4.金縛呪
力が抜けた克海の体が、ドサリと重い音を立てて倒れる。
支えてやれる余裕は、なかった。床に片膝をついたまま、肩で息をする。
「悠哉」の身で術を使う危険性を考えなかったわけではないが、これ以外に方法を思いつかなかった。
思っていたよりもずっと、体力の消耗が激しい。気力で堪えていなければ、意識を失ってしまいそうだ。
「月、龍……?」
普段であれば、脂汗を滲ませる悠哉を心配しただろう。だがそれ以上の混乱が胡桃を襲っているのは、想像に難くない。
半分透けた体で宙に浮く月龍を見る目が、愕然と見開かれていた。
「今のは、憑いた鬼を人から剥がす呪だ」
胡桃だけではない。月龍も両手を広げて自分の体を見下ろし、または倒れた克海を見やっては、驚愕を顔に貼りつけていた。
やはり、自覚もなかったのか。
「これではっきりした。月龍、あなたは克海じゃない」
最初烈牙は、克海のことを「月龍と波長が似ている」と言っていた。悠哉が草薙であると一目で見抜いた烈牙なら、本来はすぐにわかりそうなものを、だ。
気づいたのは悠哉と同じ頃、克海の言動に月龍の感覚が混じり始めたときだった。
思い返してみれば、克海の態度はちぐはぐだった。
胡桃が一緒のときは嫉妬を見せていたが、悠哉と二人だけならむしろ、煽るようなことを言っていた。
浮かべた笑みには面白がる色が混じっていたが、嫉妬も皮肉もなかった気がする。
「あなたは、霊体なんだ。それで波長の似た克海を見つけた。自覚のないまま憑りつく形になって、感情に影響を与えた」
おそらく、元々は胡桃に憑いているのだろう。
だから胡桃といれば波長の近い克海に引き寄せられ、離れれば元の胡桃について行く。
霊体であるからこそ、術の発動とは関係なく呪力を纏っていた。振り払っただけで悠哉を吹き飛ばした膂力も、一種の「悪魔憑き」だったからだ。
「おれ、は――……」
呟く月龍の声は、まるで生身で発せられたかのようだった。
浮かんだ困惑の表情、口元を押さえる仕草、生きているときと同じだった。
ちらりと悠哉を見た目に滲んだ光は、不安を訴えるものだったのか。
唯一、事態を理解しているらしき者へ、すがる気持ちもあったのかもしれない。
だがそれが悠哉――蒼龍ならば、信じられない。
一瞬の瞳の動きで、感情が読めたのは双子故だろうか。
すぅっと、月龍の体が浮き上がる。
「胡桃ちゃん、金縛法を!」
逃がすわけにはいかない。咄嗟に叫ぶ。
霊体としてでも、胡桃の元に留まってくれればまだ、好機はあった。
けれどそのままどこかへ行ってしまったら、解決の糸口を失ってしまう。
せっかく、拗れた関係を修復できるかもしれないイレギュラーが起こったのだ。
「えっ、でも……」
躊躇うのは、理解できた。
学びはしたが、術を実際に使ったことはない。しかも指定した、不動明王の金縛呪は、威力が大きすぎるのだ。
ただし存在を縛ることに関して、右に出る術はないほどに優れている。
本来なら、悠哉がやるべきだった。けれど、草薙であれば難なく行使できる術でも、体力を使い果たした今の悠哉には、無理だ。
しかも、潜在能力も彼女の方が上だった。頼る以外に、道はない。
――胡桃には、関係のない話かもしれないけれど。
「……わかりました」
あなたがそう言うのなら。
信頼の見える反応に、罪悪感が疼く。
「オンカラカラ・ラビシクソワカ――……」
素早く五大明王の名を呟き、次いで真言を唱え始める。伴って手印を結び始める動作は、まったく淀みないものだった。
さすがだな。
感心している場合ではないけれど、思う。
才能ない者は、学んでも中々頭に入らない。まして、中途半端でも術が発動する恐れがあるからと、実際に手印を結ぶのも真言を口に出すのも禁じていた。
暗記は苦手と言っていた胡桃が、初めてにもかかわらずこうもスムーズに行えるのは、やはり血筋のせいだろうか。
烈牙には、なかった才能だ。
「――皆・陳・列・在・前!」
変化は、ただちに表れた。胡桃の体を包む強い霊気が、立ち上るほの紅い光として見える。
響き渡るのは、幾重にも重なった悲鳴。
月龍だけではない。不動明王の力は、具現しただけで周囲全ての存在を縛る。
月龍や烈牙の力に引き寄せられ、ただ近くにいただけの無関係な霊たちをも巻き込んで、苦鳴の合唱となったのだ。
カッと開いた胡桃の目が、怪しげに赤く輝く。
難しい術を初めてで成功させた能力はやはり、並外れたものだ。
苦しげな表情ながら、一歩、また一歩と月龍へと近づく。文字通り、金縛りにあった月龍を捕まえるのは、容易かった。
だが、そこまでだった。
話をするつもりだったのか、口を開きかけた胡桃の動きが止まる。
――表情が、消えた。
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