5.不快
本人を前にできる話でもなく、結局胡桃の状況にまったく触れないまま時間が過ぎた。
じっくり味わっているのか、もぐもぐと咀嚼しながら食べていた胡桃の皿が空になるまで、十分あまりだろうか。
余韻に浸っているようにわずかの間目を閉じ、はぁと感嘆めいたため息が落ちる。カップを手に取ると、くいーっと中身を飲み干した。
「じゃあ、今日は帰ります」
「えっ、もう?」
あまりに唐突に言い出したものだから、驚きの声が洩れる。
ソファの横に置いていた荷物を持つと、胡桃はさくっと立ち上がった。
「うん。話も大体終わったし」
話が終わった。ということはやはり、状況がわかったのか。
思わず振り向くと、眉を歪めた悠哉の微苦笑があった。
今は訊くな。意味深長な目付きに言われた気がして、口を閉ざす。
「どうする? 送っていこうか」
質問は、胡桃に向けられたもの。悠哉なら問いかけの形ではなく、「送って行こう」の方が自然な気がする。
軽く伏せた視線を横に流し、考える素振りのあと胡桃は首を左右に振った。
「せっかくだし、少し歩きたいかも」
なにが「せっかく」なのだろう。
当然のはずの疑問を抱いた風もなく、悠哉は「そうか」と頷いた。
引き止められる意思はまるでなさそうな胡桃は、すでに玄関に向かって歩いている。
正直戸惑いを隠せないけれど、呆然と座っているわけにもいかず、見送りに立つ悠哉に倣い立ち上がった。
玄関先でなぜか、自分のサンダルを数秒見つめた胡桃が、ああとひとり納得した様子で足を通す。
「あ、ここで大丈夫……です」
同じく靴を履こうとした悠哉が、下まで見送るつもりだと察したらしい。笑顔で制し、彼を見上げた。
「じゃあ、今日はありがとうございました。――草野くんも、ありがとう」
悠哉と克海、二人の返事も待たず、踵を返してドアを開ける。ひらりと舞ったスカートが、やけに目に鮮やかだった。
そこで、はっと我に返る。
「あ、おれも帰る! 途中まで――」
一緒に行こう、とは最後まで言えなかった。まったく聞いていないのか、聞こえていなかったのか、パタンとドアを閉ざして出て行った。
「あー……本人も大丈夫だって言ってたし」
呆気に取られていると、慰めるような声をかけられた。眉を下げた困り顔を見上げて、たしかにその通りなんだけど、とは思う。
思うけれど、妙な胸騒ぎがするのも事実だった。
「おれ、やっぱり送ってく」
心配性だと我ながら思うが、なんとなく放っておけなかった。
「じゃあ、その……気をつけて、な」
帰り際にする「気をつけて」の声かけは、自然なものだった。
なのになぜか、声音に違和感を覚える。
とはいえ、考えている暇はない。靴を履くと、胡桃の後を追った。
「広瀬!」
胡桃の後ろ姿を見つけて、声を上げる。
彼女が出て行って、五分も経っていなかったからすぐに追いつけると思っていた。なのに、玄関を開けたそこに、胡桃の姿はない。
もうエレベーターに乗ってしまったのかとも考えたが、違う。上部の階数表示が止まったままなので、稼働していない。
もしタイミングよく乗れたとしても、一階に着くほどの時間は経っていなかった。
もしかしてと思いつき、廊下の突き当りから階段を下りる。急いで駆け下りる自分の足音が、忙しなく響いた。
そして――重なる、もうひとつの足音。
やはり、階段を使ったのか。
ここは六階である。昇るのはもちろん、下りるときだって普通はエレベーターを使うのではないか。
不思議なことが、更にもう一点。
胡桃は歩きにくい、厚底サンダルを履いていた。歩幅も狭く、普段から歩くのは早くない。並んで歩いていても、ともすれば置いて行ってしまいそうになる。
なのになぜ、急ぎ足の克海が追いつくのに、こうも時間がかかるのか。
結局追いつけたのは、胡桃がマンションのエントランスを抜け、自動ドアが開いたときだった。
呼びかけに足を止めることもなく、胡桃はそのまま、マンションを出て行ってしまった。
悠哉の部屋を出て行くときと、まったく同じだった。
無視された?
浮かんだ考えを否定する。――否定、したい。
さらに後を追いながら、やはり疑問を禁じ得なかった。
後ろから見てもわかる。胡桃は別に走ったり、早歩きをしているわけではない。
ならば普通に歩くだけで追いつけるはずなのに、一向に距離は縮まらなかった。
「ちょっと待ってくれ、広瀬」
結局、走ってようやく追いつき、隣に並んだ。
さすがにそこまで来て気づかないはずもなく、胡桃がちらりと目を上げる。
「なに?」
驚いた風もなく、無感動な目が向けられる。
無感動、というよりは、不快げな眼差しにすら見えて、思わず怖気づく。
「いや、えっと……送って行くよ」
「ありがとう。でも大丈夫」
「でも――」
「大丈夫」
取りつく島もないとはこのことか。こうやって話している間も、足を止める気配すら見せない。
さすがに、これはおかしい。
「――おれ、なにか悪いことした……?」
胡桃の場合は、良くも悪くも素直だから、なにか癇に障ることをしてしまったのなら、そう言ってくれる。嫌なことを腹にためて、ため続けて嫌われるよりは、その場で注意してくれた方がよかった。
足も止めないまま、わずかに顔をこちらに向けた胡桃の横目が、心底嫌そうに見える。
はぁ、とため息が洩れた。
「そんなことないよ。なんで?」
口の端に、ちょこんと可愛らしい笑みも刻まれた、半ば期待通りの返事。
けれど、胸騒ぎはむしろ酷くなる。
なにせ、口元こそ笑みの形になっているが、目がまったく笑っていない。全身で拒絶を示されたままで納得できるほど、鈍くなれなかった。
実際、「なんで?」と疑問を投げかけながら、すでに顔はこちらを向いてもいない。
思わず立ち止まり、また距離を開けられそうになって、慌てて足を速めた。
懸命に走るわけでも逃げられているわけでもない地味な追いかけっこは、とても気まずかった。
悠哉の家を出てから、十分ほどか。行きの半分ほどのペースで、待ち合わせをした、駅前の公園に差しかかる。
気まずいまま別れたくない。
なにかあるなら、ちゃんと話し合いたい。たとえそれが、耳に痛い話だったとしても。
「待ってくれ!」
引き止めようと、胡桃の手首を掴む。
その、瞬間だった。ふわりと体が軽くなるのと同時、視界がぐるりと回った。
「気安く触るな!」
地面に背中を打ちつけ、怒鳴られてもすぐには状況が把握できなかった。痛みと驚きで、一瞬息がつまる。
その後、ようやく投げ飛ばされたのだとわかった。
「あっ……」
克海と胡桃、我に返るのが早かったのはどちらか。
仰向けに倒れたままむけた視線の先で、しまった、という風に口元を押さえる胡桃を見る。
すぐさま踵を返し、今度こそはっきりと逃げる後ろ姿を呆然と見送って――
再度、ハッとなるのと同時、慌てて辺りを見渡した。
他人に見られると気まずい上に恥ずかしく、下手をすれば痴漢とでも間違われそうだ。
幸い、近くに人はいない。安堵して、次には混乱に襲われた。
「――なんだ……?」
立ち上がり、服についた埃を払って目を上げると、胡桃の背中はもう、豆粒ほどの大きさになっていた。
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