8.悔恨


「ふふ……っ」


 ずっと重苦しい表情だった悠哉が、急に小さく笑った。


「蓮は、それで余計に蒼龍を信じた。だから蓮の中で、おれは優しい男だと思われていた」


 本当は、そんなことはないのに。

 泣きそうに顔を歪めたまま、声だけに笑いが含まれているのが、アンバランスだった。


「そもそも、最初は月龍を貶めるためだった」

「――え?」

「月龍が、嫌いだったんだ。双子なのになにひとつ勝てず、妬ましかった。だから蓮を狙った。愛する女を奪われたらどんな顔をするかと……どれほど悔しがるかと」


 くっくっと喉を鳴らして笑う声は、いかにも楽しげだった。けれどそれを払拭するほど、姿は痛々しくて――


 悠哉を兄と慕う身としては、痛ましく思うのが当然だった。

 なのに今胸を襲う痛みは、同情のためではない。見えない拳が胸を打ちつけているかのような強い動悸は、憤りのためだった。


「――本気になったのは、途中からだった。蓮はそれを知らない。だから、烈も知らない。――知られたく、ない」


 卑怯だろう?

 くすりと笑って流された悠哉の視線に、胡桃はなにも言わなかった。


 言えなかったのだろう。眉を八の字に歪めて、ただ彼を見つめている。

 その、まっすぐな瞳に耐えられなかったのかもしれない。胡桃へと向けていた顔を、今度は正面にいる克海の方に変える。


「前世療法の中で、グループ転生と呼ばれるものがある。生まれ変わる度に出会い、何らかの関係を結ぶ、複数の人間の集まりのことだ。互いに魂を学び合うことを運命づけられた集団なのだと」


 ほんの一瞬、胡桃に視線を流して、また克海へと戻す。


「おれたちはそれなんだと思う。それをこの間は呪縛と呼んだけれど――もし仮に呪縛だったとしても、それは月龍ではなく、おれがやったのかもしれない」

「蒼龍さんが?」


 問いかけに、悠哉は目だけで頷いた。


「月龍と蓮の仲を引き裂き、亮殿下にまで不幸を及ぼしたのはおれだった。後悔の念はおそらく、月龍にも勝る」


 口の端に刻まれた小さな笑みが、痛々しい。


「だからこそ、思う。これはおれに課せられた義務ではないかと。二人を引き裂いたおれが、今度は、二人が結ばれて幸せな人生を送るのを見届ける。それがきっと、おれの役目だ。拗れた四人の関係を元に戻すのは、拗れさせたおれ自身しかいない」


 そうか。

 やっと、気づく。悠哉は最初から、そのつもりだったのだと。


 だから、胡桃への気持ちを認められない。認めたくない。

 自覚すれば、いざ月龍の転生が現れたとき、引き渡すのが辛くなるのは目に見えているのだから。


 悲愴な覚悟だった。――覚悟だとは、思うのだけれど。


「――この、大馬鹿野郎っ!」


 克海が口を開くより、ほんのわずか早かった。一度顔を伏せた胡桃が、急に怒鳴って立ち上がる。

 否、胡桃ではないのだろう。声も表情も、烈牙そのものだった。


「さっきから聞いてりゃ、なぁにぐだぐだぐだぐだ言ってんだ! ったく、うざってぇ男だな。いいか、原因がなんだろうが、結局蓮を殴ったのは月龍だろうが! 月龍が! 自発的に! 自分の意思で!」


 文節ずつ、強調するように声を張る。両手を腰に当て、悠哉に向き直った。


「そりゃあな、蒼龍の嘘だって酷いけどな。でもよ、要は月龍の自制心のなさが最大の要因なんだ。蒼龍が思い悩む必要はねぇし、まして悠哉、お前は蒼龍じゃねぇ。お前が罪の意識を感じて暗くなるのは、明らかに筋違いだろ。こんな簡単なこともわからねぇのか、このバカがっ!」


 訥々と諭し、最後にはまた、怒鳴りつける。

 声だけを聞けば怒りの発露にも思えるが、これは間違いなく、許しだった。


「――って」


 唖然とした悠哉を見下ろす顔から、怒気が消える。ころりと変わった調子で、小首を傾げた。


「烈くんなら、こう言いそうだなって思って。似てました?」


 いたずらな笑みを刻んだのは烈牙ではなく、胡桃だった。


 決して、ふざけたのではない。

 胡桃が優しくなだめるよりも、悠哉にはきっと、烈牙の一言の方がガツンと響くだろう。

 現に、呆気にとられた表情をしていた悠哉の目が、一瞬泣き出しそうに歪み、それからくっくっと低い笑い声を洩らした。


「――うん、すごく。本当に、烈かと思った」


 ――ありがとう。


 ぽつりと、小さくつけ加えられたのは、囁くような声。

 心の底から溢れ出た感謝に、胡桃はひとつ、うんと頷く。

 わずかに照れたような、ホッとしたような笑顔を浮かべて、再び彼の隣りに腰かけ直した。


 微笑ましい光景だった。

 悠哉が――彼の魂が、幾代にもわたって苦しみ続けた想いが、完全に払拭されたわけではないにせよ、随分と軽くなっただろう。


 なのに――否、だからこそ。


「……な」


 ギリ、と奥歯が鳴る。噛みしめた歯の間から、くぐもった低い声が洩れた。

 え、と驚きを上げた二人の目が克海に向けられるも、止められなかった。


「ふざけるな! どうして蒼龍が許される? そもそも、すべての元凶なのに……!」


 蒼龍が勝手に抱いた妬み、嫉妬から発した悲劇。

 月龍は彼に騙された、被害者だった。蓮や亮も、それに巻き込まれてしまった。


 なのになぜ、その蒼龍が救われるのか。月龍は未だ、こんなにも苦しんでいるのに。


「――草野、くん……?」


 呆然とした調子で名を呼ばれ、ハッと我に返る。

 きょとんとした中にも驚きを含んだ顔と、目が合った。そこで初めて、怒鳴りつけたのだと自覚する。


「あれ、おれ、なんで……」


 あんなに、怒ってしまったんだろう。

 混乱し、悠哉に視線を向けるのは、救いを求めるためだ。困ったとき、いつも助けてくれるのは彼だから、無意識に頼る癖がついている。


 けれど、肝心の悠哉は大きく目を見開いたままだった。

 愕然とした目には、胡桃の機転で一度は薄れた悲痛の色がまた、戻っているようで――


 ようやく、自分の言葉が悠哉を傷つけてしまったのだと、わかる。


「ごめん、おれ……!」

「――いや」


 本当の意味で我に返って、謝るのとほぼ同時だった。

 悠哉がくすりと笑う。目と顔を軽く伏せた、寂しげな表情だった。


「お前の言うとおりだ。おそらく、最も苦しんだのは月龍だろう。その原因が蒼龍にあったのは、まぎれもない事実だ」

「悠哉さん――……」

「大丈夫だよ、胡桃ちゃん。僕は蒼龍だったけど、彼自身じゃない。わかってる」


 ゆっくりと細められた目には、落ち着きが取り戻されていた。


「ごめんね。少し混乱してた。――克海も。すまなかったな」


 胡桃に苦笑を向けたあと、克海に謝罪をくれる。

 悠哉が謝る必要はない。むしろ傷口を抉ったのは、克海の方だ。


 なのに、向けられた視線があまりにも真剣で――なにも、言えなくなってしまった。

 うんとも、ううんともつかぬ曖昧な返事に、悠哉はただ、笑う。そして笑顔のまま、胡桃に向き直った。


「さて、少し遅くなってしまったけど、勉強を始めようか」


 教科書開いて、とでも言いそうな、教師のような口調がやけによく似合っている。

 元々、術の解説などをするために胡桃を呼んだと言っていた。だから本来の目的通りではあるのだけれど、話題を変えるためと思ったのは、穿ちすぎだろうか。


 なにより、先ほど自分が覚えた無用なはずの怒り。


 そこはかとない不安が、胸に降り積もっていくのを感じていた。

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