3.呪力
「待て。――待ってくれ。どういうことだ。烈が、十五で……死んだ?」
口元を押さえ、半ば俯いた月龍の瞳が左右に揺れていた。動揺を顕わにする様子に、そうか、と気付く。
槐が先に死んだから、月龍は烈牙の最期を知らないのだ。
「
織姫は、烈牙にとって主の奥方で、初恋の人だった。織姫もまた、立場上表に出すことはできなかったが、烈牙を想っていたのは間違いない。
槐が命を落とした時、主上は既に他界していた。織姫と烈牙を妨げるものは、なくなっていた。
槐らしい、と思う。
自分が死んだ後、他の女と一緒でもいい、烈牙に幸せをと願ったのだろう。
もしかしたら、知らない方がいいのかもしれない。おそらく、槐には衝撃が強すぎる。
――だが、「月龍」は知った方がいい。
「烈は――」
「黙れ」
口にしかけた説明は、短いひとことに遮られた。
「お前には聞かない。聞いても、信じることはできない」
どれだけお前の嘘に振り回されたことか。言外の責めに、反論はできなかった。
「烈を出してくれ」
悠哉に対するよりは、多少語気が柔らかい。とはいえ低い声には、充分に威圧的な重みがあった。
ぴくりと、胡桃の指先が震えた。
怖いのだろう。月龍ほどではなくとも、克海も体格はいい。大柄な男が剣呑な表情でにじり寄ってくれば、逃げ腰になるのも無理はなかった。
「――逃げるのか」
一歩、足を踏み出した月龍の声が、さらに低くなる。
「おれが、怖いか」
また、普通に話すことさえできないのか。
「蓮も、烈も――君も」
ならば、仕方がない。
吐き捨てられた声には、狂気の片鱗が見えた。
歩みを止めないままに、胸の前で指を組み合わせる。
「オンソンバニソンバ・バサラウンバッタ、オンソンバニ――……」
口の中で小さく呟かれたのは、降三世明王の呪句。力で抑えなければ従わないモノを調伏するときの術だ。
奥に沈みこんだ烈牙に圧力をかけ、言うことを聞かせる――否、胡桃に苦痛を与えることで、表に引きずり出すつもりだろうか。
いずれにせよ、冗談ではない。
同じ忍びの里で育った仲間だ。呪も体術も修めた槐が、真言を唱えられるのはわかる。口ぶりから、槐の記憶が月龍にあることもわかっていた。
烈牙の例を見れば、克海よりも腕力が増していることも予測できる。
槐の知識で呪を操る、月龍の腕節を持つ男など、厄介にもほどがあった。
しかも狂気の欠片を纏っているともなれば、尚更だ。
「待ってくれ、月――」
ともかく術を完成せるわけにはいかない。
距離を取らせるため、後ろ手に胡桃を側方に軽く突き飛ばし、月龍へと向き合った。
「――っ!?」
手印を止めようと、腕に掴みかかる。
瞬間、奇妙な感覚が駆け抜けた。ぴりりと痺れたような、肌の表面を炎に撫でられたような、刺激。
それでも、弾かれそうになった手に力を込めて、月龍の手首を掴み――
彼はその手を、払っただけのはずだ。
なのに気がつくと、悠哉の体は壁際まで吹き飛ばされていた。
異常だった。
先ほどのはただの腕力ではなかった。まだ術は完成していなかったのに、確かに呪力を感じた。
「悠哉さん……っ」
「大丈夫」
壁に打ちつけられ、倒れ込む悠哉の元に、胡桃が駆け寄ってくる。悲鳴にも似た声と、泣き出しそうな顔が、心配を物語っていた。
「――昔にも見た場面だ」
目を細め、口の端をつり上げた、笑顔にも見える表情だった。けれど瞳の奥、暗い憤りが蠢いている。
覚えがあった。
蓮の同情を買って気を引こうと、あえて煽って殴らせたことがある。蓮の目に、月龍が悪者に移るよう仕向けた。
ああ、本当に月龍なんだな。
共有する記憶に、痛みを覚える。
同時に、強い違和感もあった。酷く憎み合ったけれど、最後には和解できたはずだ。
なのに目前の月龍からは、蒼龍への嫌悪しか感じられない。
――否。
疑問はそれだけではない。止めることはできたが、あのままであればきっと、術は発動していた。克海の身体にもかかわらず、だ。
槐には能力があった。月龍にもおそらく、素養があった。
けれど克海からはまったく、「力」は感じられない。
逆に、蓮や烈牙は物の怪に好かれやすい体質でありながら、「力」はなかった。なのに、胡桃にはある。
浮かんだのは、ひとつの可能性だった。
そう考えると、すべての辻褄が合う。パズルのピースが、ぴたりとはまる。
ならば、打開するにはこの方法しかない。
「――また、その目だ」
悠哉にすがる姿勢になっていた胡桃を、見下ろす。愛憎入り混じった、複雑な声と表情だった。
「乱暴したいわけではない。なのにそうやって怯えるから――逃げるから、力を振るうしかなくなる」
暴力を振るわせるのは、お前だ。
蓮を責めるときに使っていた論理は、自分への言い訳だったのかもしれない。
屈みこんだ胡桃の肩に、手をかける。蓮にしたのと同じように彼女を殴るのか、あるいは術で内に眠る烈牙を引きずり出すつもりか。
させるわけには、いかない。
「――急叱律令叱動心!」
注意が悠哉から逸れていたのが幸いした。素早く「力ある言葉」を紡ぎ、月龍の肩に向けて右手を翳す。
淡く輝く光が克海の身体を包み込み――
そして。
ひとつの影が抜け出したのが、見えた。
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