2.心配
一瞬、夢の続きかと思った。
呆然と見上げる先にいたのは、自分が暴力をふるっていた相手――
では、ない。柔らかそうな髪や色彩が薄いところ、顔立ちもどことはなしに似ている気はするが、別人だった。
同級生の少女、広瀬胡桃――否、違う。
「烈……?」
「降りるぞ。ここだろ?」
すでに立ち上がり、顎をしゃくって窓の外を指し示す。つられて見たそこは、確かに降りる駅のホームだった。
ちょうど着いたところらしく、スピードを落とした電車がゆっくりと止まる。先を行く烈牙の後を追って、慌てて電車を飛び降りた。
――そうか、おれ、寝てたんだ。
混乱した頭でなんとか考えていた克海は、ようやく思い出す。
通学時、いつもの電車のいつもの席に、胡桃は座っていた。ただ、いつもは起きていて、おはようと克海を出迎えるのに、今日はぐっすりと眠っていたのだ。
悠哉と出会って、状況を把握した。とはいえ、事態が落ち着いたわけでも、まして解決したわけでもない。一朝一夕に改善されるわけもなく、未だ夢は見続けているという。
ならば疲れていて当然だった。起こすのも可哀想で、黙って向かいに座る。
最近はずっと登下校も胡桃と一緒だったので、ヒマつぶしの本も持ってきていない。時間を持て余し、頬杖をついて窓の外に流れる景色を眺めていたのだけれど、いつの間にか眠っていたのだろう。
それにしても、嫌な夢だった。未だ動悸のする胸に、手を当てる。
ここ数日、胡桃から前世の話を聞いていたから、影響を受けてしまったのだとは思うけれど――
胡桃に雰囲気の似た少女が、きっと蓮だ。彼女の傍らにいた、悠哉をさらに精悍にした男が、蒼龍。
ならば克海は、彼を偽者と認識し、蓮に暴力をふるっていた彼女の恋人、月龍になっていたことになる。
最悪だ。
話を聞く度に、月龍というのはなんて酷い男なのだろうと思っていた。恋人に――女性に手を上げる男の神経が、理解できない。なのに、よりにもよってその男の視点で情景を見てしまうなんて。
まだ、手の平に感触が残っている気がする。彼女に拳を叩きつけたときの衝撃もまた、蘇った。
あれが、明晰夢か。
空手をしているから、顔面はないにせよ、人に拳を当てたことはある。それと、同じ感覚だった。
リアルな感触を思い出すと、気が滅入りそうになる。
「――大丈夫か」
ため息が落ちる手前で、声をかけられる。
以前は数歩先を歩いていた烈牙が、今日はほぼ隣にいた。
半歩ほどしか違わないだろうか。顔は前に向けたまま、横目を流される。
「うなされてたようだが」
無表情のまま、むしろ機嫌が悪そうにさえ見える。口調はぶっきらぼうなままだけれど、かけてくれた言葉は思いやりから出たものだった。
一緒にいるときに表に出てくることは、ほとんどない。けれど胡桃や悠哉の話を聞き、またほんのわずかな時間触れるだけでも、情の厚さがわかる気がした。
「――ありがとう。でも、大丈夫」
「大丈夫じゃねぇだろ。酷い顔色してるぜ」
ガシガシと頭を掻きながら、怒ったような語調で吐き捨てる。
「時間はまだあるんだろ? 少し休むか」
言うと、返事も聞かずに、さっと道をそれる。隅に置かれたベンチにドカッと座り、隣に向かって顎をしゃくった。
座れ、ということか。逆らう気になれず、隣に腰を下ろす。
――そう、無言で歩いているうちに、いつの間にか公園にまで来ていたのだ。
「――イヤな夢を見たんだ」
悠哉を頼るのにも似た気分で、口を開く。
「自分が――
顔はこちらを向いていないけれど、ぴくりと烈牙の肩が震える。
「
夢に見たのは、あくまで克海が作り出した虚像に過ぎない。想像の中で象られたそれは、実際とは違うのだろう。
けれど、どこかで確信してもいた。あれは間違いなく蓮なのだと。
「明晰夢のせいだと思うけど……殴った感覚もあってさ」
「――で?」
「おれは短時間でこんなにぐったりだけど、ずっと見続けてた広瀬は、やっぱり大変だったんだなって――」
「違ぇよ、バカ」
短時間というだけではない。殴る側と殴られる側、肉体が傷つくことはないとはいえ、痛みを伴うのだからどちらが辛いかは、考えるまでもない。
胡桃の苦労に心を砕いた克海を、烈牙が遮る。
気のせいではない。今度ははっきりと、その瞳に物騒な光が浮いていた。
「おれが訊きたいのは、女を殴った感想だよ。どうだ、楽しかったか?」
「なっ――」
絶句する。
女の人を殴って楽しいなどと、発想すらしなかった。克海はもちろん、夢の中で見た月龍でさえ、辛いと感じていたのに。
「腕力で押さえつけた女に、言うことを聞かせる気分は? 支配欲でも満たされて、気持ちよかったか」
「そんなはずないだろ!」
唇の片端だけを器用に持ち上げた、胡桃ではありえない表情。向けられた冷たい眼差しには、濃い軽蔑の色が貼りついている。
我に返り、叫ぶのと同時に、激高して立ち上がった。
「人に暴力振るって、気分いいはずないだろう!? それに、顔色が悪い、休もうって心配してくれたのは、お前じゃないか!」
楽しい夢だと感じていたなら、こうやって心配されることすらなかったはずだ。うなされていたと指摘したのも、烈牙だったのに。
「――だな。悪かった」
見下ろす目と、上目遣い。厳しい睨み合いを打ち切ったのは、烈牙の方だった。目を閉じ、はぁー、と深いため息が落ちる。
「どうもあいつのことになると、頭に血が上ってな……見境がなくなっちまう」
頭痛でもしているのか、眉間に近い鼻のつけ根を、ぎゅっと指二本でつまんでいる。手で隠れてあまり見えないけれど、その表情、仕草がやけに男臭かった。
ハッ! と短く吐き捨てられたのは、ため息か。
よっ、と声をかけて、立ち上がる。
「そろそろ行くか」
克海の肩を、左手でポンと叩いて歩き出す。その溌溂とした後ろ姿を追いながら、克海は不思議な感慨に襲われていた。
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