4.事象
最近、おかしなことが続いている。
そもそもの始まりは、あの夢だった。見る度に怖く、切ない気分にさせられる。
克海は悪い夢ではないというけれど、本当にそうなのだろうか。個々の夢に悪い意味はなくても、複合的に見ると――などという可能性はないのか。
だって、異変はすべて、あの夢に繋がっている。
金縛りも、あの一度だけではない。二、三日に一度だから、頻繁にと言ってもいいかもしれなかった。
怪奇現象らしきものも、ある。
僧侶の列ほどのインパクトはないけれど、ふと気配を感じて振り向くと、なにかの影がサッと動く――なんてことは、ザラだった。
一番の変化は、記憶が途切れるようになったことだ。
最初は、克海と話しているとき。
なにも言ったつもりもないのに、「なんて言った?」と聞き返された。
まったく覚えがなかったので、「なにが?」と返したのだけれど。
次は、調理実習のときだ。気がついたら、トマトピューレーのビンを渡されていた。
はっきり言って、胡桃は筋力がない。おそらく、平均よりは弱かった。部活に入ってこそいないけれど、スポーツ万能な香織と比べるまでもない。
その香織が開けられなかった蓋を、開けられるか?
答えは考えるまでもない、否だ。
だからこそ香織も、ビンを渡すときに「ありがとう」と言いながらも不思議そうな顔をしていたのだと思う。
案の定蓋は開かず、代わりに克海が開けてくれたのだけれど。
しかもあのとき、胡桃が野菜を切っていたという。克海には「けっこう料理、上手じゃん」と褒められたのだけれど――
その間の記憶がまったくないと言ったら、彼は一体どんな顔をするのだろうか。
覚えているのは、まな板ににんじんを乗せたところまでだ。
朝の時点で、本気で克海にお任せしてしまう気だったので、やっぱり自分でやらなきゃダメなんだとため息を吐いた。
その次に気づいたのは、ビンを渡された時なのである。
夢の内容については、愚痴めいた気分で克海に話すことができた。けれど、記憶が途切れることについては、話すことが怖かった。
しかも、本当に意識が途切れているのか、自信もない。
なんとなく前後が曖昧にはなっているが、気を失った感じはなかった。時間がものすごく経っているということもない。調理実習のときが一番長時間ではあったけれど、集中していれば時間の流れを早く感じるのは、珍しくないはずだ。
――そう、思いたい。
はう、と短いため息を吐く。
「どうしたの? なんかあった?」
我に返ったのは、隣を歩く香織に声をかけられてからだった。
香織に、夢の話はしていない。まるっきり抽象的な話で心配をかけたくなかった。
「うん、ただちょっと寝不足で」
「はっはーん」
真実ではあるけれど、半分はごまかすための台詞だった。
それでも少しは心配をかけてしまうかな、と思わないでもなかったが、反応は予想とは違っていた。なにやら目をキラリンと光らせ、口元には意味ありげな笑みが刻まれている。
「恋する乙女はツライわね?」
「えっ」
「わかるわかる、草野くんのこと考えて、眠れないのね?」
きゃーっと小さく悲鳴を上げられて、そんな解釈があるのかと驚いた。
胡桃にはそのような経験はないが、好きな人を想って夜も眠れず――などとは、漫画や小説で読んだことはある。
少女漫画の恋愛ものでも、主人公が中高生が多いから、ちょうど胡桃たちがそんな年頃なのだろうと理解もしていた。
けれど、愛だの恋だのはまだ、遠い世界の話である。
例の憧れの人にしても、本当に憧れているだけで、恋人になってみたいなどと思ってはみても、実感があるわけではない。
「いっそ告白しちゃえばいいのに。草野くんだって、満更じゃないと思うよ?」
「だからー、勘違いだって。そんなんじゃないもん」
「でも草野くん、かっこいいしいい人じゃん」
そう言われれば、否定はできない。
そもそも最初は、登下校が一緒になっただけだ。流れでなんとなく話を聞いて以降、一カ月近く経つ今でも愚痴を聞いてくれる。
しかもあまりに同じ夢が続いているからと心配して、いろいろ調べてくれてもいるらしい。こうまで考えてくれる人が悪い人のわけがない。
嫌いなはずもなく、初めからよかった印象が、今では絶対に近い信頼を抱いている。
「それは、そうだけど」
「そうでしょ?」
「――なんだけど」
恋愛感情というなら、夢で見るあの、中国風の男性に向けたものの方が近いかもしれない。
克海と一緒にいて、恥ずかしくなったりして赤面することはあっても、胸が高鳴ることはなかった。
そう。おかしな夢が原因で奇異な出来事が起こっているとしか思えないのに、あの人には会いたいと思ってしまっている。
夢の中とはいえ、傍にいてドキドキするのはきっと、殴られるかもしれない恐怖だけではなかった。
「ま、焦んなくてもいっか。今年一年同じクラスだし、まだ始まったばっかりだしね」
口ごもった胡桃を、励ますつもりなのだろう。また誤解を招いちゃったのかも、とは思うが、後の祭りである。
「じゃあわたし、ちょっと行ってくるね」
言われて、ようやく目的地に着いていたことに気づく。
貴重な昼休み、無目的に校舎内を散歩していたわけではない。五時限目が教師の都合で自習となったので、その時間にするプリントを取りに来るよう、日直に指示が出された。
その日直が香織なので、職員室まで付き添ってきたのだ。
「あ、中村さん! こっちこっち」
失礼しまーすと職員室のドアを開けた香織を、呼ぶ声がした。
目を向けると、プリントの束を抱えた小野先生が廊下の向こう側から歩いてきているところだった。
「今、ちょうど刷り上がったのよ。待たせずすんでよかった」
にっこりと笑う顔が、爽やかだった。
たぶん三十歳前だろう。すごく美人というわけではないが、いつもスーツもおしゃれで、優しくて生徒からの人気もある、英語教師だった。
この先生が今年も担任でよかったと、始業の日に思ったものだ。
小野が廊下にいるのに、職員室に入る必要はない。失礼しました、と室内に声をかけて、ドアを閉じると、香織は小野の方へと歩き始めた。
見れば、小野が持つプリントはさほど多くない。もし多いようなら手伝おうとついて来たのだけれど、必要はなさそうだった。
離れていく後ろ姿を見送って、ふと、視線を外へと向ける。
職員室の前の廊下は、中庭に面していた。運動場の場所取りができなかったのか、十数人くらいの男子がサッカーをして遊んでいる。
わぁわぁと声を上げて走り回る彼らを、微笑ましく見ていた。
「――あっ」
驚いた声に、緊張の色が見えた。同時に、強い焦りも。
理由はすぐにわかった。一人の男子が蹴りそこなったのだろう、ボールが校舎の方へと飛んでくる。
窓ガラスに、直撃のコースだった。
――廊下にいる、香織にも。
このままだと、窓ガラスを割ったボールがそのまま、香織にぶつかる。
それだけではない。割れたガラスの破片が、香織を傷つけるだろう。
血まみれで倒れる姿が脳裏に浮かんで、ゾッとした。
声を上げる間もない。声をかけても、反応し、逃げるだけの時間はなかった。
――危ない……っ!
怖くて目を閉じ――その瞬間、意識が途切れた。
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