第九章
1.嫌い
今日、何度目のため息だろう。
内容など頭に入ってこないのに、胡桃から預かった術書を眺めながら、息を吐く。
烈牙に誘われたときから、克海に行かせるつもりだった。
今の時代では年の差があり、それでなくとも蒼龍である自分が胡桃がどうにかなることを考えるなど、おこがましい。
ただ言い訳が言い訳なだけに、事前に話を通すわけにはいかなかった。直前だから、都合が悪い可能性もある。
もし無理ならば自分が行くしかない、とは思っていた。
じゃあ、急いで行ってくる。
そう返事をされたときのため息は、安堵のためか残念だったのか、自分でも判別は難しかった。
常識的に考えれば、高校生同士、胡桃と似合うのは克海だ。
加えて、月龍と蓮、前世からの因縁もあるのだから、当然結ばれるべき運命なのだろう。
――そうなってほしいと、思っているはずだった。
また洩れかけたため息を、紅茶と一緒に飲み下す。
初めて会った日、いたく烈牙が気に入ったベリーティーだ。あれ以来、コーヒーの頻度は減って、紅茶が増えた。
甘党の烈牙が、当時はなかったケーキを喜んで頬張る姿を思い出し、微笑ましいような、ほろ苦いような気分になる。
ああ、ダメだな。
思わず浮いてきた自嘲に、苦笑が洩れる。気分を変えたいと、コーヒーを淹れるために立ち上がった。
チャイムが鳴ったのは、そのときだった。
まだ十四時過ぎだ。高校生が遊びに出かけ、帰ってくるには早すぎる。
とはいえ、他の誰かが訪ねてくる予定はない。
「――はい」
モニター越しに胡桃の姿を認めて、短く返事をする。
一瞬、居留守も考えたけれど、思い直したのは彼女に合鍵を渡しているからだ。無視したところで、自由な出入りを許可しているのだから、むしろ応答がない方が部屋に来る可能性は高い。
「よかった、行っていいですか?」
モニター越しでもわかるほど不安げだった顔が、安堵を浮かべた。
まだ来客中だからと断ろうか。そう思っていたのに、このような表情をされては否とは言えない。
どうぞと応えるのと同時、ピッ、と操作音が響く。
すごく久しぶりに会う気分だったが、たかが一週間だった。
なのに、胡桃が上がってくるまでのほんの数分が、やけに長く感じられる。――心臓が、高鳴っている。
「悠哉さんっ!」
「えっ、ちょっ……」
一週間ぶりに見る顔に、懐かしさや喜びを覚える間もなかった。入ってくるなり飛びついてきた胡桃に、絶句する。
洩れた声は、言葉と呼べるものではなかった。戸惑いのままに引き離そうと肩に手をかけて、小刻みに震えているのに気づく。
怖いことがあって、縋りついてきた――そうだとわかれば、冷静さを取り戻すこともできる。
もっとも、触れた体温に心が騒ぐのは仕方なかったけれど。
「なにかあったの?」
ぽんぽんと、軽く叩くように背中を撫でてやる。間違っても、抱きしめてはいけない。
「草野くんが、月龍だったんです」
返答に、驚きはない。知ってしまったかと思いはするも、いつまでも隠し通せるものではないと覚悟もしていた。
ただ、どうやって知ったのか経緯は気にかかる。
「克海が、思い出したの?」
「草野くんが覚えてるのか……思い出したのかはわかりません。ただ――」
なにかを続けかけた胡桃が、ぴたりと止まる。
悠哉の耳にも、慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。
ハッと顔を上げると、玄関のドアが開かれるのと、ほぼ同時だった。
「――あっ……」
克海と悠哉、目が合った二人が洩らしたのは、ある種間の抜けた声だった。
考えてみれば、至極当然の流れではあった。
胡桃は明らかに常とは違う様子で、おそらくは逃げてきたのだろうと推測できた。
ならば克海が追ってくるのも、必然である。
もし胡桃が訪ねてきていなかったとしても、なにか問題があったときに彼が頼るのはまず、悠哉なのだから。
「えっ、胡桃ちゃん……?」
急に身を翻し、背中に隠れる胡桃に、戸惑いを隠せなかった。
なにがあればこれほど怯えるというのか。克海が、女の子を怖がらせることをするはずが――
考えかけて、ふと、後ろから回され、腹部辺りを掴む胡桃の手に気づく。その両手首に残る、赤い帯状の痕に。
――これは、掴まれた痕か?
あの克海が、乱暴を――?
悠哉のシャツを掴んだまま、小さく後退っている。じりじりと後退する胡桃に半ば引きずられ、悠哉も下がる。
距離をつめるように克海が足を踏み出した、その瞬間、ぞわりと首筋に寒気が走った。
「――またか」
発せられた低い囁きには、どこかごりっと濁ったものが混じっていた。
克海の声だけれど、違う声音。
胡桃に引きずられるばかりではなく、自分の意思で足が下がった。
「月龍――?」
「またお前が、邪魔をするのか」
――最悪だ。
背中を、冷たい汗が伝うのを感じていた。
克海が記憶を取り戻すどころではない。烈牙と同様、別人格として存在を確立してしまうとは。
月龍は危険だ。彼の人間性を否定するわけではないけれど、警戒はせざるを得ない。
粗野な言動とは裏腹に、烈牙は理知的だった。
感情に流されることはあっても、最終的には我を捨てることができる。相手の幸せのためにと、身を引くことができる。
実際、胡桃は自分の転生した姿ではあっても、自分自身ではないことを即座に受け入れた。胡桃なりの幸せをと、最初から言っていた。
けれど、月龍はどうだ?
答えはおそらく、否、だ。「またお前が」とは、蒼龍と悠哉を混合しているからこその台詞だった。
「――悠哉さん……」
シャツを掴む手に、力が入る。名を呼んでくる心細そうな声に、胸が絞めつけられた。
手を重ねて、大丈夫と言ってあげたい。なだめてあげたいけれど、月龍の前で行うのは、愚かだった。それでなくとも、仲を誤解しているというのに。
彼女とはなんでもない、あなたとうまくいくように願っている。
そう言わなければならないはずだった。幾代にも渡って拗れてしまった関係を修復する、チャンスなのだから。
なのに、口が開けない。
克海にならば任せられる。けれど月龍は――月龍としての過去、記憶に囚われた男は、駄目だ。
「――烈と、代わって」
距離を開けようと下がる二人、近づこうと歩みを進める月龍。
じわりとした鬼ごっこは、気づけばリビングにまで及んでいた。後退のままソファにぶつかって、足が止まる。
追いつめられたからだけではなく、胡桃にこれ以上怖い思いはさせたくなかった。悠哉でさえ恐怖を覚えるこの状況から、遠ざけたかった。
「ダメなんです。呼びかけても、返答がなくて……!」
「あいつは、逃げた」
胡桃が上げた半泣きの声に応えたのは、月龍だった。
ニヤリと唇の端が吊り上がった笑みに、狂気の色が見え隠れしている。
「その子を置いて、な」
酷い男だ。
続けられた言葉には、けれど、嘲りよりも悲しげな響きがあった。
「――どっちが?」
烈牙が胡桃をひとりにして逃げるとは、考えにくい。だがここに駆け込んできたのは胡桃だった。
手首に痕がつくほどに強く掴まれて逃げ出してきたのだとすれば、烈牙が護ろうとするのが筋のはずなのに。
なにがあったのかわからず、混乱する悠哉の代わりに口を開いたのは、胡桃だった。
「あなたが、烈くんを傷つけた。烈くん、泣いてた。涙が、残ってた。どっちが酷いの」
珍しく荒げた語気は、それでも震えていた。
「――烈くん、あなたのこと嫌ってた。蒼龍の方がよかったって。でもあたしは、そうは思ってなかった。蓮ちゃんは、あなたの優しい顔を覚えてる。笑いかけてくれて、嬉しかったことも。だから、信じたかった」
半身で振り返ると、悠哉の背にしがみついたままながら顔を上げた、胡桃の表情が見えた。
眉根を寄せた、悲しそうな瞳が。
「どうして――こんなに、嫌いにさせるの?」
ぽろりと頬を伝った涙は、美しくはあっても残酷だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます