5.無我夢中


「――胡桃……?」


 名前を呼ばれて、ハッとした。

 なんだか、ボーッとする。体も、痛い気がした。


 状況がわからず、ゆっくりと視線を左右へと走らせる。

 視点が低い。床がすぐ近くに見える。その床に散らばったガラス片が、陽光を浴びて輝いていた。

 綺麗だなと思ったのも一瞬、ようやく、本当の意味で我に返る。


「香織ちゃん大丈夫!?」

「大丈夫って……」


 悲鳴じみた声への返事は、やけに近いところからあった。――胡桃の、真上から。


「胡桃が、助けてくれたんじゃない」


 ――え?


 すぐ近くにある顔を見上げて、困惑した。


 香織の背中にしっかりと回されているのは胡桃の手で、彼女を抱きしめた状態で床に倒れていたのだ。

 元々立っていた場所からは十数メートルも離れたところにいて、ほとんど小野の足元に近い。


 胡桃が助けた、と香織は言った。状況から見ても、おそらくはそうなのだろうと思う。

 けれど、走って香織にとびつき、彼女の身体を庇うために反転して自分を下にして――


 そのような芸当、できるはずがない。

 時間をかけても無理だろうが、それをボールが窓ガラスにぶつかるまでの、ほんの数秒でなど、あり得なかった。


「ふ、二人とも怪我はない!?」


 今まで硬直でもしていたのだろうか。叫んだ小野が、慌てた仕草で膝をつく。

 まるでそれが合図になったように、静まり返っていた空間に喧騒が溢れた。





 ため息を吐くと幸せがひとつ逃げていく、と言うけれど、この一カ月で胡桃はどれだけの幸せを取りこぼしたのだろう。

 思いながらも禁じ得ず、はう、と嘆息してしまった。


「なに、今頃疲れでも出てきた?」

「今更どころか、ずっとだもん」


 くすくすと笑う克海に、むくれて見せる。

 あれからが、大変だった。直撃は免れたとはいえ、ガラス片を多少は浴びている。怪我をしているかもしれないと保健室に連れて行かれ、体中確認された。

 幸い、二人とも怪我はなかった。胡桃の肘と背中にうっすらと痣はあったけれど、状況を考えればやはり、これだけですんでよかったと思うべきである。


 大変だったのは、教室に帰ってからだ。昼休みのことだから、クラスの中にも目撃者がいたらしい。一躍ヒーローのように騒がれて、少し泣きそうな気分になった。


 これが本当に自分のやったことなら、胸を張ればいい。

 もし別人の所業を胡桃の功績だと間違われたのなら、違うと正せばいい。


 だが問題は、傍目に見れば間違いなく胡桃がやったことなのに、本人には記憶がまったくないことだった。


「でも意外だよな。広瀬ってなんか、運動できなさそうなのに」


 至極失礼な発言ではあるが、怒る気にはなれなかった。電車を待つホームで並んで立つ克海を、じとりと見上げる。


「苦手だよ、運動。とーっても苦手」

「でも、中村を助けたとき、ものすごいダッシュかけた上にスライディングかけたって聞いたけど」

「五十メートル十秒台のあたしに、そんな芸当できると思う?」

「――え?」


 面白がるように話していた克海の顔から、笑みが消えた。

 言わんとすることがわかったのだろう。ごくりと息を飲む勢いの真摯な顔で、口を開いた。


「五十メートル十秒台って……遅すぎないか……?」

「そこ!?」


 驚くべきところが違う。

 鈍い鈍いと言われる胡桃が指摘する側に回るのは、珍しいことだった。

 我に返ったのか、克海が片手で自分の口元を覆う。


「いや、ごめん。予想外の遅さでつい……」


 少しでもからかう意思があればまだマシなのに、本気で驚いている様子なのが逆にショックでもある。

 そんなに遅いかなと内心で傷つきながら、唇を尖らせて見せた。


「ともかく! そんなあたしにできるわけないでしょ?」

「ああ、まぁそれは確かに……」


 眉根を寄せる胡桃につられたように、克海も眉間のシワを深くした。


「でもほら、火事場のバカ力って言うし。理論上だとたぶん、不可能じゃない――と思う」

「そうなの?」


 たしかに「火事場のバカ力」なる言葉を聞いたことがあるけれど、それほど顕著に表れるものなのか。


「人間って、普段は全力の三十パーセントくらいしか使ってないんだって」


 肩を竦めた苦笑は、どこか面白がるような色も見て取れた。


「あくまで理論上だし、単純に三倍以上には考えられないだろうけどさ。可能性としてはあるんじゃない?」


 問われて、考えてみる。胡桃ではどう考えても無理そうだけれど、たとえば倍の能力がある人なら、あの場面で香織を助けるのも不可能ではないのかもしれない。


「でもね、まったく覚えてないの。危ないって思って、次に気づいたときはもう、香織ちゃんを助けたあとで」

「それは、無我夢中だったってことじゃない?」


 一生懸命すぎて覚えていないというのは、あるのかもしれない。まして、通常以上の全力を出さなければならないほど切羽詰まった状況だったならば尚更だ。

 けれど、疑問は残る。

 疑問というか、違和感と呼ぶべきか、胸の奥にもやもやとしたものがあった。

 くすりと笑う声が聞こえた。


「ま、今日はよくがんばった。助けられてよかったと思って、家に帰ったらゆっくり休めばいいよ」


 お疲れさん。

 ぽん、と軽く頭を叩かれるのは嬉しくて――全然よくないはずなのに、まぁいっかと思えてしまったのが不思議だった。

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