6.決裂

 しっかりと抱きしめられて、戸惑わないはずがない。心臓がドキドキと強く脈打つ。

 ――とても、嫌な感覚で。


「草野くん、えっ、あのっ」

「もう、あの人のところには行ってほしくない」


 どうかしたの、と問うよりも、耳元で囁かれる方が先だった。

 あの人とは、悠哉のことだろう。それはわかるが意味がまったくわからなかった。


 悠哉を紹介してくれたのは克海だ。状況を考えても、適切だったと思う。おかげで烈牙と胡桃は交流できるようになり、環境もぐっとよくなった。

 とはいえ、問題がすべて解決したわけではない。多少対応はできるようになったが、未だ心霊現象に悩まされてはいた。


 現段階で烈牙の協力は必要不可欠だし、悠哉のサポートもまた、同じだった。


「あの人も、困っているのかもしれない。だから今日、代わりにおれを来させたのだと思う」

「あっ……」


 それは否定できない気がした。

 今日のデートは、烈牙が誘ったと言っていた。悠哉は烈牙に――正確には、蒼龍は蓮に、負い目がある。蓮である烈牙に誘われれば、無下にはできない。


 だから了承したけれど、本当は胡桃と出かけることが嫌だったのかもしれない。

 十分にありうることだ。 むしろ、今日の流れはその説明の方が、すんなり納得できる。


 ――理解できてしまっただけに、少し、ズキリと胸が痛んだ。


「烈のことも――本来なら彼は、ここに在るべき存在ではないはずだ」


 だから奥に下がったままだとしても気にするな、ということだろうか。

 それとも、そう理解したからこそ烈牙は自ら引きこもった、と。


 可能性はある。烈牙はいつも守ってやるよと言ってくれるが、それと同じくらい、おれに頼りきるのは駄目だ、とも言っていた。

 自分がここにいるのは自然なことじゃない、消える日が来るのはわかりきっているのだから、自分で対処できるようになれ、と。


 いつか、守ってやれなくなるのだからと。


 その「いつか」がやってきたのだろうか。もっと先だと考えていたのは、甘すぎたのか。

 それにしても唐突すぎる。


 現実問題として、まだ一人では対応しきれていない。なにか突発的なことがない限り、過保護気味な烈牙が、ひとこともなく離れるとは思えなかった。


 ――突発的なこと。


 思考の中に出てきた単語に、ハッとする。


「でも……確かに不自然かもしれないけど、烈くんはここにいるもの」


 やんわりと、克海の胸を押し返す。

 抵抗はなかった。力尽くで抱きすくめられることはなく、弱い力に応じて、ゆっくりと身を離してくれる。

 克海を見上げた。こうやって間近で見ると、やはり長身だ。長時間見上げていたらきっと、首が痛くなる。


 ――けれど、「彼」との身長差はもっとあった。


「あなた――月龍さん?」

「――っ!」


 怪訝を刻みながらも、どこか不安そうな表情でこちらを見下ろしていた顔色が、変わった。

 その反応が、事実であることの証明だった。


 烈牙と悠哉は前から気づいていたのだろう。胡桃に聞かせないように二人で話していたのは、きっとそのせいだ。

 胡桃と克海が、前世の因縁のせいでお互いを変に意識しないよう、配慮してくれたのだろう。


 だが、克海が思い出してしまった。


 もしかしたら、克海に自覚はないのかもしれない。胡桃が蓮や烈牙の記憶がないのと同じ――胡桃の中に烈牙が生まれたのと同様、克海にも月龍が人格の形で現れたのではないか。


 喧嘩になったとしても、克海ならば押さえつけたりしない。腕力に訴えたのは、月龍だったからだ。

 烈牙が泣くほど、酷い言葉を投げつけたのも――


「いつから?」


 ズキズキと痛む胸を押さえたのは、無意識だった。


「今日、朝に会ったときから? それとも、もっと前から?」


 騙されていた、などと被害者ぶるつもりはない。烈牙も最初は、自身の存在を隠していた。

 もっともその頃の克海と違い、今の胡桃には別人格の存在を受け入れられる土壌がある。本来なら、隠す必要はない。


 やましいことがないのであれば。


「違う」


 悲しいのか、怒っているのか。自分でもわからないけれど、胸の中がもやもやとする。


「この数日、ここにいる自分を時折認識してはいた。だがはっきりと自我になったのは先程――あれに乗ったくらいだ」


 ――月龍であることを、認めた。


「そのような顔をしないでくれ」


 非難じみた表情でもしていたのか。眉を歪めて、顔を覗きこんでくる。


 覚えのある表情だった。

 夢の中で見た、悲しげになにかを訴えてくるときの、月龍の顔。

 姿形は克海なのに、完全に月龍と重なって見えた。


「どうして、草野くんのふりで抱きしめたりしたんですか」

「騙すつもりはなかった。驚かせたくなかった――ただ、蓮だと思えばたまらず……」


 蓮だから。烈牙だから。

 求められる理由がそれだけなら、虚しい。

 一抹の切なさを覚えた瞬間、「それ」に気づいた。


「月龍さん、あなた――烈くんになにを言ったの」

「――別段、なにも。本当のことだ」

「本当のこと?」

「槐には、おれの記憶があったと」


 やはり、と思わざるを得なかった。一気に集中した熱に、目の奥が痛む。


「――ひどい」


 俯いた目から落ちた涙が、地面にぽたりと染みを作った。


「胡桃?」


 心配げに名前を呼ぶ声は、優しげだった。

 だがこの声が、烈牙を傷つけたのだ。

 目元を乱暴に拭うと、くるりと踵を返した。


 これ以上、話したくない。嫌いになる前に、離れたかった。


「待ってくれ、どうして急に――」


 鈍いはずの胡桃が、伸びてきた手に気づいて身をかわすことができたのは、ずっと烈牙が一緒だった影響か。

 いきなり去ろうとした相手を引き留めようと思えば、腕を掴むのは自然な行動だ。

 なのに、「月龍だから力にモノを言わせるつもりだ」と考えたのは、偏見だったのかもしれない。

 半ば振り返る仕草の反動で、彼の手を払った格好になる。

 驚きの目を向けてくる月龍を、一瞬だけ睨み、すぐに反転して駆け出した。



 我に返ったのは、走り去っていく胡桃の後姿がかなり小さくなってからだった。

 胸の前、中途半端に差し出す形になった左手が、軽く痺れている。


 なにが起こったのか、理解できなかった。


 覚えているのは、観覧車を見つけたときだ。一緒に乗ろうと提案した記憶はある。

 だが、その後はまったく覚えていない。


 思い返してみれば今日は時々、おかしかった。

 そろそろ疲れたんじゃないか、座るときに椅子を引いてあげようとか、やけに自然とエスコートできた。


 なにより、声が聞こえたのだ。観覧車に乗るのを少し渋った胡桃を前に、「好機だ」と囁く男の声を。

 記憶が途切れたのは、それがきっかけだった気がする。


 似た現象には、嫌でも思い到った。


「もしかして、おれも……?」


 だとすれば、どうすればいいのか。

 このようなとき頼るべき相手は、ひとりだけだった。

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