2.告白

 長く続くかと思われた睨み合いを打ち破ったのは、「胡桃」だった。

 最初は低い忍び笑い、最後のは高らかに哄笑を響かせる。

 突然の高笑いは、驚きよりも不気味さがあった。額を押さえ、顔を仰向けて笑う姿に、半歩退く。


「ああいや、悪い。お前が意外に鋭いんでな。驚いた」


 開き直ったのだろうか。「胡桃」が吐き出したのは、彼女自身とはまるで違う、ぶっきらぼうな男言葉だった。

 口元にニヤニヤとした笑いを貼りつけ、ひょいっと肩を竦める。


「ご名答だ。おれはこいつ本人じゃねぇ。もちろん、男だ。しかしまぁ、懲りねぇ男だな、お前も。投げ飛ばされたのはもう、忘れたのか?」


 まだ近づく気かよ。呆れるというよりは、小馬鹿にした口調だった。思わず、ムッとする。


「じゃああの、感じ悪いのはやっぱりお前だったんだ」


 問いではなく、確認だった。

 思わず「感じ悪い」とつけてしまったのは、出すつもりのなかった本音だが、相手はその部分に噛みついてくる。

 眉を歪めたまま、口の片端だけが吊り上がった。


「感じ悪いのはお互い様だ。おれはお前なんざ、大嫌いなんだしな」


 今までこいつにも散々忠告してやったのに。小さく口の中で呟かれたのは、ため息混じりの愚痴だった。


「なっ……でも、放っておけるわけないだろ!?」

「鬱陶しい男だな。当の本人であるこのおれが、放っとけって言ってんだぞ」

「おれが心配してるのは、お前じゃなくて広瀬だ!」


 すでに背を向けて歩き出していた「胡桃」が、叫ぶ声に足を止める。肩越しに振り向き、こちらを上目遣いで睨みつけ――


 やがて、はん、と鼻を鳴らした。


「そりゃあ、お前がこいつの世話を焼いてくれたことは知ってるさ」


 視線はそらしながらも、半身で振り返る。声のトーンも、幾分落ち着いていた。


「悠哉を紹介してくれたことは、実際に感謝もしてる。あいつに会うまで、一瞬ならともかく、おれは表に出ることもできなかった。中から外を見てて、もどかしくてならなかったからな」

「会うまでって、じゃあ悠兄も、お前のこと知ってるのか?」

「当然だろ。お前が見抜いたんだ。あいつにわからないはずねぇだろ」


 気分を害したのか、鼻にしわを寄せる。その言い分はもっともではあった。

 もしかしたら、専門家であるが故に気づかなかったのかもしれない、とは思ったのだ。解離性同一性障害は、症例としては珍しい。

 複雑なプロセスを踏むことが前提となっているから、それに当てはまらない胡桃を除外して考えるのも、無理はなかった。


 ――そう思っていたけれど、「胡桃」が言うには、悠哉も彼を認識しているらしい。


 事実をそのまま克海に話さなかった理由は、わかる。胡桃の――「患者」のプライバシーに関わることだから、守秘義務の精神が働いたのだろう。


 問題は、もっと別のところにあった。


「なんで悠兄は、お前を出したまま家に帰すなんて真似、したんだ……?」


 克海を投げ飛ばしたこと、話し方、表情、どれをとっても粗暴なのは見て取れた。そもそも別人格には、反社会的な性格のものが多いと聞く。

 態度を見る限り、敵対者の可能性が強いこの男を、そのまま放置するなど危険すぎる。

 片眉を上げ、呆れを隠す気もない表情が、克海を見据えた。


「お前、阿呆だろ。これからのことを思えば、おれが今の環境に慣れる必要がある。ついでに、まだ暗くはなかったが女ひとりで帰すよりも、おれの方が安全じゃねぇか」

「それは、信頼できる相手ならって話だろ。お前が広瀬にとって有害か無害か、まだわからないのに」


 失礼な物言いは、承知の上だった。俄然、怒りに目をむくかと思われた「胡桃」は、フンと鼻先で笑い飛ばす。


「有害か無害か、だと? どちらも外れだ。おれはこいつにとって、なんだからな」


 余裕を刻んだ笑みが、無性に癪に障った。憎まれ口をたたく。


「お前が勝手にそう思いこんでるだけだろ」

「いいや、認めてるヤツがいるぜ? 悠哉だ。でなきゃ、おれのまま帰したりしねぇだろ」


 ぐうの音も出ない、正論だった。ぐっと窮する。


「おれとあいつの間には、長年培ってきた絶対の信頼、ってヤツがあるんだ」

「長年って、お前なに言って――」

「質問はなしだ。説明しても、どうせ信じねぇよ。合理主義者なんて、そんなもんだ」


 遮って、一方的な否定を告げると、「胡桃」は再び校舎に向かって歩き出す。


「ちょっと待てって。話はまだ終わってないだろ」

「ほんっきでうるせぇ男だな。しつこいと嫌われるぜ?」


 放っておけるはずがない。咄嗟にあとを追い、腕を掴もうと手を伸ばす。

 手を振り払われたのか、そもそも掴むこともできなかったのか。

 判別できないくらい、一瞬のことだった。


「――っ!?」


 くるり、と小さな体が反転した、と思ったときには、腹部に激しい衝撃が走った。

 なにが起こったのかもわからないまま、痛みのために文字通り膝を屈する。片手で腹を押さえ、芝生の上に蹲った。

 目前にある小さな拳を見てようやく、殴られたのだと理解する。


「へぇ、吐かなかったか。上等だ。ま、手加減はしといてやったけどよ」


 腕を組みながら、くすくすと笑う声は意地の悪いもので――胡桃の声で聞かされるのは、違和感しかなかった。


「一度目は投げられ、二度目は殴られ――さすがに懲りただろ。これ以上痛い目見たくなかったら、もうおれたちには関わるんじゃねぇぞ」

「そういう……わけには、いかないだろ。おまえがこんだけ暴力的なら、なおさらだ」


 けほん、と小さく咳きこんで、顔を上げる。

 いくら、急所に小さな拳がはまりこんだとはいえ、到底胡桃の腕力で出せる威力ではない。

 激しい痛みに、これが潜在能力だとしたら、恐怖すら覚える。

 呼吸を整えようとするも適わず、咳きこむ克海を見下ろす目が、冷たい。


「ったく、現代の男ってのは軟弱なんだな」


 呆れを隠しもせぬ様子に、冗談じゃないと内心で呟く。

 克海は空手もしているし、当然鍛えてもいた。軟弱と言われるほどでは、けっしてない。


「そんなざまで、こいつのことが心配、守ってやりたいってか? なんとまぁ、自意識過剰なこった」


 ひょいと肩を竦めて、ふと、自分が手に持っていたコーヒー缶に気づいたらしい。

 ずいっと克海の目の前に突きつけてきた。


「おい、お前、これ潰せるか?」

「なんだよ急に。アルミ缶じゃあるまいし、できるわけ――」


 ないだろう。言いかけた克海を遮ったのは、言葉ではなく動作だった。

 缶の上下をそれぞれ手で押さえたかと思うと、軽くひねりながら合わせる。

 さして力を入れた風にも見えないのに、缶は「胡桃」の手の中で、きれいに平らになっていた。

 それだけではない。平面になった缶の底を持つと、さながら紙のコースターでも曲げるように、あっさりと折り曲げたのだ。


 ――それも、左手の指先だけで。


 胡桃のような少女にできる芸当ではない、というレベルではなかった。おそらくは、屈強なプロの格闘家でも不可能だろう。

 「胡桃」は潰した缶を、ぽん、と克海の前に投げ捨てた。


「こいつの心配をする、その気持ちだけはありがたくもらっといてやるよ。けどな、守りたいってんならせめて、これくらいはできるようになってから言いな」


 じゃあなと言い置くと、ようやく邪魔されずにすむとでも言いたげな、清々しい表情をさらして踵を返す。

 残されたのは蹲ったままの克海と、尋常ならざる力で潰された、缶のなれの果てだった。

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