5.抱擁
「――烈……?」
聞こえたのは、心配げに自分を呼ぶ声だった。
本来は自分の名前ではない。けれど、自分が呼ばれたのだと即座に認識できるほどに、烈牙の名は胡桃になじんでいた。
「痛……っ」
突然意識が浮上して、状況がまったくわからない。
真っ先に感じたのは、手首の痛みだった。なにごとかと目を向けた先で、大きな手が自分の手首を掴み、押さえつけているのを見る。
その手の主、克海の顔がすぐ目の前にあった。
「草野、くん……?」
愕然とした彼の顔を見た瞬間、状況のせいもあるのだろうか、ゾクリと背中が寒くなった。
「すまない」
慌てた動作で、克海が離れる。
彼が向こう側の席に座るのと、半ばずり落ちるようになっていた胡桃が姿勢を正すのと、ほぼ同時だった。
目を落とすと、手首が真っ赤になっているのが見える。よほど強い力で掴まれたのでなければ、これほどはっきりと痕は残らないだろう。
克海を――男を怖いと思ったのは、これが初めてだった。
「痛む……?」
無意識のうちに手首を撫でていたからか、心配そうに尋ねてくる。
「少し――でも、どうしてあんなことに?」
覚えているのは、高所を怖がる胡桃と烈牙が代わってくれたところまでだった。
表の状況がわからなくなるのは、珍しいことではない。胡桃が知らなくてもいい、もしくは知らない方がいいと思われる話を、烈牙は意図的に隠す。
胡桃に関わりがあってもなくても、彼がそう判断したときには必ずだ。
だが、今回は今までとは違う。
怖がる胡桃に、表を見えないようにした。これはわかる。
また、胡桃に知らせたくない話があったのだとしたら、この機会に協力者たる克海と話したのかもしれない。これもわかる。
わからないのはなぜ、克海が烈牙を押さえつけていたのか、だ。
「――烈と、喧嘩して」
言いよどんだ挙句、返ってきたのは歯切れの悪い言葉だった。
意見が合わず、喧嘩になることはあるかもしれない。
それでも、暴力に走るものだろうか。あの温厚な克海が、烈牙に――胡桃の体に痛みが残るほどに。
「烈は、どうしてる……?」
罪悪感なのだろうか。大きな体を少し丸め、不安そうな上目遣いで問うてくる。
喧嘩の相手がどうしているか、様子を知りたく思うのは自然だった。仲直りの手助けなら、したい。
(烈くーん)
胸の内で、呼びかけてみる。
烈牙のことだ、なんでもないぜ気にすんなと、いつもの調子で返事があるのを疑っていなかったのだけれど。
声が、しない。
返事がないばかりか、気配がいつもと違った。
そこにいるのは、わかる。だが胡桃の呼びかけに、まったく反応がない。
まるで、殻に閉じこもっているかのようだ。
「わかんない。どうしたんだろ、なんか、奥深くにいるみたいな……」
不安になって、頬に手を当てる。その指先が、濡れた。
「――えっ……」
これは、涙か。驚いて、自分の手を見る。
あの、烈牙が泣いたのか。
胡桃は、生きている頃の烈牙を知らない。蓮や蒼龍、草薙、槐のことなどは話して聞かせてくれるが、烈牙自身のことは語ろうとしなかった。
だから今の烈牙しか知らない。その印象から言うと、彼はとても強い人だった。
物言いは乱暴だけれど、胡桃を気遣う、男らしい優しさがあるのを知っている。
そうだ。烈牙はいつも、胡桃を守ろうとしてくれていた。
その彼が、喧嘩の最中に――押さえつけられ、逃れられない状況に胡桃を置いたまま内に下がること、そのものが異常だった。
(どうしたの、ねぇ……烈くん!)
呼びかけに、やはり反応がない。心を閉ざしてしまっているのか、聞こえている様子もなかった。
「どうしよう。全然反応ない。悠哉さんに」
相談を、といいかけた胡桃を遮ったのは、克海の行動だった。
目の前に、すっと手が差し伸べられる。
え、と目を上げた先で、立ち上がった克海が困ったような顔で笑っていた。
「もう、下に着く」
言われて窓の外を見ると、ひとつ前の車に乗っている人達が降りているところだった。
そんなに時間が経っていたのかと思うのと同時、少しだけホッとする。烈牙のおかげで、怖い思いは最初の数分ですんだ。
その烈牙の様子がおかしいのだ。心配せずにはいられない。
手を引かれて観覧車を降り、そのまま手を繋いで歩きながら話しかける。
「悠哉さん、用事が何時頃に終わる、とか言ってなかった?」
もう昼過ぎだ。用事も、終わっているかもしれない。
烈牙のことで相談できるのは、悠哉しかいなかった。今からすぐにでも、会いたい。
「聞いてない。けど――」
克海が足を止める。手を繋いでいるから、自然と胡桃の足も止まった。
なんだろう、と目を上げるのと、腕を引っ張られるのとが、ほとんど一緒だった。
目の前に、克海の胸が迫る。
えっ、と思ったときには背中に腕が回され、しっかりと抱きしめられていた。
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