6.意図

 悠哉は現在、ひとり暮らしだった。

 実家は遠くない。大学も、実家から通える距離にはあったのだが、全寮制だったのでその頃から親元を離れている。

 もっとも、全寮制なのは一年次のみで、二年からは自宅に戻ることもできたが、あえて別に部屋を借りたのには理由があった。

 過干渉気味の母から距離をもつ意味があってと、悠哉が微苦笑しながら話してくれたのを覚えている。


 悠哉の母、克海にとっての叔母は決して、悪い人ではない。基本的には優しくて面倒見のいい、綺麗な人だ。

 ただ、悠哉に関しては少し過剰だった。中学、高校と成長しても、いつまでも小さな子供のように世話をしようとする。

 依存の傾向を心配した叔父の采配で、二年に上がったときにここを借りた。叔父が経営している個人医院の近くだ。


 そして無事に研修期間も終わり、去年から「蒼井クリニック」に心療内科医、心理カウンセラー兼任で務めている。

 大学に入学してからだと、すでに九年だ。これだけ離れていると慣れるのか、叔母も一般的な母親と変わらぬ距離感を保てるようになったらしい。



「やっぱり、緊張する」


 隣に座った胡桃が、微苦笑と共に、肩を竦めた。

 二人をリビングに通し、悠哉が寝室に引っ込んだのは着替えのためだった。スーツだと堅苦しいから、と言っていたが、それは悠哉がそう感じるのではなく、胡桃への配慮だと思う。


 「初対面の男」が相手なら、緊張して当然だ。それがスーツ姿――年の離れた大人であれば、さらに助長される。ならば普段着の方が、少しは緩和できるのではないか。

 付き合いが長いだけに、考えそうなことは想像がついた。


 ただし、悠哉はひとつ忘れていることがある。確かに二人は初対面ではあるが、胡桃の方は悠哉を知っていたのだ。

 それも憧れていたというのだから、服装が変わったくらいで緊張が解れるとは思えない。

 通されたリビングで、ソファに座りながら言った胡桃の言葉はきっと、間違いなく本心だ。


「お待たせ。胡桃ちゃん、飲み物はどうする? ……とは言っても、コーヒーか紅茶くらいしかないんだけど」


 戻ってきた悠哉は、袖をまくりながらそのままキッチンへと向かった。着替えのために引っ込んでいたのは、五分程度だった。

 あらかじめ服を選んでいたのではなく、清潔感があればいいという信条の下、ササッと決めたのだろう。


 もっともそれは、なにを着ても様になるからできることかもしれないけれど。


 Vネックのシャツとカーディガン、濃いめのジーンズといたってシンプルな服装だった。

 ただ、やけに似合い過ぎている。

 首筋や鎖骨、軽くまくった袖から見える前腕部の筋肉など、男から見てもドキッとするほどに色気があった。スーツ姿とは、また違う魅力がある。


 ファミレスにいる間で、せっかく「憧れの人」にも慣れつつあった胡桃も、再びノックアウトされたらしい。「どっちにする?」と重ねて訊かれたのに、ぽーっと悠哉を見ている。

 二人掛けのソファで隣に座っていた克海が、軽く肘で胡桃の肘をつつく。それでようやく我に返ったのか、ハッと顔を上げた。


「あっ、はいっ、じゃあえっと、コーヒーで!」


 はーいと返事をする悠哉が、とても罪作りに思えてならなかった。

 自分が容姿に恵まれていることを、自覚はしているくせに頓着はしていないから、改めて見惚れられるという発想が浮かばなかったのだろう。

 これならばむしろ、スーツ姿のままでいた方が距離感があってよかったのかもしれない。


「克海もコーヒーでいいか?」


 カウンターキッチンの向こうから訊かれて、うんと答えた。


「お待たせ」


 要領のよさと手慣れているせいもあり、さほど待つ時間もなくコーヒーが運ばれてきた。胡桃、克海、そして自分の順にコーヒーを置き、最後にクリームが並々と入ったミルクポットを胡桃の前に置いた。


 ――ああ、なるほど。スマートな仕草を見ながら、妙に納得した。


 悠哉は基本的に、ブラックで飲んでいる。彼に憧れ、真似をしたい克海もブラックだった。

 ただ、来客用にミルクと砂糖は用意されているし、とくにミルクは賞味期限もあるから、時々入れたりもする。

 今日は来客だからとミルクを出すのはわかっていたが、容器いっぱいにまで入れられているのはきっと、ファミレスで胡桃が飲んでいた、ほぼ白いコーヒーを見ていたからだろう。

 だから胡桃の利き手である右側に、ミルクポットの取っ手がくるように置いたのだとわかる。

 

 こういうところが、敵わない。


 彼は憧れであって、張り合う対象ではないのに、考えてしまう。


「――あっ」


 それにしてもなぜ、今日はこれほど悠哉を意識してしまうのだろう。

 ふと浮いた疑問など知るはずもない悠哉が、小さく声を上げた。


「ごめん、胡桃ちゃん。なにか寂しいと思ったら……帰りにケーキ屋に寄ろうと思ってたのに、忘れてた。――克海」


 呼ばれて顔を上げると、意味ありげな表情の悠哉と目が合った。


「悪いが、買ってきてくれるか? ほら、近くにあるだろ、角の――」

「ああ、あそこね」

「あのっいえっ、あたし大丈夫です! ファミレスでも結局、奢ってもらっちゃいましたし……」


 悠哉の言葉に応と答えたのは克海で、否の返事をしたのが胡桃だった。慌てたように、胸の前で両手を振る。

 また少し赤くなった頬に、くすりと笑みで応じる顔が、やけにかっこよかった。


「そんな、恩に着てもらえるほどの金額じゃないよ。ケーキも、実は僕が食べたい」


 にっこり笑って言うのは、嘘だ。彼はそれほど、甘い物が好きではない。嫌いではないけれど、こうやって買いに走らされるなど初めてだ。

 意図は、明白だった。

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