第三章
1.モノトーン
雨だ。
頬に滴を受けて、胡桃は空を見上げた。
大きな雨粒が少しずつ量を増し、それに伴い濡れる服が、肌が、冷たくなっていく。
――火照った体を、冷やしてくれる。
冷たい雨の優しさに包まれながら、ああまた夢かとげんなりした。
モノトーンの森を、雨雲が月や星も隠し、いつもよりもさらに深い闇に包まれている。
またこの子の夢か。どうせなら、いくら怖くてもあの人の夢の方がいいのに。
殴られることもある。怒鳴られることもあるけれど、あの人の姿を見るだけでどこか、嬉しい気分があるのも事実だった。
けれどこの、モノトーンの森の人物は――
いつも、辛い想いを抱え込んでいる。楽しいことなど、なにひとつ経験してこなかったかのように、虚無に包まれているのだ。
中でも今日は、一番ひどい。
悲しくてたまらなかった。胸が、絶望で満たされている。辛くて叫びたいのに、声は出ず、涙すら出てこない。
泣く資格など、ない。こうやって雨が流してくれることさえ、本来は許されないのに。
怖くて、目を落とすことができない。腕の中のぬくもりが少しずつ冷たくなっていくのは、自分と同じ、雨のせいではないとわかっているからだ。
ぬめる血が、雨に洗われて流されていく――彼女の命を、奪っていく。
歯の根が合わず、ガチガチと嫌な音を立てた。堪えようと唇を噛みしめる。
食い破ったのか、口中にも血の味が広がって、吐き気が込み上げてきた。
夢だ。これは、夢なんだ。
いい聞かせるためにくり返すのは現実の胡桃か、それとも「胡桃」か。どちらなのか判別がつかぬほど、二者の感情も声も重なっていた。
イヤだ、逃げたい――こんなの、見たくない。
より強く願ったのがどちらかもわからぬまま、固く目を閉じた。
ふと雨が止む。
――否、場面が変わったのか。腕の中からはぬくもりも重さも消えていた。
代わりに、ほんのりとあたたかく、柔らかなものに体を包まれている。
どうしたのだろう。思いながら、ゆっくりと瞼を押し上げた。
まず見えたのは、高い天井。木造なのだろう、梁などがはっきりと見えていて、少なくとも胡桃の家や祖父宅ではない。
見知らぬ部屋に、寝かされている。
ホッと息を吐いたのは、安堵よりも疲労のせいだった。場面は変わったけれど、人物は同じだとわかってしまう。
ただ、あのときに感じた絶望はない。あるのはどうしようもない、喪失感だけだった。
――彼女はきっと、助からなかったのだろう。
泣くことすらできぬほどの悲しみに、押し潰されそうだ。
ぼんやりと見上げる天井が、スクリーンのように情景を映し出す。
きっと、あのモノトーンの森だ。けれど木々の緑や夕日の赤、美しい色に彩られていた。そこではあの、美しい少女が笑っている。
こうやって、彼女が笑っていてくれれば幸せだった。けれど――
おれが、壊した。
聞こえたのは、胡桃の視点の主が発した声か。頭の中に直接響く声は、淡々としているだけに切ない。
声は続けた。なのになぜ、お前は生きている、と。
ゆっくりと、気だるげな動きで腕を持ち上げる。
大きな手だった。
けっして胡桃ではありえない、節の浮いた逞しい手の甲。戦う男の手とは、こういうものだろうか。
もっとも、肌の色はとても白い。胡桃自身も大概白いが、男の手も変わらないくらいだ。青い血管が浮いて見える。
痛々しかった。同情と呼ぶよりは、共鳴に近いのかもしれない。ゆるゆると胸をしめつけられる。
救ってあげたいと思うけれど、なにができる?
共感して、こうやって胸を痛めるだけしかできないではないか。
どうやったら、わずかでも気持ちを楽にしてあげられるのだろう。
――そうだ。もう、楽にさせてくれ。
頭の中で、男が囁く。同時に、手の中にあったものを握りしめた。
手の中にあった――短刀の柄を。
最初は、なにをしようとしているのかわからなかった。白刃を眺める男の心境はとても静かで、穏やかだったから。
彼がふと、笑みをこぼすのがわかった。緩慢とした調子で、瞼を下ろす。
閉ざされた視界の中で、彼女の姿が浮かんでは消えた。あれだけ泣かせたのに、思い出すのはいつも、笑顔だった。
目を開ける。遠くに、木目の天井が見えた。手前には、短刀を握りしめた自分の手。
それがゆっくりと近づいてきて、喉元にピタリと刃が当たった。
「――今、行く」
穏やかな囁き声と同時、男は自らの手に力を入れた。
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