4.涙

 痛みに、顔が歪む。

 抵抗すればするほど、月龍は力を入れてくるだろう。

 烈牙が苦痛を覚えるだけではない。元に戻ったとき、胡桃にもそれが残るかもしれなかった。


 そもそも胡桃の身体が耐えられない。現に今でさえ、押さえつけられた手首が悲鳴を上げている。

 これ以上の力で圧迫されれば、胡桃の細い骨は折れてしまうのではないか。


 ちょうど膝の上に乗る形で体重をかけられ、足の動きも封じられている。蹴り上げることもできず、ただわずかに身動ぎすることしかできなかった。

 圧倒的な優位に、細められた月龍の目が、残忍に光る。

 深い湖の底を覗きこんだときのような、引きこまれそうな感覚に背中が寒くなった。


「――で? これからどうする気だ」


 抗いようのない腕力に屈する、恐怖。

 自身では経験のないことだったが、散々この想いを味合わせられた蓮の記憶が、実感を伴って思い出される。


 蓮はその恐怖に耐えきれず、泣いた。それすら通り越し、終いには涙すら出てこなくなった。

 心が死んでしまった蓮に、月龍はなにをしたのか。


 ――同じ男だからこそ、許せない。


「殴るか? それとも犯すか。蓮にやっていたように」


 強い力で押さえつけられ、すぐ間近で見上げる男の顔が、これほどまでに怖いとは知らなかった。

 恐怖心に飲みこまれてしまわないように、一度は消した虚勢を張る。

 だが、口の端をつり上げた表情は、笑みよりも泣き顔に近いのではないか。


「頭いいよなぁ、お前。死なねぇ割に心身に与える打撃はデカい。弱らせ、気力や判断力を奪っていうことを聞かせるには、うってつけだもんな」

「――黙れ」

「ああ、でももう、それほどの時間はねぇな? 頂上は過ぎた。さすがに無理か。いくらてめぇが早くても……っ」


 暴言に他ならないことは、自覚していた。

 それでも、悪態をつくのをやめられなかった。月龍を怒らせることを承知で――だからこそあえて、だろうか。


 だが、言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。押さえつけられた手首が、痛む。

 ただ押さえつけるだけではない。おそらく、痛みを与えようとして、力を加えたのだ。


「――望み通り、その口をふさいでやろうか」


 唇に――むしろ喉元に噛みつかんばかりの近さと、威圧感だった。


 ――ああ、これだ。


 月龍はいつもこうやって、力と言葉で脅しをかける。

 その度に蓮が覚えた恐れと絶望感は、これだった。


 怖い、悲しい――憎い。

 なのに、嫌いになれない。


「なんで――お前なんだ」


 ぽつりと、恨み言が洩れる。


「亮殿下がいた。蒼龍だっていた。なのになんで、蓮はお前じゃないと駄目だったんだ……?」


 外戚の姫だった蓮は、望みさえすれば他のどんな男の元にでも嫁ぐことができたはずだ。

 なのになぜ、よりにもよって自分を最も不幸せにする男を選んだのか。


 逆もまた、言える。

 身分のある女は、他にもいた。公主ほどではないにせよ、出世の足掛かりにできれば、問題はないはずだった。


 月龍は見目もよく、優秀でもあった。女からの受けもよく、引く手あまただった。なのになぜか、蓮に執着した。

 惚れてくれるそこそこの身分の女と一緒になっていれば、あの惨劇にはならなかったのに。


 互いに、もっとも選んではならない相手だったのではないか。


「――なんでお前も、蓮だった? なんで――……」


 月龍と、蓮の話だ。

 なのに目前にある克海の顔に月龍が重なり、さらにはその奥に、槐の面影が見えた。


「なんで、槐はおれだった……?」


 槐は徹頭徹尾、烈牙を想い続けた。その一途さに応える形で、二人は結ばれた。


 ずっと、不思議だった。

 槐の周囲には草薙を始め、魅力的な男たちがいた。そんな中なぜ、あそこまで烈牙を想ってくれたのか。


 幸せにしてやれた自信はない。むしろ最後は――


「――なぜ、だと?」


 月龍が、うっすらと笑みを刻む。口元だけが吊り上がった、嘲笑に類するものだった。


「簡単な話だ。槐にはおれの――月龍の記憶があった」


 ハッと息を飲む。

 嘘だと思いたい。けれど、突っぱねられるだけの理由はなかった。

 まさかとやはりの間で、感情が揺れる。定まらぬ視界の中で、月龍の笑みが深くなったように見えた。


「お前の言う通り、おれは蓮に決して、優しくはなかった。だがそれをお前が言うのか? お前こそ、槐に乱暴したことがあるではないか」


 事実、だった。


 当時の烈牙は、完全に自信を喪失していた。そのようなとき、槐が草薙や烈牙の兄と親しげに接している姿を見てしまった。

 他の誰に見捨てられても、槐だけは傍にいてくれると思っていた。


 その槐が、離れて行ってしまう。

 焦燥感に我を見失い、抗う槐を力でねじ伏せて、無理に奪った。


 だからこそ、理解できないのだ。

 槐を傷つけたことを、死ぬまでずっと後悔していた。一度の過ちを悔い続けた烈牙から見て、日常的に繰り返し痛めつけた月龍の気持ちなど、到底わからなかった。


 けれどその記憶があったから――蓮に対し、非道を行った自覚があったから、烈牙がつれなく接しても待つことができた。想い続けることができた。


 烈牙が、蓮だったから。


「よくもおれを非難できたものだな。その手で槐を殺したくせに」


 吐き捨てられた言葉に、全身の力が抜けるのを感じた。

 否定したいのに、できない。この手に――胡桃の身体であるにもかかわらず、まだ残っているからだ。


 槐の身体に刃が入っていく感覚、血にまみれてぬめる、あの感触を。


「一途に尽くした男に、最後には斬られ――槐も浮かばれまいよ」


 見下ろす目、にやりと歪んだ口元、すべてに侮蔑が表れていた。

 ふざけるなと、激昂することはできなかった。

 月龍の言葉は、すとんと腑に落ちた。得心がいってしまった。


 ――ああ、槐はおれを恨んで死んでいったのか。


 目頭が、熱い。

 もうそれを、堪える気にもなれなかった。

 ただそっと、目を閉じる。

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