4.悶絶
玄関の前でひとつ、深呼吸する。
悠哉が指定したケーキ屋は、店内に広めのイートインスペースがあった。
ケーキやクッキーなどの菓子類だけでなく、軽食メニューもある。コーヒーの美味しさにも定評のある店なので、男がひとりで入るのにも抵抗はない。
ケーキ三つ分よりも多い金額を渡されたのは、そこで時間をつぶせという、暗黙の指示だった。
通常の診療で、大体一回につき一時間程度と聞く。ならばそれくらいだろうと、漠然と考えていた。
実際、悠哉から帰って来いと連絡があったのは、ちょうど二杯目のコーヒーを飲み終わる、一時間余りが過ぎた頃だった。
急いで戻り、いざ部屋の前に立つと妙な緊張に襲われる。
二人は今、どんな表情でいるのだろう。自分がいない間、どんな話をして、そして――どれだけ親しくなったのだろう。
「ただいまー」
必要のない緊張を振り払うため、あえて大きな声で言いながらドアを開ける。
瞬間、体がひやりとした。
たとえるなら、廃屋などの冷暗所に入った、じめっとした肌寒さ。あまり心地良い感触ではない。
おかしな話だった。
今日は天気もよく、開けられた窓からは爽やかな風が流れている。
百歩譲って肌寒さはあっても、湿気とは無縁のはずなのに。
もっとも、身震いするほどの不快さは一瞬で、今はわずかに立った鳥肌以外に名残はない。
「すまないな、ありがとう」
声をかけられて、我に返る。目を上げると、振り返ってこちらを見ている悠哉が、軽く首を傾げていた。
それほど広い部屋ではない。玄関からまっすぐ行ったリビングまでは、数秒だ。
なのにタイムラグがあれば、訝しくも思うだろう。
克海が歩き出すのと、悠哉が立ち上がるのがほとんど同時だった。
「用意するから、座っててくれ。紅茶でいいか?」
店でコーヒーを飲んできたのを見越した質問だろう。気遣いが嬉しかった。
「大丈夫。手伝うよ」
「そうか? じゃあ、ケーキを出してて」
悠哉に続いてキッチンに立ち、ケーキの箱を開ける。中を覗いた悠哉が、「これなら紅茶はなににするかな」と呟く口調が、やけに楽しそうだった。
口調だけではない。軽く鼻歌まで出ているから、明らかに上機嫌だった。
話してみて胡桃の状況がわかったのかもしれない。解決策が見つかり、肩の荷が下りた気分なのだろうか。
どうなったのと訊いてみたくはあるけれど、話せる内容であれば、きっとあとで教えてくれるはずだ。
とりあえず今は、言われた通りの準備をする。ケーキを皿に置き、トレイに乗せて運んだ。
「どれがいい?」
買ってきたのは、モンブラン、チョコレートケーキ、チーズタルトの三つ。誰が最初に選ぶべきかは、考えるまでもなかった。
問われた胡桃は、ちらりと克海を見上げてからケーキに目を落とす。
一つひとつ眺めている横顔は、まるで難問を突きつけられたような渋面だった。
そんなに真剣に悩むことか?
苦笑まじりに言いかけたとき、ふわっと甘酸っぱい香りが届く。
「――そうだな。甘いのがよければ、これかな」
紅茶を運んできた悠哉が指さしたのは、チョコケーキだった。
じゃあこれで、と胡桃は皿を持って、そっと手元へ引き寄せる。
「克海は?」
「えっと、じゃあモンブラン」
残ったチーズタルトが、悠哉となる。買うときに、なんとなく思い浮かべて選んだ通りになったのが、少し面白かった。
ソファに座る。出る前に座っていたのと同じ、胡桃の横だ。
と、胡桃が一旦腰を浮かせて座り直す。
その仕草が、不自然だった。
ただ単純に座り直したというよりも、端へ寄ったように見えたのだ。
まるで、克海から距離を置くために――
まさか。感謝されて当然だとは思わないが、嫌われることはなにもしていない。
「いい香りがする」
思わず向けた疑惑の視線に、気づいていないのか気にしていないのか。胡桃は目前に置かれたカップに目を落とし、ぽつんと呟く。
いただきます、ときちんと手を合わせたものの、遠慮はまったく見せずに手を伸ばした。
淹れたての香りをすうっと吸い込んだあと、カップの縁に口をつける。
「少し、甘い……木苺?」
「正解。まぁ、正しくはそれだけじゃなくて、他のベリー類も入った、ベリーティーだけど」
にっこりと、悠哉が笑みを刻む。
木苺でももちろん正解だけど、ラズベリーと言われる方が馴染みがあるのは、克海だけだろうか。
「うん、ベリーティー美味しい」
子どもが学習するように呟くのが面白かったのか、悠哉がくすりと笑う。
フォークの縁でチーズタルトを切る彼の仕草を見ながら、胡桃も同じくフォークでケーキを口に運んだ。
「――なっ!?」
どこかそわそわした不安げな表情が、一瞬にして消し飛ぶ。ガバッと上げた顔が、驚愕に満ちていた。
「これ……っ!」
「美味しいよね、ここのチョコケーキ」
一体何事かと愕然とする克海をよそに、悠哉は微苦笑しながら応じる。
って、美味しすぎて驚いたってこと?
初めてケーキを食べたような驚きっぷりもさることながら、その反応をさも当然のように受け止めている悠哉も悠哉だ。
彼がとる予想外の言動は、さらに続いた。
「こっちも食べてみる?」
提案自体は、普通だった。けれど、うんと目を輝かせて頷く胡桃に、自分のフォークでケーキを切ると、はいあーんと差し出したのだ。
それ、初対面の女の子にやる?
そもそも、女の子のひとくちには大きすぎない?
ドキドキと見守る克海をよそに、戸惑う素振りも見せず、胡桃は大きく口を開ける。
「――っ!」
差し出されたケーキを頬張ると、口を押えて俯く。
表情を見れば、美味しかったのだと一目瞭然だった。興奮のあまり頬を赤く染め、目にはうっすらと涙まで滲んでいる。
チョコケーキといいチーズタルトといい、あの店のケーキはたしかに美味しいけれど、そこまで衝撃的ではないはずだ。
なのになぜ、と見やる先で、胡桃と目が合った。縁が少し赤くなった横目が、ちらりとモンブランの上に落ちる。
思わず苦笑した。
「こっちもよかったら」
さすがに悠哉がやったようにはできない。皿を差し出すと、ん、と遠慮がちにフォークを突き立てる。
少し、意外だった。むしろ、そっちもちょうだい? と首でも傾げて口を開ける方が胡桃らしく思えた。
「んんん……っ!」
モンブランを一口食べて、唸り声を上げる。口を押えて小さくジタバタする姿は、悶絶としか言えない。
いや、だからそんなに?
ツッコミを入れるべきか迷っている間に、深く嘆息しつつ「幸せ……」とハートのつきそうな語調で言われて、なにも言えなくなった。
くすくす笑う悠哉の声は、好意に溢れている。言葉通り、幸せそうにケーキを食べ始めた胡桃を見る目は、恋人でも見守るかのような、愛しさのこもったもので――
なんだろう。やっぱりなにか、もやっとする。
克海はそっと、自分の胸元に手を当てた。
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