7.悪魔

 亮を絶賛する悠哉の言葉に、なぜか共感を覚える。克海はその人物を知らないというのに。


「実際、月龍と蓮が恋仲になる前、二人は非公式の許婚だったらしい。その亮殿下が蓮を好きだったと知れば、月龍の不安は倍増する。そこに付けこんだのが、おれだ」


 おれだと言ったけれど、正確には蒼龍だ。過去を話しているせいで、意識が蒼龍に取りこまれてでもいるのだろうか。


「月龍に、あることないこと吹きこんだんだ。蓮は本当にお前で満足していると思うのか、いずれ亮殿下のところに戻るのではないか、惚れたのがお前の顔ならおれも同じ、彼女はいつ心変わりするのだろうな、と」

「――酷い」


 無意識のうちに、呟く。

 あまりにも酷い嘘だった。自信がなく、不安になっているところにそのようなことを言われれば、信じてしまうかもしれない。

 悠哉は眉間に刻んだしわをさらに深くしながら、微かに笑う。


「そうだな。そしてそれを信じた月龍は、蓮に亮と会うことを禁じた。蓮にとっては、兄のように慕う幼なじみだったのに。また、蒼龍にも会うなと命じた。恋人の弟だから、親しみたい相手なのに」

「可哀想……」


 これまで黙っていた胡桃が、ぽつりと洩らす。月龍や蒼龍の心情よりも、やはり蓮への共感の方が強いのだろうか。


「そう、当然蓮は寂しがった。月龍にはそれが、二人と通じていたからこその反応に思えて、嘘をさらに強く信じこんだ。怒り狂った月龍は、蓮に手を上げるようになる」

「――だから、かな」


 胡桃が小さく、独り言めいて続ける。


「蓮ちゃんを……殴ってるとき。すごく怒鳴って、ものすごい責め立てる口調で。でも、悲しそうな顔をしてたんです。表情も、怒ってるようにしか見えないのに――でも、目には涙がたまってたようにも見えて」


 それは、泣きたくもなるだろう。恋人、弟、親友に裏切られていると思いこんでいるのだから。


 彼らをすっぱり断ち切ってしまえばきっと、楽になれた。

 けれど月龍にはできなかった。

 王子や公主を敵に回すことを恐れた保身のためではない。月龍には彼らしかいなかったから――彼らこそが、すべてだったから。


「だからたぶん、本気じゃなかったのかも。月龍さんって、軍人さんだったんですよね? 自分が強いことを、知ってた。だから殴るとき、利き手を避けてたのかも。だって、左手だった!」


 自分の前世が愛した男を庇いたかったのか。たとえ利き手ではなくとも、暴力には違いないのに、わずかに声のトーンが上がっている。

 対照的に、悠哉の声が低く沈んだ。


「――非常に言い辛いけど」

「月龍は左利き、だった……?」


 先は、言われなくてもわかってしまった。言葉を継いだ克海に、悠哉は首肯し、胡桃は「あっ」と小さく声を上げて、口元を両手で押さえる。

 悠哉が深く、深くため息を吐いた。


「蓮は、月龍に怯えるようになった。当然だな。身に覚えのないことで、一方的に暴力を振るわれるのだから。でも月龍は、それが悲しかった。同時にイラ立った。だからまた、殴る。殴られれば、怖くなる」


 悪循環だ。

 冷静に考えればわかるはずのことが、月龍にはもう、わからなくなっていたのだろう。


「殴られる理由はわからずとも、自分の言動のなにかが怒らせるのだと蓮は考えた。ならば彼の言うことを聞けば、怒らせずにすむ、と。だからどんな不当な要求も、文句も言わずに受け入れた。感情も、表情も、すべて押し殺して」

「それって逆効果じゃないの?」


 相手のことをなんとも思っていなければ、都合のいい女として利用できる。

 けれどそれが好きな人だったら――自分が壊れてしまうくらいまで強く愛した相手がそうなってしまったら、辛い。


「そういうことだ。だからこそ月龍の要求はエスカレートした。おれが蓮から聞いたことがあるのは、他の女の元へ通うから身支度を手伝えとか、昇進のためには上官に気に入られる必要があるから、お前の身を差し出して来いとか」

「そんな――酷い」


 胡桃の呟きは、掠れていた。思わず、といった風に洩れたから、きっと心の底からの本音だろう。


「でも、そんなの普通に考えてウソだろ」


 蓮の気を引きたかったのだ。

 あなた以外の男に抱かれたくないとか、他の女のところになんて行かないでとか、すがってほしかったのだ。

 なのに蓮は、受け入れてしまった。微笑みすら浮かべて月龍を送り出し、涙も見せずに上官の元から戻ってきた。


 ギリ、と胃が痛む。


「その通りだな。だが蓮は信じた。そしてそのようなことを命じるのだから、月龍の目的はやはり、自分の身分だけだったのだと確信した」

「――そして月龍も、信じた。嫉妬の欠片すら見せてくれなかった蓮が……最後まですがってくれなかった蓮の想いは、自分には向いていないと」


 なぜだろう。女性に暴力を振るう気持ちなど、まったく理解できない。

 したくもないはずなのに、なぜこうも月龍に共感してしまうのか。


「でも、それだとおかしい」


 胡桃が、悲しそうな顔で反論する。


「だって、そんな理不尽なこと、蓮ちゃんが月龍さんのこと好きじゃなきゃ、受け入れるはずない。好きだから、傍にいたいから、我慢したんでしょう? 月龍さんには、身分を得るとかのメリットがあったかもしれないけど、蓮ちゃんには、傍にいられる以外はデメリットしかないもの」


 だから月龍には、蓮の気持ちは伝わるはずだ。

 主張の中に、たとえ月龍の方に気持ちはなくても、との意図が見え隠れしていて、克海をイラ立たせる。


「だから、怖かったんだろう? そのための、暴力だから。逃げ出したらなにされるかわからないから、逃げるに逃げられなかったんだ。どんなに月龍を憎んでいても、恨んでいても」

「――月龍は、そう思っていたな」


 けんか腰になった克海を、悠哉がやんわりと遮る。


「暴力を振るうとき、月龍は言っていたらしい。逃げたら亮や蓮の親族を殺す、と。それが蓮にとって、もっとも効果的な脅しだとわかっていたからな」


 けれど、と沈痛に歪んだ顔が続ける。


「それが効果的だったからこそ、月龍自身の首を絞めた。蓮が傍にとどまってくれる理由が、彼女の想い以外にも説明できてしまったから。さらに不信感を募らせ、暴力は加速する」


 八方ふさがりだ。月龍でなくとも、精神が壊れてしまう。


「おれは、二人のすれ違いを知っていた。知っていて放置した。――いや、あえて助長させた。なんて酷い男だと月龍のことを誹り、おれの元へおいでと蓮を誘った。月龍と同じ顔で、彼の身代わりでもいい、幸せにしてあげると誘惑した」


 眉間にしわが寄るのを感じた。

 蒼龍は賢い男だ。それも姦計に類する。人の弱みにつけこみ、甘い言葉で罠に誘う――まるで、悪魔だ。

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