2.心理学

 今、自分はなんと答えようとした……?

 自らの思考に驚き、口元を押さえる。


「当たり前、なんですか?」

「う……ん」


 きょとんと首を傾げられ、返答に詰まる。先ほど答えかけた言葉は、すでに記憶のどこか、奥へと沈んでいた。


「ほら、胡桃ちゃん、前から僕のことを知ってたって言ってたよね? それで、恋人というまだ実像をもって想像できないものに、近すぎず遠すぎずっていう僕を当てはめたんだろうと思う」


 理屈としては合っている。ただし、「当然」と言い切れるほどの理由ではなかったけれど。

 もっとも、悠哉自身か心療内科医という肩書かはわからないが、信用してくれているらしき胡桃は疑いもしない。

 あははーと照れたように笑う顔が、赤かった。


「やっぱり夢は願望を……って感じだったんですね」

「望んでくれるなら嬉しいけどね」


 お世辞半分本音半分で言うと、面白いほどに胡桃が赤くなる。耳まで真っ赤になっている反応は、悪い気がしない。


 ――嬉しく思う時点、本音が半分混じってしまっている時点で、大人としては失格だけれども。


 なにかがおかしい。

 胸に、心臓の代わりに石が収まっているような、重苦しさがあった。


 異変は、胡桃と出会ってからだ。

 かといって、別に一目惚れしたわけではないと思う。胡桃は可愛らしくはあるが、十一も年下の女子高生だ。犯罪者になるつもりはない。


 けれど、感情が揺れる。理性ではない、別の部分が反応していた。


 おかしいといえば、克海もか。彼の言動も、いつもとは違っていた。

 胡桃も今時珍しいくらいに純粋だけれど、それは克海も同じだった。素直で優しく、自分の損得も考えず、人のために動くようなところがある。


 その克海から、今日はほんのわずかではあるが、負の感情が見えた。おそらく本人にも自覚がない、嫉妬。

 話を聞いていたときには、胡桃が克海に好意を寄せているのかと思っていたが、むしろ逆なのかもしれない。


「――あの、蒼井、さん?」

「悠哉でいいよ」


 呼びかけられて、返事はほとんど条件反射だった。

 だが、理には適っている。患者によっては「医者」という権威をチラつかせた方が、信頼してくれる場合もあった。

 だから診察時、相手を見て服装を変える。医者だからと信頼を寄せてくれる相手には白衣で、本当は治療ではなく、誰かに話を聞いてもらいたいと思っている人にはスーツか私服で対応していた。


 胡桃はきっと、後者だ。ならば年の離れた大人、医者として話すより、気安く話せる距離感の方がいい。


 ――名字で呼ばれる他人行儀さが嫌だと思う、悠哉自身の気持ちを置いておくとしても、だ。


「えっ、でも蒼井さん――」

「悠哉」


 慌ててなにか続けかけた胡桃を、笑顔で遮る。うっと小さくつまったあと、眉を歪めた苦笑になった。


「えっと、じゃあ、悠哉さん」

「うん」


 満足の笑みで頷いたあと、なにかなと問いかける。胡桃の浮かべた苦笑が、少し深くなった。


「急に黙っちゃったから、どうしたのかなと思って」


 自分自身の状態と克海の気持ちと、知らぬうちに考え込んでしまっていたらしい。


「ごめん。ちょっと考え事」


 嘘ではないけれど、多分に誤魔化しの言葉ではあった。考え事の内容については、胡桃には――言えない。


「変な夢を見るようになったのは、おじいさんの家に引っ越してからだったよね?」


 感情という不確定で不明瞭なものについて悩んでみても、解決には繋がらない。問題は、悠哉ではなく胡桃の中にあるのだ。そちらをどうにかする方が先決だった。


「いわくつきの土地だって聞いたけど……怪奇現象みたいなものもあったって」

「そうなんです!」


 ハッと顔を上げた胡桃が、ついでとばかりに身を乗り出す。


「陰陽師の家系らしくて……一番怖かったのはお坊さんたちが部屋に入ってきた時だけど、他にも寒気がしたり、変な気配感じたり、どこからか子どもの笑い声みたいなの聞こえてきたり……」


 眉根を寄せて話す表情は、真剣そのものだった。

 思春期の、特に少女にはこういったことを言う子がいる。「他とは違う自分」を演出するためだと思われる例が、ほとんどだった。


 ただし、実際に見えている場合もある。不安定な心身が見せる幻の類だ。

 胡桃の場合、前者ではありえない。かといって、後者とも違う気がする。

 だからこそ、悩むわけではあるが……


「草野くんは、気のせいだって。あたしも、そうであってほしい気はするんですけど……でも、本当なんです。悠哉さんは、信じてくれます、か……?」


 不安そうな上目遣いを前に、返答につまる。


 親身になってくれた草野くんには、本当に感謝しています――本人を前にしても、照れることなく言っていた。

 ただ、お化けとかは信じてくれないけど、とポツリとつけ加えたのも事実だった。


 だから、悠哉にはその部分も認めてもらいたい。


 瞳の訴えに、頷いてあげることはできなかった。

 そもそも、克海がごりごりの合理主義になったのは、悠哉の影響を受けたからに他ならない。その悠哉が、胡桃の主張をそのまま受け入れるのは、到底無理がある。

 かといって、真っ向から否定するのは信頼を失う意味で、けっして得策ではなかった。


「僕は、そちら方面は専門外だから……面白いとは思うけどね」


 結局は、微苦笑を浮かべるにとどまった。


「でも、見えてしまうようになったのには、なにか原因があると思うんだ」

「原因……ですか」


 軽く握った右手を口元に当て、左斜め上へと視線を向けた。原因といわれるなにかを、記憶の中から探っているのだろう。


 人は、過去の記憶を思い出そうとするとき、左斜め上を見る傾向がある。胡桃の場合はより顕著に表れていて、この短時間でも何度か見かけた。


 逆に、右斜め上を見るときは未来を想像していることが多い。過去について質問をしているはずなのに右を見ている人は、嘘をついている傾向にある。


 もちろん、無意識による嘘の可能性はあった。自分では過去を思い出しているつもりで話を作っているとき――思春期の少女にありがちな、怪異体験を話しているときなどだ。

 けれど胡桃は、必ずと言っていいほど左を見る。嘘はないと判断する一因でもあった。


 もっとも、心理学を学んでいれば、そう判断されることを見通しての嘘もつけるが、胡桃に知識があるとも思えなかった。

 そっと頭を振るのは、原因に心当たりはないという意思表示だろう。予想通りの答えだったから、ただ頷く。


「それを、一緒に探してみない?」

「探す? 一緒に?」

「そう。催眠治療って聞いたことある?」


 ほんのわずか左上を見て、すぐにふるふると首を左右した。


「今から暗示をかけて、胡桃ちゃんに催眠状態に入ってもらう。そして、深層心理の中から答えを引き出してみようと思ってるんだけど」


 今ひとつ理解できていないのか、かたんと小首を傾げられる。そうだな、と少し考えて、説明を続けた。


「棚に並んだ引き出しを想像してもらうと、わかりやすいかな。それぞれの記憶がつまった引き出しが並んでる。普段使わないものが入っている引き出しは、あまり開けないだろう? けど、中に入っているものがなくなったわけじゃない」


 ゆっくりと、噛んで含む物言いに、胡桃は真摯な瞳で頷く。


「知っているはずのことが思い出せないこともあるけど、あれは正確には忘れてるんじゃなくて、どこにしまっているのかわからなくなってしまっているだけなんだ」

「――うーん」


 唸りながら、考えをまとめるように右上方を見ている。

 ――本当に、わかりやすい。内心で、微笑ましさの混じった苦笑が浮いた。


「あたしが忘れてる……忘れたつもりになってる記憶の中に、もしかしたら変な夢を見るきっかけになった原因があるかもしれないから、どこにしまいこんじゃったのかを探してみようってことですか?」


 自信なさそうな口調ながら、内容はきちんと意図を理解したものだった。

 おっとりして天然っぽいけど、意外と鋭いところもある。克海が胡桃を評した言葉を思い出した。

 彼の眼が正しかったと思うのと同時、こんなところまで似ている、と言い知れぬ切なさを覚え――


 誰に、という疑念が浮かぶ前に頭を切り替える。


「じゃあ、やってみようか」

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