6.杞憂

 月曜日の朝、いつもと同じホームの、同じ場所で待っていた。


 ――心境はとても、いつも通りとは言えなかったけれど。


 土曜日、あのまま帰途に着く気にはなれず、悠哉の元へと引き返した。

 事の次第を話すと、悠哉は頭を抱え込んでしまった。

 その態度が非常事態を示しているように思えて焦ったけれど、すぐに苦笑まじりで説明してくれた。


 まずひとつめ、胡桃に催眠療法を試してみたこと。

 意外でもなんでもなかった。心療内科の治療としては珍しくない。話を聞くだけでは、やっぱり原因がわからなかったんだと思っただけだ。


 次に、可能性として考えられるのはその、催眠術がちゃんと解けていなかったのでは、ということだった。


「術者が素人や未熟であった場合、中途半端にかかってしまったり、解くのもうまくいかなくて残ってしまったり、ということはある。――おれは素人じゃないと自負しているし、変な暗示をかけたつもりもないが、可能性はゼロじゃない」


 自分の失敗かもしれない。思うからこそ頭を抱えたのだとは、理解できた。

 でも、納得できないこともある。


「身長で三十センチ、体重だってたぶん、倍近いおれを軽々と投げ飛ばすなんて、物理的に無理じゃない?」

「それ、本当に投げ飛ばされたのか?」


 質問に、質問形式で返ってきたことに、そしてその内容に驚いた。どういうことかと目で問うと、肩を竦める。


「単に驚いて、手を払っただけじゃないのか? 急に腕を掴まれればびっくりもするし、怖いかもしれないぞ」

「いやいやいや! 確かにあれは粗忽だったし、怒られれば謝るしかないけど! それにしたって――」

「掴んでいた手を払われてバランスを崩し、勢いもあって、変な体勢になってすっ転んだ……とかじゃないのか?」


 おれは現場を見てないからわからないけれど。

 つけ加えられて、黙りこんでしまった。


 一瞬のことで、状況を把握できなかったのは事実だ。合理的に考えれば、悠哉の説明が一番もっともらしかった。

 ましてつい先日、胡桃に対して「火事場のバカ力」の原理を説いたのは、他でもない克海である。同じ状態だったと言われれば、頷かざるを得ない。


 ――けれど。


「うぅん……」

「克海」


 納得はいかない、けれど他に説明もできない。

 板挟みで唸る克海を呼ぶ声が、真剣なものになった。



「胡桃ちゃんが住んでる家が曰く付きなのは、知ってるだろう? それで最初、ちらっと変な夢を見た。本来は変な夢なんて、珍しくもないんだけどな」


 眉を歪めた苦笑に、同意を示すために頷いた。


「土地柄、なにか意味があるんじゃないかと気になる。気にすればまた見る――悪循環だ。要するにストレスが原因だから、一朝一夕になくなるはずもない。自傷に走ることはたぶんないと思うが……もしかしたら、おかしな言動があるかもしれない」


 だからもし見かけたら、フォローしてやってほしい。

 続けられて、なにを当然のことをと思った。協力を仰いだのは克海の方なのだから。


 ただ、問題は胡桃の方にある。克海に対して、態度は冷淡だった。

 一過性ならいいが、もし本格的に嫌われでもしていたら、協力もなにもあったものではない。

 さしあたっては次に会う時、胡桃がどのような表情を見せるか、だ。


 その初対面がもうすぐに迫っているのだから、緊張しないはずがない。


 ホームに電車が入ってきてドアが開き――車内に、足を踏み入れる。


「おはよー」


 まったくいつも通りに笑う胡桃に、拍子抜けの感は否めなかった。

 一昨日のように冷たい態度をとられるかもしれない。

 否、避けられているならそもそも、いつもの登校時間すらずらされるのではないか。

 考えて当然の心配事は、杞憂だったのだろうか。

 どことはなしの緊張を貼りつけたまま、向かいに座る。


「あの、一昨日のことなんだけど――」

「あ! うん、ありがとね!」


 先日は取りつく島もなかったけれど、今日はちゃんと話ができそうだ。そう判断して、それでも少し怖さもあって、おずおずと声をかける。

 返ってきたのは、問いを遮る勢いの感謝だった。


「悠哉さんを紹介してくれて。すっごい気分が楽になった……気がする!」


 にこりと笑われて、おう、と曖昧な返事しかできなかった。


 なんで一昨日、おれのことを振り払ったの?

 っていうかやっぱり、なにか怒ってたの?


 質問すれば、今ならば答えてくれそうな雰囲気ではある。だがそう口にした途端、また機嫌が悪くなったりはしないだろうか。

 そもそもなぜこうも、何事もなかったように振る舞えるのか。


「どうかした?」

「いや、あの……」


 なにからどうやって尋ねていいのか口ごもっていると、小さく首を傾げられる。

 ぽやんとした顔で克海をしばらく見つめ、あっと急に声を上げた。


「ごめん、もしかしてあたし、変なこと、した?」


 口元に手を当てた、申し訳なさそうな表情になる。

 その反応で、ようやくひとつの可能性に気づいた。


「って訊くってことは、もしかしなくても覚えてないの?」

「うん」


 気まずそうに眉をハの字に曲げて、上目遣いで俯く様が、叱られた小動物のようだった。


「覚えてるのは、悠哉さんが数を数えてて、意識が遠のいていくところまで、なの。次に気づいたのは、夕方、自分の部屋の中で」


 その間の記憶がまったくないのか。だから克海とのやり取りも忘れ、普段通りの対応だったのだろう。

 ハッ、と息が洩れた。

 不機嫌だった理由を知ることができなくて、残念だったのもある。だが圧倒的に、気まずさの原因そのものが彼女の中から抜け落ちていることへの、安堵が強かった。


「悠哉さんからお電話もらって。考えられる状況? っていうのも教えてもらって。全部解決したわけじゃないけど、なんとなくもう安心かなって気分になってたんだけど……」


 違ったのかな? 最後には少し、不安そうな表情になる。


「いやいやいや! 大丈夫だって」


 ストレスが原因で問題が起こってるかもしれない相手を、わざわざ不安にさせる必要はない。


「悠兄がついてるんだし、さ」

「だよね。今日もね、放課後おいでって言ってくれてるし」

「そうなんだ」


 ホッとしたように笑う胡桃とは逆に、克海は不安になる。

 悠哉は働いているのだから、当然時間に余裕はない。平日の夕方なんて、よほど急いで帰らなければ家には戻れないだろう。克海も、基本的には休みかその前日、夜に泊まりに行くくらいだ。

 それを押してなお胡桃と話をしようというのは、よほどの事が起きている証拠ではないのか。

 考えすぎかもしれない。むしろ杞憂であってほしい。

 けれど――微笑む胡桃の目の奥に、なにかチラリと影のようなものが見えた気が、した。

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