第五章
1.琥珀
陽光を浴び、軽く汗ばむほどの気温だった。
けれど今、背中をじわりと濡らすのは、種類が違う。
冷や汗だ。背骨に沿って這うように、寒気がじわじわと体を蝕む。
なぜ、気づかなかったのだろう。
電車に乗りこんだ瞬間や、ケーキを買って悠哉の部屋に戻ったとき、今と同様の寒気を覚えていた。決まって胡桃が傍にいるとき――それも、様子がおかしい時に限って、だ。
そして先ほど、ルーズリーフを手紙と断言した。つい十数分ほど前までは、呪いのお札ではないかと怖がっていたのに。
驚いたり怖がったりする必要もないのは、「それ」がなんなのか知っているからだ。
なぜ知っているのか。
それは、誰が用意したのか知っている、もしくは自分自身が用意したからではないのか。
導き出される、結論は――
「――お前は、広瀬じゃない」
克海が提唱し、一度は悠哉に否定されたあの、可能性。
解離性同一性障害――いわゆる、多重人格。
胡桃らしからぬ言動、能力、抜け落ちる記憶。
それらはすべて、彼女の中にある別人格の仕業だったのではないか。
決して詳しいわけではない。だがその拙い知識の中でも、他の人格が表に出ているとき、本人ではありえない能力を発するらしいのは知っている。
性格や口調はもちろん、か弱い女性なのに、別人格である男が出ていれば、重い荷物を軽々と運んだりもできるそうだ。
ただ、別人格が生まれるには、相当のプロセスがある。幼少期の虐待が原因となる場合が多いらしい。
「今、この酷い目に合っているのは、自分ではない」だから、「自分」は無傷でいられる。自己防衛本能が働くのだと、考えられていた。
そう考えると、珍しいほどに無垢な胡桃の性格は、別人格に辛さを押しつけているからこそ、かもしれない。
――否、おかしい。
胡桃はそもそも、「酷い目」とやらには合っていないはずだ。克海の知らないなにかが隠されている可能性は否定しないが、聞いている限りでは原因らしきものはなかった。
だからこそ納得もする。胡桃の周辺に、問題は見えない。多重人格発症の要因が見当たらないからこそ、専門家である悠哉は可能性を否定したのではないか。
克海の断定を驚いたように見上げ――胡桃は、ぷーっと噴き出した。
「もう、あたしじゃない、なんて、なんの冗談? びっくりしちゃった」
ころころと笑い転げる姿はいかにもおかしげだったが、つられて相好を崩したりはしない。むしろ、嫌悪感は増したくらいだった。
ただ、じっと鋭い目で観察する。
「――感じから言うと、男か?」
くすくす笑いがぴたりと止まる。
無表情になった胡桃の目が、すぅっと細められた。凛と背を伸ばした威圧感が、見えない壁となって克海の胸を押す。
――ああ、これだ。
この、雰囲気だ。背筋に走る寒気をこらえ、踏み止まる。
胡桃の眼光が、鋭い。色素が薄く、べっ甲のような瞳は日の光を受け、まるで金色の輝きだった。
怖いけれど美しく――そしてどこか、懐かしい。
「――ふっ……くくっ……はははっ」
長く続くかと思われた睨み合いを、「胡桃」が打ち破った。
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