第四章

1.ボーダーライン

 不思議な気がした。

 最初、克海から相談を受けたのはもう、二週間以上も前のことになる。


 初めは相談というよりも、明晰夢を見てる同級生の子がいる、あれって本当にあるんだなといった、感想だった。

 そのうち、何度も繰り返し見てるみたいとの報告を受けた。

 内容自体は、克海が行った夢解きと同じ判断ではあるが、悠哉には少し、違う考えもあった。


 夢がどうの怪異がどうのと言っているらしいが、すべてが真実ではないのではないか。

 もしかしたら克海に好意を持っていて、多少誇張混じりに話しているのかもしれない、と。


 だとしたら正直、面倒だった。


 幼い頃から、克海はやけになついてきた。あれほど慕ってくれれば、もちろん可愛く思う。彼が困ってるのならば、できる限り力になってやりたい気持ちは本当だった。


 だからといって、克海の周辺すべてに愛情をもって接する義務はない。


 心療内科医とはいえ、慈善事業ではないのだ。仕事でもないのに、面倒事を背負いこむほど物好きでもない。

 自傷行為にまで及んだとなれば、なにかしらの問題が疑われる。

 もし病んでいる要素が見られるならば、それとなく距離を置くようにと、克海にアドバイスするつもりだった。


 けれど実際に会った胡桃に、病的なものはまったく見受けられなかった。むしろ、今時珍しいくらい、健全すぎるほどに健全な印象がある。

 少なくとも、人の気を引くために嘘を吐くタイプではない。短い時間でもわかるくらいに素直だった。


 ならば話は本当だと考えるのが自然で、だからこそ彼女の身に起こっている事象は、不思議としか言いようがない。


 昼食中、雑談のように話しながらも聞き出した過去に、問題らしい問題は見つからなかった。

 家族仲は良好、学校での生活も普通、仲のいい友人もいる。

 もちろん悩みがあったとして、初対面の悠哉にすべてをそのまま話したとは限らない。


 ただし、なにかあれば隠そうとして、わずかな間ができる。

 胡桃にはそういった様子はなく、躊躇も見られなかった。


 ――不思議なのは、それだけではない。悠哉が覚えた感情こそが、不可解だった。


 懐かしい気がすると言ったのは、胡桃が自分を知っていたからと話を合わせたわけではない。

 試合会場で見かけたのかもしれないと、二人にはあり得そうなことを言ったけれど、実際はもっと強く感情が揺れていた。


 一瞬だけれど、彼女の背後に花畑が見えた気がして――古い少女漫画かと、我ながら呆れたものだ。


「ごめんね、要領悪くて」


 克海を見送ったあと、席に戻る。向かいのソファにちょこんと座る胡桃は、なんとなく小動物を彷彿とさせて可愛らしかった。


 と、微笑ましく見ている場合ではなかったか。


 状況を思い出し、さてどうやって原因を探っていこうと方途に迷う。

 最初は、克海に害が及ばないようにするだけのつもりだったが、実際に会ってみて、気持ちが変わっている。もし胡桃の身になにかが起こっているのなら、協力を惜しむつもりはなかった。

 好意的に思ってくれる相手に、非情にはなりきれない。

 それだけが理由ではなく、強く揺さぶられてしまった自らの感情によるところが大きかったけれど。


「――そういえば」


 心臓が、きゅっとつまるような痛みを訴えかけてくる。それを振り払うためと、沈黙が深くなる前にと口を開いた。


「克海から聞いたんだけど、変な夢を見てるんだって?」

「あっ――」


 なるべく軽い口調で言ってはみたけれど、胡桃を現実に引き戻すには充分だったらしい。小さく声を上げて、顔が曇る。


「ごめん、深刻ぶるつもりもないんだけど……ケガもしてるって聞いて、ちょっと心配で」


 大したことじゃないと言ってあげるくらいでは、問題は解決しない。その程度の気休めですむのなら、克海の言葉でとっくに救われているはずだ。

 なのに、自傷行為にまで至ってしまったからにはなにか、根本的な相違があるのかもしれない。


 胡桃に会う前、想定していたのは境界性パーソナリティ障害だった。

 境界例やボーダーラインと呼ばれることもあるこの症例は、そう極めて珍しいものではない。

 善悪や好悪の判断などが極端から極端に移行したり、気分が不安定で態度も変わりやすく、傍から見るとまるで別人のように思えることもあった。

 強いストレスがかかると、一時的に記憶を喪失したり、自傷行為に走ることもある。

 いくつか当てはまる症状はあるのだが――違う、ような気がしていた。


「あの……これ、なんですけど」


 こくん。


 息を飲む音に続いて、細い胡桃の声が聞こえた。

 小さな手が、自身のタートルネックにかけられる。ゆっくりと下げられ、露わになった首はとても細く、白かった。

 その首を横断するように走る、一本の赤い線。――痛々しい、傷。


 なるほど、これを隠すためのタートルネックか。


 納得と同時、傷が深くないことを確認してほっとする。程度としては、爪で浅く薙いだくらいか。

 とはいえ、胡桃が大袈裟に騒いでいたとは思わない。首から上は、傷の割りに出血量が多くなる。怪我をした覚えもないのに、両手が血で染まっていれば驚いて当然だった。


「今も痛い?」

「ほんの少しだけ……紙で指を切っちゃったりするでしょ? あんな感じの、痛いような痒いような」

「そうか。でも怪我自体が酷くなくてよかった」


 手当の必要はない。暗に示すと、はいと頷く胡桃の顔にも、安堵の色が浮かぶ。


「草野くんから聞いてると思いますが……今までも、変な夢は見てたんです。触れた物の感触や、香りが現実みたいで。首を絞められて苦しかったり……叩かれて、痛かったり」


 ――……の、夢だ。


 頭の片隅で、呟く声が聞こえる。

 「それで、あの」と俯きながら、言い辛そうにちらちらと上目遣いでこちらを見る胡桃の目と、視線が絡む。わずかに頬が赤くなっていた。


「その人、夢の中であたしの恋人みたいなんですけど――その、不思議なことに蒼井さんに似てるんです」

「ああ」


 そんなことか。思うよりも早く、くすりと笑ってしまう。


「似てて当然だよ」

「えっ」


 ――……だから。


 驚きの声を上げる胡桃に答えかけて、ふと我に返る。


 今、自分はなんと答えようとした……?

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