6.廻天
遠くから、名を呼ぶ声が聞こえる。
――もう、放っておいてくれ。
どこか切羽詰まった響きには、気づいていた。けれど、このまま沈んでいたい。
むしろ、消えたかった。
二人が幸せな結末を迎えたことはない。それでも、共に過ごした時間がなかったことになればいいとは、思えなかった。
けれど槐に憎まれていたのなら――それほど苦しめていたのだとしたら。
ああ、と苦い笑いが込みあがってくる。
そういや月龍にも、出会わなければよかったと言われたっけ。
――なんだ。初めからじゃねぇか。
だとしたらやはり、一緒にいるべきではない。
覚醒した以上、月龍はここに在り続けるだろう。
ならば消えるのは、自分だ。
消失が叶わないのならば、せめて意識を奥深くに沈めなければ。
もっと深く、誰の声も届かない深淵に――
――助けて、烈くん……!
「――っ!?」
胡桃の悲鳴が、弾けた。
何事かと思う間もなかった。奥底に沈もうとしていたのに、強引に引き上げられる。
強力な浮力は、水底から一気に浮上させられたような圧を、全身にかけていた。
否、圧力は無理やり引きずり出されたせいばかりではない。体を絞めつけるのは、呪力だった。
(おい胡桃! 少しは状況を――)
説明しやがれ。
続ける前に、胡桃が中でぐったりと意識を失っているのに気づいた。
失神する直前、精神力を振り絞って烈牙を引き上げた、ということだろうが――
一体、なにがあった?
目線だけで振り返ると、悠哉が蹲っている。傍らには克海が倒れていて、そして――
「月龍」
目前で、半ば透けた姿の男の姿を見る。
克海が月龍ではなかったのか。なぜ、別個に存在している?
わからないことばかりで、混乱は否めなかった。
ただ、身に感じる力は不動明王のもの。月龍の腕を掴んでいるから、逃がすまいと慌てて術を使ったのだろうとは推測できた。
ったく、無謀なことしやがって。
気を失った胡桃には聞こえないと知りつつ、毒づく。
「――烈牙、か?」
「おう。なに驚いてんだ。呼んだのはお前じゃねぇか」
胡桃の中、目覚めぬ眠りにつきたがっていた烈牙を、遠くから必死で呼ぶ叫び声は悠哉のものだった。
本当は応じるつもりもなかったのに、自らの意思で赴いたように言う。
とりあえず、全力で降り注いでくる不動明王の力は、莫大だった。このまま注がれ続ければ、烈牙も耐えられなくなる。
月龍が逃げられない、ギリギリを狙って力を抑えた。これでも、時間が長くなればつらいだろう。じわりと浮いてくる汗が、肌を濡らす。
「烈――ああ、本当に烈か?」
術で縛られなければ逃げようとしていたのではないか。なのに月龍は、嬉しそうに声を上げる。
烈牙が沈む前、あれだけ罵り合ったのに。
「だから、おう、って言ってんだろ。なんだお前ら、そんなにおれが好きかよ」
月龍と顔を合わせたくなかった。話もしたくない。これ以上傷つけられるのも、傷つけるのも嫌だった。
本当は、今すぐにでも逃げ出したい。けれど力を制御しているのが烈牙である以上、それは許されなかった。
ならばと、軽口を叩く。昔から、虚勢を張るのだけは得意だった。
(――うん……っ!)
中で目を覚ましたのか。まだ弱々しさは残るものの、胡桃の声が聞こえる。
精神がごりごりに削られた状態だ。下手をすれば一昼夜、意識を失っていてもおかしくはない。
さすがだなという感心に、安堵も混じる。
(よかった、また会えた……烈くん烈くん烈くーんっ!)
(ああもううるせぇ! じゃれついてくる犬かお前は)
上がった歓声は、生身であれば飛びついてくる勢いのものだった。
もう二度と現れるつもりはなかったといえば、どんな顔をするだろう。ちくりと、罪悪感が胸を刺す。
同時に、強制的に引きずり出したのはお前じゃないか、自覚もないのかと苦笑もにじんだ。
「ま、ふざけてる場合じゃなさそうだな。なんだ? おれに話か」
月龍から向けられるのは、槐を思い出す真っ直ぐな眼差しだった。見ていられなくて、ハッと短く笑って吐き捨てる。
「つーかお前、克海じゃなかったのか」
そらした目を、頭を振りながら体を起こす克海へと向ける。
術を抑えたことで、圧力が弱まったからか。見れば、悠哉も立ち上がるところだった。
ただ、力に囚われた月龍と、行使している烈牙は別だった。負担はわずかに軽減したが、こうしている今も、継続して体力も精神も削られている。
肌を湿らせていた汗は、とうとう珠になってポタリと落ちた。
「もういい、烈。術を解け。おれは逃げない」
「どうだかな。蓮の前から何度も逃げたヤツの台詞じゃ、信じらんねぇよ」
「なっ、お前だって……」
「そうだ。おれも槐から逃げようとした。さっきも……消えるつもりだったしな」
ひゅっと、息を吸い込む音が聞こえた気がする。
透けた体、宙に浮いた脚、弱まった金縛呪にすら囚われた現状――胡桃の記憶を読むまでもない。
月龍は、霊だ。
なのに、反応は蓮の記憶にある、生きた頃と同じだった。
「そんな顔すんじゃねぇよ、バカ」
蓮が口を開くと、いつも眉を歪める。怒っているのか悲しんでいるのかは判然としなかったけれど、負の感情が動いたことだけは、わかった。
不快にさせたことだけは。
月龍を捕まえていた手を、離す。術も解除した。
「――信じてやるよ。約束、破んじゃねぇぞ」
張っていた気を抜いた途端、全身の力も抜けた。膝から崩れ落ち、さらにとすんと尻餅をつく。烈牙であればもっと、重い音がしただろう。
――やっぱりこいつは、おれとは違うんだな。
今更ながらの感慨に襲われる。
「消えるつもりって、烈、お前――」
「その方がいいって、お前も言ってたじゃねぇか」
「――っ」
声にならぬ悲痛な叫びに、ああもうと喚く。
「責めてんじゃねぇよ。月龍がいるなら、おれが消える。ついでにこいつの記憶を読んで、その通りだって同意しただけの話」
(えっ、記憶を読むって、えっ、あたしの?)
今更なに言ってんだと思いはするも、そういえば本人には言ってなかったなと思い出す。
(覗けば全部、見えちまう。プライバシーの侵害待ったなし。やったな)
(なっ、もう、烈くんったら……!)
現代で聞いて憶えた言葉で軽口を飛ばすと、胡桃が叫ぶ。表にいればきっと、顔を真っ赤にしていたのだろう。
「おれがいたら消える……それほど嫌いか」
「ああ、大っ嫌いだな」
十分に傷ついた表情だった月龍の顔が、さらに泣きそうに歪んだ。
「勘違いしてんじゃねぇぞ。ホント、めんどくせぇ兄弟だな、お前ら」
すでに座った状態ではあったけれど、なおその姿勢を保つことも辛かった。思っていたよりもずっと、術が体力を削っていたらしい。両手を後ろの床について、顔を仰向ける。
「蓮が、じゃねぇ。おれがお前を嫌いなだけだ。――自分自身の、嫌なところ見せつけられてる気分でな」
「それは……」
「似てんだろ、おれたち」
惚れた相手を、傷つけた。
おそらく月龍も一緒だったはずだ。傷つけるつもりはなかったのに、気づけばいつも相手を泣かせていた。
自分への嫌悪を投影した形で、月龍が嫌いだった。
「逃げて悪かったよ」
もう、逃げない。
宣言と共に、目を上げる。口元も、ニヤリと笑みの形につり上げて見せた。
「肚を括った。きっちり、カタつけようや」
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