3.月龍

 なぜ、気づかなかった。

 背骨を、じわじわと嫌な感覚が這い上がってくる。暑くもないのに、妙な汗が肌の表面を覆っていた。


 顔も見たくないのに、目をそらすことができない。せめて気持ちで負けぬよう、丹田に力を入れて睨み返すだけで精一杯だった。


 ずっと、違和感はあったのだ。

 だがそれは、月龍の記憶が戻ったか、戻りかけているせいで、感情が揺さぶられているのだと考えていたのだ。


 まさかこんな、最悪の事態になっていようとは。


 気力を振り絞り、唇の片端をつり上げて見せる。


「久しぶりだな――月龍」


 名を口にするだけで、声が掠れる。心臓が痛いくらい、激しく高鳴っていた。


 なぜ、思い到らなかった。自分の身に起こったことが、相手の身にも起きる可能性を。


 克海が――月龍が、ゆっくりと目を細める。


「今更か。随分と鈍くなったものだな」


 鋭い目つきのまま、唇の端に皮肉をひらめかせる。

 ――嫌になるほど、覚えのある表情だった。


 烈牙の内にある蓮の感情が、怯えているのだろうか。心臓が凍りつき、身が竦むのを感じる。

 だからこそ、ハッと強く笑声を吐き捨てた。


「悪ぃな。克海だと思って、完全に油断してたぜ。――しっかし、うまく擬態したもんだな、え?」


 軽い語調を気取るのは、内心に抱えた恐怖心を悟られないためだった。


「確かにおかしなところはあったけどよ。まるっきり克海みたいだったぜ? 役者顔負けの――ってか、演技がうまいのは、今に始まったことじゃねぇか」


 月龍は不器用な男だった。愛嬌もなく、上官に対してうまく立ち回ることもできない。

 そんな男を評するのに、「演技がうまい」とはおかしな話だ。


 当人も疑問に思ったか、皮肉のためとはいえ吊り上げていた口の端を下げる。

 反比例するように、烈牙は思い切り笑みを刻んだ。

 額に浮いた汗と、頬がこわばっているのは自覚済みだった。


「だってよ、蓮はすっかり騙されてたぜ? 出会った頃の純朴そうな顔を――蓮に心底惚れていそうな態度をな。公主に取り入るための演技だと気づけてりゃ、あんなことにはならなかったのによ」

「――っ!」


 最後には、叫ぶように吐き捨てる。月龍の顔色が、変わった。


 本当に、わかりやすい男だ。


 不意にも覚えた懐かしさが、胸に痛い。表情はあまり変わらないのに、怒りの感情がすぐ、目に表れる。


「そういや、昔っからお前の常套手段だったか? わざと怖がらせてすがらせるってのは。だからわざわざ、こんな物に乗せたんだろ? 相も変わらず、姑息なこった」

「なっ……」

「おっと、図星さされて怒ったか?」


 思わず、といった風に腰を浮かした月龍を前に、身構える。


「認めろよ、月龍」


 自らを鼓舞するため、無理に刻んでいた笑みが消える。

 たったそれだけの虚勢でさえ、厳しくなっていた。


「その方が理解できる。最初から身分が目当てだったって……蓮のことなんざ、なんとも思ってなかったってな」

「なぜそう決めつける!? おれは――」

「こんなにも蓮を愛しているのに」


 言葉を継いだ形にはならなかった。予測して口にした台詞が、月龍ときれいに重なる。


「聞き飽きた台詞だな」


 蓮の記憶が、完全にあるわけではない烈牙でも容易に思い出せるほど、よくその台詞を吐いていた。

 きつく抱きしめながら、あるいは強く殴りながら、幾度も繰り返された言葉。


 絶望と恐怖が、蓮に口を閉じさせる。なぜ、と問うことが、どうしてもできなかった。


 ――けれど、今なら。


「じゃあ訊くけどよ。蓮を愛してるというなら、なぜ殴る? 惚れた女泣かせて、なにが楽しいんだ」

「お前こそえんじゅを――」

「ああそうだ、散々泣かせたさ。だからこそわかる。泣いてる姿を見るだけで、抉られてんじゃねーかってくらい胸が痛かった。わざわざ泣かせて喜ぶお前の気持ちが、どうしたって理解できねぇ。ハナから想いがなかったって言われた方が――」

「うるさい!」


 影が、動いた。

 そう思った時にはすでに、遅かった。


 観覧車の中など、ほんの半歩で向かいの相手にたどり着く。

 ハッと目を上げる間もなく、衝撃に襲われた。


「――お前に、なにがわかる」


 目の前に、月龍の顔があった。

 その瞳にも、声にも、克海ならばありえない凶悪な色が満ちている。


 ギリッと鳴ったのは、かみしめた奥歯か。

 その間から洩れた低い囁き声と――手首に走った、痛み。


 両手を後ろの窓に押さえつけられたのだと気づいた瞬間、恐怖より、悲しさより、無性に虚しさが沸き上がってきた。


「ハッ! またこれかよ」


 短く、笑声を吐き捨てる。


「都合が悪くなればすぐ、力ずくで黙らせる。腕力にモノを言わせて、言うことを聞かせる――あの頃と変わってねぇ。結局お前はその程度の――」

「黙れ、と言っている」


 地の底から聞こえるような、低い声。

 克海の声はもっと、耳に心地よく、爽やかに聞こえる。同じ声帯を使っていたとしても、話し方、声の出し方でこれほど印象が変わるのか。


「なんでおれが、てめぇの言うこと聞かなきゃならねぇんだよ。おれは蓮とは違う。力に屈服なんざ……!」


 しない。叫び返すと同時、跳ね飛ばすつもりだった。

 なのに、ビクともしない。


 状況が、理解できなかった。


 克海と烈牙であれば、間違いなく烈牙の方が強い。相手が月龍だったとしても、烈牙の膂力ならば張り合えるはずだった。


 こんな、押さえられた手をわずかに浮かせることもできないなど――


「なにを驚く」


 予想外の出来事に、狼狽が顔にも表れていたのだろう。月龍が、微かに目を細める。


「おそらく、おれとお前、元の腕力は拮抗している。ならば、あとはこの身体の差――克海とその子の差になる。だとしたらこの結果は、当然だろう?」


 ――完全に、烈牙の失敗だった。


 この、狭い密室に男と二人きりになることに、警戒を抱かなかったわけではない。だが克海が、胡桃を害するとは思えなかった。


 ひとつめの誤算はこれだった。相手がまさか、月龍の記憶を取り戻した克海ではなく、克海の身体に宿った月龍になるとは。


 月龍とわかってからは、確かに身構えていた。

 それでも、どこかで油断していたのだろう。たとえ月龍が暴力に訴えてきたとしても、自分ならば勝てると。


 慢心していたのだ。生きていた頃――自身の肉体であった頃、どんな屈強な男相手でも、力比べで負けたことはない。

 胡桃の身体であっても、悠哉を驚かせるほどの力が引き出せるのだから大丈夫だと、安易に考えてしまった。


「――くそっ……」


 どうにか抜け出せないかと、渾身の力を腕に込める。月龍がそれに気づかないはずもない。さらに力が加えられ、手首にかかる圧力が増しただけだった。

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