きしてくれよ。それで、できたら俺たちの格好いいところも見てくれると嬉しいな」
「なんといっても、お前は、俺たちの可愛い妹分だからな」
そう言って、頭を撫でてくれる黒角の青年に、妹妹は瞬くなり。
――めぇい!
それはそれは嬉しげに。事実、嬉しくて微笑み返すように口をいっぱいに開けて。これ以上なく高く甘く、鳴き返したのである。
自分も仲間に入れてくれるのが嬉しかった。
家族であると認めてくれるのが嬉しかった。
長生きして、見届けてもらいたい。そう、願ってくれるのが。何よりも嬉しかったのである。
――承知しました。
そう、この時確かに小さな胸に――魂に、刻んだのだ。
そうして。
その誓いと約束があるからこそ。こうして『わたし』は――『あたし』と共にあるのであった。
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