#20

 きびすを返し、ベルベットのスカートをなびかせて、大通りを歩きだすドロシーのママについていく。初めて歩いた時には廃墟かと思うくらいに寂しい街並みに恐怖心を感じたが、今となってはこの物悲しい風景も、ひとつの場所としてあるべき姿なのだと幼い心は受け入れつつあった。ウサギの幻が現れては消える現象も含め。

 少し歩いて、店からあまり遠くない、周囲の建物よりは少しだけ大きなアパートに、ドロシーのママは入っていく。ところどころに丁寧な修繕の後が見られる、古めかしいレンガの壁に挟まれた廊下をすぎてから、幅の細い、石造りの階段を上る。ギャラリストと並んで歩くのは少しだけ窮屈だった。

「あの……ドロシーちゃんは今どうしているの?」

 つたを垂らす観葉植物の鉢を壁に飾った、電光の明るい踊り場で折り返す。前を歩くドロシーのママに、主人公は聞いてみる。

「お店でお世話になっていますよ。……あなた、あの子といっしょに絵本を読もうとしてくれたのですね。ドロシーは喜んでいました」

「わたしでよかったら、いつでもつき合ってあげるよ」

「ありがとう。主人公ちゃんは、とてもいいお姉さんになれますよ」

 狭く長い廊下の、階段から一番離れた角部屋へと案内されていく。ドロシーのママはスカートのポケットから鍵を出して挿した。だが、なかなか部屋へ入ろうとしない。……白目の黄ばんだ、やや老けてみえる赤い瞳で、しばらく主人公の姿を見おろしていた。

「おい、早く開けないか」

「ええ、分かっています。でもギャラリスト。私は、先にあなたと……ふたりで話したい」

「何についてだ? ……この子は必ず街から帰る。安易な決めつけでこの子の人生を奪う真似がしたいという話であるならば、断ろう」

「そんなつもりなんか……」

「……」

 ギャラリストは、主人公の方を向き、おもむろにその場へしゃみこんだ。その顔に眼があったなら、紙の人形の姿をしっかりと映しこみ、真正面からとらえていただろう。紙の頭に、重い手を乗せる。

「いいか。君が今まで見ていた世界や目標は、とても矮小で、異質な価値観の箱庭だ。……これから世の中は大きく変わろうとしている。君が生きる限り、君が必要とする、される場所はきっとある」

「……どういうこと」

「君が失ったものは、本質的には重要などではない、ということだ。……扉を開けろ」

 紙の頬を優しくなでてから、ドロシーのママに開けさせた扉の奥に、主人公の手を引き入っていく。電灯が点き、アパートの一室が明るみになる。主人公にはまず奥にある、分厚い書籍がたくさん詰まった大きな本棚、それと古い型のテレビが見えた。ひとつしかないベッドの上には洗濯物が散らかされている。意外とだらしなく、殺風景な部屋に思えた。カーテンはタバコのやにで染まっている。机にはオイルライターと、吸い殻の積もった灰皿が置かれている。遊び道具や教材どころか、子どものための服や日用品さえなぜか見あたらない。

「……これか」

 ギャラリストは机の後ろにある、ひとり掛けのソファーのそばに近づいた。しわくちゃのシーツに包まれた何かが横たえられている。ちょうど子どもの胴体ほどの大きさだ。

「はい。それが、頭と脚を盗まれた、その子の残りの体です」

 ドロシーのママはベッドに座ってうつむいていた。

「ねえ、……なんであなたは、わたしの体を持っていったの?」

「それは……」

 シーツをほどこうとするギャラリストの動向はもちろん気になっていた。だが今の主人公にとっては、これも心がかりなことだった。

「……あなたに……帰ってほしくないから。ドロシーの遊び相手もいなくなってしまいますし」

「……なんで、そんなことで……?」

「いえ。きっとただ悲しいだけなの。あなたのような、素晴らしい資質の子が、世の中には数え切れないほどいるというのに。彼ら彼女らが有象無象の思想に穢されていくのを私は何とすることもできなかった。私は誰の心も動かせないのだ。ひとりも救えずに……」

 恐ろしいほど早口になっていく彼女のセリフを、シーツに隠した胴体をベッドへと運びながらギャラリストも聞いていた。

「お前の考えは理解できない。だが、最初から純粋に私の邪魔をしたかったのは分かった。今思うと、店の一室をひどく汚したのも、子どものいたずらを再現したのではなく、悪意があって選んだお前自身の行動だったのだろう。……あの水あめのブリキ缶は、子どもの腕力で動かすことなんかできないはずだ」

 今の言い方だと、まるで初めて店に行った時、ドロシーのママもあの場所にいたかのように聞こえるが、そうだったのだろうか? ……主人公としてはドロシーとそのママについて、まだ腹立たしさなどは感じていない。自分とギャラリスト(レイコと凍死体も?)に迷惑をかけた張本人なのは間違いないのだが、その裏にある思惑が理解できないうちは、何かを思う資格がないような気がしていた。それに、今は一過性の感情なんかより、自分の体が手の届く場所にある事実の方がずっと大ごとだ。

 主人公もベッドのそばに近づく。自分の体を覆うシーツに触れ、めくろうかどうか迷いながら、ギャラリストの方を見る。

「ああ。それが君の体だ。……これで君は、この街から決別できる」

 ……口をついて出そうになったセリフは、ごめんなさい、だった。しかしギャラリストが望んでいる言葉はきっと、これではない。

 そっとシーツを持ちあげる。リネンの、薄汚れたベッドカバーの上に、新雪のように白い、やや型崩れしたショートパニエの衣装をまとう胴体が横たわっている。

 それを見た途端、からっぽの胸が苦しくなる。自分にあてがわれたこの衣装を、主人公はとても大切にしていた。これを着て、舞台の一部になることこそが、自分の生命の価値だと……思っていた。

 銀のブローチに飾られた胸に手を重ねる。中身がぎっしり詰まった、あたたかい体の奥で、規則正しく心臓が動いている。

 シーツをすべて取り払う。

 主人公は、

 ――すでに心からゆっくりと気化して、失われた記憶がある――

 自分の、生身の手を確かめる。

 浅黒い肌の、包帯を厚く巻かれた、細い手首の先。

 左手は小指と薬指が、右手は親指以外の四本が、根元から消えてしまっている。これは奪われたためでは決してないと、もう思い出していた。紙の頭で、消えかけている記憶の残滓が、かろうじて本当の自分の姿を覚えていた。

「……私も、街を出た時には……必ず君を探しに行く」

 ……主人公は、今の自分が動かすことのできる、脱げない手袋をじっと見つめた。簡単に壊してしまえるもろい紙の、左手の小指をくしゃりと折り曲げる。この体に痛みは走らない。それから薬指。つぶれて、たたまれた指は動かせなくなった。形あるものは壊れる、と言ったのはギャラリストだった。

「君に、その体を当てがった私は……正しかったのだろうか」

 もともと閑静な一室だったが、今は本当に静かに感じられた。

「いいの。今のはただ……本当の体はこうじゃないんだって、忘れないために壊してみただけ。不便がないようにくれた体を変えてしまって、わたしこそごめんなさい」

 右手の指も、小指から曲げていこうとする。その時ふと、ひとつの約束を思い出した。ピトフーイにピアノを聞かせてあげる、と主人公は言ったのだ。それにこの体は確か、……。わずかな後悔が頭をよぎる。けれども、いや、……やっぱり、一応まだ、残しておこう。右手袋の指は、壊さなかった。

「世の中は、きっと良くなる。時代が変わって、人は気づき始めた。感情的な、ばかばかしい理由などで、誰かを傷つけるようなものは排除されていって……本当に努力できる、思いやりのある人のための世界になっていく。きっと君の生きる未来は、私が育った時代よりもずっと良くなる。だから大丈夫……」

 ギャラリストは言い聞かせている。頭と脚と指のない小さな体に、限りなく優しく触れる。その体を持ち上げ、抱きとめていく。

「うん、大丈夫よ、ギャラリストさん。きっとあなたもいつか絵を見つけて、街から出られるわ」

 人形の体は、欠けた部分を補うことも、不要な部分を手放すことも容易だ。そしてこの街だけはそれを許してくれるものだと、主人公はもう知っていた。……両腕で子どもの胴をかかえ、大柄なマネキンが体を起こすと、体重のかかったその右足が深く沈みこみ、鈍い金切り声のような音が響く。

「君にそう言われると、すぐにでも本当のことになりそうだ。……さあ、帰ろう」

 主人公は小さく返事してから、机に立てかけられたエボニーの杖を拾い、ギャラリストの後ろについて行く。

「ああ、帰ってしまうのね。あちらがわに……あちらがわで……」

 ドロシーのママは、さっきまで主人公の体が寝かされていたひとり掛けのソファーに座って、ずっとふたりを見ていたようだった。

「自分の心さえ動かせなかった私を許して……」

 ドアを閉める直前に聞こえたつぶやき。その低い声は枯れていた。

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